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水銀の女神

作者: 岡田孝

それは、ある雨の日の昼下がりのことです。

いつものようにふらりと町へと買い物へ行ったのです。春ということもあってここのところ長雨でしたから、地面がぬかるんで足をとられてしまいました。


「あっ……」


何にも気づいていないのに、まるで自分が転ぶことを理解していたかのようにうろんな声が喉から漏れました。それはきっと、そのあとに“べしゃり”という効果音によってさらに陰鬱たる余韻を残し、水溜まりを揺らしたことでしょう。

ですが、あの方がその声も、余韻も、雨も惨めさも何もかもを受け止めてくださったのです。


「大丈夫ですか?」

「え、えぇ……」


あの方の腕に抱かれ、私はなにか砂糖菓子を食べたときのような、強烈な感覚に頭を揺さぶられたのを今でも覚えています。

たくましい腕。ここにいると存在を主張する心臓の鼓動。少しはだけた胸元はガッチリとしていて、いかにも、いかにも男らしい様子でした。


「お怪我は?」

「大丈夫です……」


そこで私は、嘘をつきました。いじましい女の嘘です。大丈夫だと言ってあの方から離れたあと、あろうことか私はしかめ面をしたのです。そして、ちらりと、足を、私のこのか細い女の足を見たのです。


「……足の具合が悪いようですね。送っていきましょう」


狙い通り、あの方は私を家まで送っていこうといってくださいました。

一目惚れでした。


「いえ……」


そういって私はわざと、少し足を引きずるようにしてぱたぱたと走っていきました。泥を跳ばさぬよう、水溜まりに足をとられぬよう、器用に走っていきました。


「あ……」


そういってあの方が私を呼び止めようとして、喉からこぼれたその声も、私は当然聞き漏らすことがありませんでした。



それから数日後私は性懲りもなく町へと出掛けていきました。あの方に会うためです。

会えるだろうか、いや、会えないかもしれない。でも、会えない方がよいのかもしれない。でも、でも、あぁ。

そんなことばかりを考えながら歩いていると、当然前などは見ているわけもなく、私は人にぶつかってしまいました。

あの方でした。

なにか運命というものなのではないか、前世での縁なのか。そう思いました。


「あぁ、この前の。お怪我は、もう?」あの方は少し心配そうにおっしゃいました。

「えぇ。あのときはどうも……」

「なんだ、知り合いか?」


お連れのかたでございましょうか。軍帽をかぶった男のかたがからかうような声でおっしゃいました。


「いや、この前少しな」

「ふーん……。いや、しかしお美しい。お名前はなんと?」

「その、私は___といいます……あの、よろしければ、あなた様のお名前も……」


そのとき、軍帽の男がなめるような眼で私を見るのを感じました。


「私は___です。こっちは____。」

「……」

「えぇと。よ、よろ、しく、おねがします」

「……ちょっと」


軍帽の男があの方の肩に腕をまわし、なにかを耳打ちしました。なにか、私が悪いことをしてしまったのでしょうか。不安な気持ちが胸の奥底からぐじゅぐじゅと音を立てて、私を腐らせようとするのを聞いていました。


「そんなまさか……」


あの方は声をあらげ、軍帽の男の腕を払いました。ほんのりと顔を赤くしていらっしゃいました。……もしかすると、私と恋仲だと疑われ、照れてしまったのでしょうか。そんな浮わついた期待をしたことを、私は白状しておきます。


「ともかく、送ってやりな。男としてな」


軍帽の方はそんなようなことを言って去っていってしまいました。

残されたのは私たちだけ。蜂蜜のように甘く心の奥に溶けていくようなむず痒い沈黙が私たちを溶かしていました。


「では、その……」

「えぇ……」


その沈黙に浸ったまま、私たちは歩きました。あの方は、私の歩幅が短いことを感じとると、ふと微笑んで歩く早さをゆっくりにしてくださいました。その顔はなにかを慈しむようなお顔でした。

