無能導師の雑事録 序章
僕は危機に瀕していた。
このままでは学院にいられないのだ。
ここは帝立第二高等法術学院。帝国でも選りすぐりの才能を持つ者のみが集う法術の園。
我らが帝国の有する軍事力の中核を成す法術兵。主にそれを訓練する、帝国の三指に入る法術学院だ。
多くの市民にとっての憧れであり、この学院を卒業すればどのような道を選ぶににせよ、安泰な将来が約束される。
それというのも、この第二学院では身分、人種、性別といったあらゆる要素は入学の条件とならず、問われるのはただ法術の才能のみであるからだ。
ただ実践的な能力を至上とし、徹底して能力を叩き上げるという教育方針によって、この学院を卒業した者はどこに行っても通用するだけの地力を手に入れている。
帝国軍に入れば少なくとも上級兵である法術兵の待遇が約束され、能力次第では上級市民へ成り上がる道も見えてくる。
たとえ軍に入るつもりがなくとも、癒術を学べば医者としてどんな辺境でも喰うに困るまい。
そんな我らが学院に野望を感じる者は毎年多い。
相応に高くなる入学者倍率に集まるのは、それぞれの故郷でも一番の才能を持つ者たちばかりで、その中からさらに篩にかけられた真の天才のみが、この学園の敷居をまたぐことを許される。
かく言う僕も故郷の田舎町では名を馳せた天才というやつで、上級市民に成り上がるという野望を抱いてこの学院に入学した。
しかしながら。今、僕は非常に重大な危機に瀕していた。
その危機とは、すなわち学費だ。
先ほど、この学院は誰にでも門が開いていると言った。それは決して嘘ではない。たとえ奴隷だろうが辺境の蛮族だろうが、才能があるなら入学できるのは間違いない。
ただ、学院に居続けることができるかどうかは別の話ということだ。
この学院にも学費は存在し、その値段は学院の格と同じく一流だ。上級市民や大商人の子弟ならともかく、ごく普通の市民に払える額ではない。
しかし、学費のせいで帝国に莫大な利益をもたらすだろう才能を逃すのは惜しい、と時の皇帝は考えた。そこで、学院側が求めるだけの高い能力を示す生徒には、その能力に応じて帝国が学費を肩代わりする機構を作った。
通称を「才の秤」。
さて、この才の秤は皇帝陛下の資産であるところの国家予算から出ているわけだが、それをもってしても学院の経営は常に赤字である。
帝国全体の利益で考えれば素晴らしい利益を挙げてはいるのだが、学院自体が受け取る利益は不足していると言わざるを得ない。
そのため、いくら金をつぎ込んでも成果を上げられない生徒を抱え込む余裕などなく、設けた基準以下の能力しか示せない場合、実力主義を掲げる我らが帝国は容赦なく支援を打ち切るのだった。
そして、その成果を上げられない生徒になりかけているのが僕、というわけだ。
今はまだ学院の基準を満たしているため、才の秤の恩恵を受け取れている。しかし、下降を続ける評価に歯止めをかけられず、このままではこの学園を追い出されるのも時間の問題だ。
無論、僕自身努力を怠ってはいない。毎日の自主訓練は当然として、積極的に導師に指導を乞うて自分の内に反芻し、寝食を削って法術に身を捧げている。
しかし、それでも周囲との差が開いていくのだ。
ああ、僕だってわかっているのだ。僕にとって最も大きな問題とは、何が問題なのかわからないということなのだと。
「アーチ導師。どうか僕に指導をつけてください!」
万策尽きた僕は、今まで避けてきた禁じ手をとった。
深く頭を下げる僕の前に立っているのは、帝国民特有の金の髪と翠の瞳を持つ男装の麗人。
帝国でも史上類を見ないほどの法術の天災、もとい天才。たった一人で帝国が有する法術兵団全てに釣り合うとまで称される生きた伝説。
“極彩公”アウローラ・アーチ客員導師だ。
下げた頭の上で、アーチ導師は溜息をついたようだった。よく通る低めの声が降る。
「君、私の立場はわかっているだろ?
私は客員導師だ。はっきり言って学院の箔付けのために籍を置いているようなもんで、君の指導を担当すべきではないのだよ。
私に教わりたいっていう君みたいな生徒は結構居るんだけどさ。
生徒の指導っていうのは学院に勤める導師の立派な仕事だ。私が横から奪うわけにはいかないよ。
その虹の襟章、君は属性術専攻だろ?
だったら担当はミラー導師だからそっちに行きたまえ」
明らかに適当にあしらわれている。僕は噛み締めた歯の隙間から言葉を漏らした。
「……ミラー導師ならもう訪ねましたが、僕の問題は解決しませんでした。
あの方からはもう無理だと言われましたが、諦めきれません」
僕は顔を上げ、もう一度彼女の顔を見た。
至極つまらなさそうな様子で肩まで伸ばした髪を弄る彼女に、もう一度、今度は膝をつき、地に伏して頭を下げる。
「どうかお願いします。僕にできることならなんでもします。僕にご指導を」
頭上からどこか迷っているような気配が伝わってくる。
それはそうだろう。この学院に入った者たちは天才揃いで、今まで頭を下げたこともないような矜持の高い奴らばかり。ここまで熱意の入った懇願をする生徒など見たこともないはずだ。
「そんな恰好はやめたまえ。品位が疑われる」
声にも困惑が滲んでいる。ここが勝機だ。さらに押す!
