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(今日は昨日、トトが持ってきた紙を見る)
一応、シュクルには魔王としての職務がある。
ティアリーゼも驚いていたが、人間のものと同じか、それ以上の仕事だとのことだった。実際シュクルにはほぼほぼ理解できていないため、トトに任せていることの方が多い。
シュクルが把握しているのは自らが治める大陸レセントの地理と、どこにどういった種族が住んでいるか、問題の多い地域はどこか、といった程度である。
先日、雨期で治水を行う必要があるという話をトトに聞かされた。泳げないものは皆弱いのだから仕方がないと思っていたが、側にいたティアリーゼが真剣に考えているのを見て、少しだけ考えを改めた。
正直なところ、シュクルはティアリーゼ以外のものに興味がない。
しいて言うのなら、ときどきやってくるキッカが意識の範囲内にある。シュクルにとっては、会話を学ぶいい検体だった。
初めて会ったとき、翼をむしったらどうなるかと考えていたことは言っていない。キッカが初期のシュクルを恐れていたのは、そういったことを本能で察していたからなのだろう。
かたん、と聞こえた音に顔を上げる。
ティアリーゼがやってきた――と気付いた瞬間、シュクルの尻尾は本人が顔に表情を作る前に大暴れした。
「おはよう、シュクル」
「おはよう、ティアリーゼ」
(これも好きだ)
ティアリーゼはシュクルと挨拶をしたがる。
あまり他人に応えてもらったことのないシュクルは、このやり取りがお気に入りだった。
「起こしてくれたらよかったのに」
「だが、お前はよく眠っていた。眠りが必要だからではないのか」
「そうかもしれないけど……。シュクルと一緒にご飯を食べたかったの」
(明日からは毎日起こそう)
ぱたぱたと尻尾が揺れる。
それを見て、ティアリーゼが微かに笑った。
ティアリーゼに供される食事はシュクルのものとまったく異なっている。
人間の口にシュクルの食事は合わないらしく、せめて肉は焼いてほしいと訴えられたのは記憶に新しい。
火を恐れないシュクルだから構わないが、もし火を恐れる亜人に言えば問題になるだろう。
「今日はティアリーゼの好きなものがある」
「……あら、本当。朝からいい思いをしたわ」
「私のものも欲しいなら、好きにするといい」
「いいの?」
「好む者が口にするべきだ。私はあまり好まない」
「じゃあ、もらうわね」
ティアリーゼがシュクルの皿からデザートを持っていく。
食事の前に甘いものを食べるというのは理解を超えていたが、ティアリーゼがしたいなら別に構わなかった。
す、とティアリーゼが自分の皿を見せてくる。正確にはその中身を。
「あなたも欲しいものがあるならどうぞ」
「お前が欲しい」
「……後でね」
「後ならばいいのか」
ぴんと立った尻尾が大騒ぎする。
今日はティアリーゼの機嫌がいいらしい。
デザートを与えると自分の求めを拒まなくなる、と間違った事実を学んだ。
「今がいい」
「今はご飯だから、だめ」
「早くしてほしい」
「あなたにはあなたの都合があるように、私にも私の都合があるのよ」
ティアリーゼは優しいのに優しくない。
自分の思い通りにならないそういうところでさえ、好きだった。
「ティアリーゼ」
「なに?」
「朝からずっと、お前のことを考えていた」
「そうなの? どうして?」
「わからない。だが、私はとてもお前が好きだ」
「ふふふ、私もあなたのことがとても好きよ」
微笑みかけられて、シュクルはこの上なく幸せな気持ちになった。
そんなティアリーゼの顔を見ると、シュクルの頬はいつも柔らかくなった。
いつか溶けて落ちてしまうのではないかとこっそり心配しているが、本来はこういうものだと言う。
「嬉しそうね、シュクル。いつもよりいい笑顔をしているわ」
「お前が私を好きだと言ったから」
本当に朝からいい思いをしたのはシュクルの方だった。
目を覚ましてから一時間も経っていないのに、もう、一日分の幸せを味わっている。
しかし、これが白蜥の魔王夫妻のいつもの朝である。
側に仕える使用人たちが「微笑ましい人たちだ」と思っていることも知らず、シュクルはティアリーゼがいる喜びを噛み締めて、小さく鳴き声を上げたのだった。