歩いてしばらくすると、男に出会いました。その男はよたよたとした足取りでプルプルと震える姿を私の前に表しました。


「……!」


プルプルと震える唇でなにかを言ったのかもしれませんでした。しかし、私には何をいっているのかさっぱりでした。

それでも、私は非常に悲しくなって、その男を見つめていました。


「あの、なにか……」

「……!」


やはり男は、私になにかを伝えようとしているようでした。いえ、私ではなく、あの方にかもしれませんが。

やがて男は膝から崩れ落ち、座り込んでしまいました。それでも、足も唇もなにもかも、ぷるぷると震えていました。


「……行きましょう」


私は急かすようにあの方に声をかけました。


「あ、あぁ……」


私に合わせてゆっくりとあの方は歩き始めました。ざっ、ざっ、という足音はただその場にとどまり、私たちのことを見ている、じっと、見ている男の、震える相貌と共に、深く深く、留まりました。



送っていただいてただ帰っていただくのも、と私が駄々をこねたため、あの方には家へと上がっていただきました。

あの方が畳の縁を踏まないように気を使って歩いてくださるのがとてもとてもいとおしくて、一目惚れなのにここまで心奪われるものかと自分でも不思議なほどでした。……とはいえ、あの方が部屋のものをさも不思議そうにちらりちらりと見なさるのは非常に恥ずかしく、少しすねたような気持ちにもなってしまいました。すごく、恥ずかしいような、私に興味を持っていただけたのかと、むず痒いような……


「先程の男性は?」


ようやく切り出した、というようにあの方がおっしゃいました。


「私の、古い恋人です」

「ということは、噂というのは……」

「えぇ。私が男をダメにする。ですよね?」


あの軍帽の男が耳打ちしたのはこの事だったのかと、私ななんだか裏切られたような気がしてなりませんでした。けれども、そのようなことは、あの方にそのことを知られてしまったという深い後悔のような感情の前では些末な問題でした。


「お付き合いする方々は、次々と私にお別れをお告げなさるのです。そして、別れたあとは震えるばかりで私になにも言ってはくれない……」

「……」


あの方は、黙って私の言うことを聞いていてくださいました。

そして、黙って、あのたくましい腕で、私を抱き締めてくださったのです。


「私は、絶対にダメになどなりませんが、いかがでしょう。美しい人。……一目惚れなのです。噂など、どうでもよい。」

「ですが……」


また、心臓の鼓動が聞こえました。二度目にして、私はようやく気づいたのです。彼だけの鼓動でもなく、私だけの鼓動でもない。私たちは共に、音高く心臓を波打たせているのでした。そして、心臓の音だけが世界を支配しました。速く、強く。何よりも生きているということをひしひしと感じました。

耳が赤くなり、頭はぼーっとして、私に出来たことと言えば、


「はい……」


ただ、あの方を受け入れることを認めるだけだったのです。

私たちはなにも言うことなく、ふと離れました。恥ずかしかったのです。触れることも、なにもかも。


「おっ、お、おぉ茶を、いれてまいりますね?」

「はっ、はい!」


元気よく返事をなさるあの方も、私と同様、緊張しているのではないかと思うととたんににやけが止まらなくなってしまいました。ですが、人前で大声で笑うというのはあまり上品ではないことですので、そそくさと、その場から逃げるように台所へと向かいました。

ヤカンに水を入れ、火をわかし、お湯をとっておきの茶葉へと注ぎます。このお茶は私自身が飲んだことはないのですが、愛する人や家族がいつきてもよいように、いままでずっと用意し続けて来たものでした。とはいえ、あの方以外の方はみな、もうぷるぷるするばかりで、なにも聞いてくれないのですが。


うきうきとした気分であのお方の前にお茶をお出ししました。

何もかもがとっておき。湯飲みも、お茶も。そして今日という日もきっと。


「こ、これは、どういったお茶で?」


少し間が空いたのにまだ緊張している様子のあの方があまりにかわいく見えてしまって、自然と頬が綻んでしまうのをなんとか我慢しながら、微笑むようにして私はお返事しました。


「中国に古くから伝わる、長生きできるお茶だそうです。なんでも、王族の方も飲んでいたとか」

「……なんだか、すこし照れますね。とはいえ、気が早いのでは……」

「ですが、その、……そう、愛に時間は関係ないのでございます。」

「……これは一本とられましたな」


そういってあの方は、朗らかにお笑いになりました。それがおかしくて、私もつい、つられてしまいました。

この日の、この時間のように、この人が私のとなりでゆったりとお茶を飲んで、笑っていてくださる。そんな日々がいつまでも続いてほしい。そんな思いが私の心に、じわりじわり、ひたひたと、その手を伸ばしていくのを感じました。




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