第六十話
さて、一方のヴィルヘルム側。事実上異国に二人残された彼らだったが、どうにかこうにか上手く国政を回す事が出来ていた。
いや、「二人で」出来ていたかというと著しく疑問が残る所だが。
(暇だな……)
ヴィルヘルムの目の前では、数多の人間の職員達が慌ただしく書類仕事を片付けている。まさに役所といった風の空気の中、しかし彼だけは何をするでもなく手持ち無沙汰に特製のデスクで踏ん反り返っていた。
なるほどこの光景だけを見ればただの社内ニート……いや、仕事もせずに圧だけかける迷惑上司にしか見えないだろう。まあ結論としてそれは間違いとは言えないのだが、彼にも一応弁明はある。
なにも不精である彼とて、仕事もせずに偉そうな顔を出来るほど厚顔無恥ではない。斬鬼達が旅に出た当初は、自ら手伝おうとミミに言い出した程だった。
『そ、そんな滅相も無い! ヴィルヘルム様のお手を煩わせる事もありません!』
だが、当然ながら斬鬼の教えを受けた彼女がそんな雑務を彼に振るわけもなく。それでも必死に(ヴィルヘルム基準)頼み込んだ結果、ようやく貰えた仕事がこれだったのだが……
「ヴィルヘルム様。こちらの書類にサインを」
「……ああ」
暇過ぎて羽ペンを弄んでいたヴィルヘルムの元に、ミミが一枚の書類を差し出す。見れば殆どの部分は文字で埋め尽くされており、末尾の部分だけサインを記す部分が空いている。促されるままに自身の名前を書いた。
そう。これが今の彼の仕事。時々渡される書類に認可を下すという単純なものである。果たしてこれは仕事と言えるのだろうか、そもそも自分は仕事をしにきたのでは無かったのかとヴィルヘルムの頭にはいろいろな考えが浮かぶが、最終的にはそれを放棄していた。
とはいえ彼も最後の抵抗というべきか、一切なにも見ずに認可を出している訳では無い。もとより書物は幼少の頃よりの友、寧ろ友は書物しかいないと言えるほどの勢いで様々な本を読んできた彼だ。字を読むという行為は左程苦にはならない。
「……ふむ」
とはいえ、字が読める事と内容を理解できることは必ずしもイコールではない。専門用語ばかりの書類を前に、一切理解が叶わなかったヴィルヘルムはとりあえず静かに腕を組んで考えるふりをした。
「何か気になられる点でもありましたか?」
小首を傾げて問いかけてくるミミ。この無垢な表情と仕草に騙され、彼女を小馬鹿にしては散っていった人間の役人が一体何人いる事か。もとより高いポテンシャルを秘めていた彼女が斬鬼の教えを受け、更にスキルまで手に入れたミミにとって、一国の政務を統括することなど左程難しいことでは無かった。
因みに他の役人を実力で叩き潰した際には、とてもヴィルヘルムには聞かせられない程の暴言を吐いていた為、後々それが癖になった者もいるとかいないとか。少なくとも水面下で密かにファンクラブの設立が始まっているのは誰も気づいていない事である。
「……いや、少しな」
「少しでも気にかかることがあるのでしたら遠慮せずに仰ってください! 私共はその疑念を解消するべく、全力を尽くさねばならない責務があるのです。御手自らをこうして煩わせているのですから」
いつも通り誤魔化そうとしたヴィルヘルムだったが、今日の張り切っているミミには通用しない。このキラキラとした眼差しを無理やり断ち切るのは至難の業である。
「……三行目。俺が気になったのはそれだけだ」
結果選んだのは、自身が理解できなかった単語がずらりと並ぶ部分。ついでに文の解説もしてもらえれば御の字という考えである。実にこすっからい。
「三行目……これは国境付近の防衛砦からの報告? 『東部国境異常無し。変わらずの補給を求む』……文面としては普通ですが、一体何が……」
腕を組み、深く考え始めるミミ。ヴィルヘルムの思い付きに振り回される様はいっそ滑稽ですらあるが、彼女からすれば至って真面目であり、考えるだけの価値がある情報なのである。
ブツブツと様々な思考を巡らせる彼女だったが、そこに一人の職員が声を掛ける。ヴィルヘルムとは違い、快活そうな明るい男性職員だった。
「ミミさーん、この書類も完成したんでここ置いときますねー」
「……丁度良い、この際お前で良いです。東部の国境に何があるか分かりますか?」
急に声を掛けられた男だったが、面食らいつつも素直に答えを返す。
「丁度良いって……まあ良いッスけど。東部の国境ならほら、確かレグルス共和国に面してるとこッスよ。結構大きい砦があった気がしますけど」
「そのくらいは知っています。他に何か重要な部分があるのかを聞いているのです」
(やめてミミちゃん! 俺の適当な指摘で部下にパワハラしないで!)
自分の発言一つでまさか全く見知らぬ人が怒られてしまうとは。若干の責任を感じないでも無いが、それを留めるほどの度胸もないのがヴィルヘルムという男である。
だが、そんなパワハラじみた質問にも挫けることなく男は飄々とした態度を保っている。彼らが魔人族である事は知っている筈だが、案外豪胆なのかもしれない。
「うーん、他のと言われましても……何か気になることでもあるんスか?」
「チッ、使えない男ですね。この書類の上から三行目をヴィルヘルム様が態々指摘なされたのです。何かあるに決まっているでしょう。分ったなら頭を垂れて感涙に咽びながら恭しく読みなさい」
「へへ、ちょーっと失礼しますねっと……」
書類を受け取り、サラリと眺める男。読んだ瞬間にその表情は訝しげな物へと変わった。
「ああ、確かにちょっとおかしいっスね。他の場所ならともかく、東部の砦でこの報告はかなり変っス」
「……理由は?」
「レグルス共和国って、建国以来うちといざこざが絶えないんスよ。あそこからの報告書ならほぼ確実に何かしら問題とか補給物資とかを要求してくる筈なんスけど……」
まあ仲直りできたって事っスかね? と呑気に笑う男を尻目にミミは考え込む。
「普段ではあり得ない平穏な報告……中枢が落ちたこのタイミングで……? 砦の人間もこれについては当然知っている筈ですが……」
その瞬間、ミミの脳髄に閃きが走る。
「……報告がカモフラージュだとしたら?」
国境の防衛隊が全て反旗を翻す。ヴィルヘルムがいる限り敗北は無いが、それでも完全なる統治からは著しく遠ざかる。そんな最悪のイメージが彼女の頭を過ぎった。
であれば、反乱を起こす前に内々に処理する他ない。幸いにして皇国軍本隊は、直々に斬鬼が一度面と向かって叩き潰した結果、ある程度指示を下すことが出来るようになっている。鎮圧まではいかずとも、偵察を送ること自体は出来るだろう。
「そこのお前。今すぐ勅命用の書類を作るのです。大至急で」
「え、これから休憩時間の予定だったんスけど……」
「お前の給料だけ無くすことも出来るのです。手始めに名前を教えなさい」
「わーい! 残業万歳!」
「初めからそう答えれば良いのです……しかし、流石はヴィルヘルム様でございます! 既に私のような浅薄な知識ではなく、周辺国の関係まで把握していたとは! ひたすら感服する次第でございます」
「…………ああ」
慌ただしく準備を始めるミミ達。その後ろ姿を、いつの間にやら話についていけなくなったヴィルヘルムは茫洋と見ていた。
(……ん? あれ? 仕事終わり?)
……正に社内ニートの鑑である。