「お願いしますッ! どうか、どうか!」
周囲に響くほどの声を上げて視線を集める。今はまだ授業が終わってからそれほど時間も経っていない。学院にも人が残っているため、少なくない量の視線が突き刺さるのを感じる。
恥など知ったことか。このまま追い出されて故郷に帰る恥辱を考えればこの程度。
その体勢のまま一分ほど待つと、溜息が聞こえた。
「あのね。疑われるのは君じゃなくて私の品位なのだよ。
私が生徒を這いつくばらせて喜ぶ輩みたいに思われるだろう?
ほら、わかったらさっさと立ちたまえ」
……駄目か。僕は歯噛みしながら立ち上がる。
うつむく僕に、彼女は抑えた声で呼びかける。
「君、私に教えを乞いたい気持ちは理解できるよ。なんたってこの私だものね。
歴史に名を刻む天才たるこの、私、だものね」
僕にもうその声はほとんど聞こえていない。
「いつだって私は頼られてしまう。最後の希望として」
学院を追い出される、その避けようのない事実だけが頭に渦巻いていた。
「それも仕方ないことさ。なんせ、この……私ッ、なのだから」
故郷で待つ、いろいろと苦労を掛けた両親。幼い日に僕の才能を馬鹿にした奴ら。様々な顔が凄まじい速度で脳裏を流れてゆく。
「ああっ、やっぱり私最高……! さすが私ッ! 私愛してるッ!!」
最後に見るのは、家を出た日から何度だって夢に見た、故郷に錦を飾る自分の姿。
もう叶うことのない夢。
「あ、それと、君の処遇を考えたからね。ついてきなさい」
…………え?
「ほ、本当に僕、学院に居られるんですか!?」
「だぁいじょうぶだってぇ。私の言う通りにすればもう万事解決さ。
なんせ、このっ……私の考えなんだからね」
傾いた日で赤く照らされる学院の廊下を、アーチ導師について歩いていく。彼女の足取りは迷いなく、この方向にあるのは……。
「こっちって……!
まさか、学院長に直訴してくださるおつもりですか!?」
「そんなことしないよ。
なんでたかが生徒一人のために、あの狸爺に喧嘩売らなきゃならないのさ」
即答だった。彼女はさらりと学院長の部屋の前を通り過ぎる。
彼女は歩きながら僕のほうを振り返った。
「いいかい? 君の認識には間違いがいくつかある。
君は正当な評価の結果、学院の定めた基準から外れようとしているのであって、学院側には何の落ち度もない。君の才能や努力、そういった何がしかが足りないだけだ。
それなのにごねようなんて考え自体が甘いよ。
君が取るべき選択肢は2つ。潔く諦めるか、あくまで足掻くかだ」
「僕は最後まで足掻きます!
それに、アーチ導師からご指導いただければ必ず……っ」
「話はまだ途中だ」
導師は話を遮られた不快に顔をしかめ、立ち止まる。
そこにあるのは他の部屋に比べて明らかに大きく、豪奢な装飾のついた扉。
生ける伝説である彼女、アウローラ・アーチ客員導師に割り当てられた一室である。
「さっきも言ったがね、私は客員導師だ。君を直接教える立場にない。
そりゃあこの私が君に指導をつけるとなれば、君の成功は火を見るより明らかさ。
だが、それはミラー導師の面子を潰すことになる。
私にとっては彼の癇癪なんてそよ風より些細なものだけど、集団で生きていくなら人との衝突は気にしなきゃいけないものだ。
だから、私は君を指導しない」
彼女は少し歩を進めて豪奢な扉の前を通り過ぎ、その隣にあるごく普通の扉を叩いた。
扉に掛かっている名札は……。
「クラリッサ・キリコ准導師、兼、導師補佐、ですか」
「そう。ここにいる辛気臭い女が……。女が……」
返答を待たずに扉を開けたアーチ導師に続いて部屋に入った僕は、その部屋の様相に圧倒されることとなった。
本、本、本。
本来は導師に付き従う召使いなどが控えるための狭い部屋の中に、足の踏み場を探さねばまともに歩けないほど大量の本が置かれている。
先にこの本の山に踏み入ったアーチ導師は、大声を張り上げて誰かを呼んでいるようだった。
「この干物女ッ! 本で姿が見えん!
いい加減本を片づけろって私が何回言ったか覚えてるか!?」
その声に部屋の奥、本の山の向こうから静かな声が返ってきた。
「はい、覚えています。
今朝に仰られた分で恐らく400と37回です。今438回になりました」
積み上げられた本の陰からのそりと現れたのは、室内だというのに時代錯誤な鍔広の白三角帽を被り、墨に汚れて斑になった白い外套を纏う陰気な女だった。
「今朝から文献の整頓作業を始め、つい先ほど種類別に纏め終わりました。
不要になった文献が20冊ほど出たため、今から返しに行こうとしていたところです」
「お前ね、片付けろと言ったのはこの本の山を並び替えろって意味じゃない。
この部屋から全部どかして、床が見えるようにしろって意味で言ったんだ!」
「あ、あの!」
僕への指導をよそに、何やら言い争っている(というより一方的に怒鳴りつけている)アーチ導師に業を煮やし、僕は声を上げた。
「あの、導師。僕への指導は……」
雰囲気が陰陽対照的な2人の女性が同時に僕を見る。
外套の女性、キリコ准導師が僕の襟についた虹色の紋を見て声をかけた。
「あなたは、属性科の生徒ですか。
珍しいですね、アーチ導師。あなたが生徒を連れているとは」
アーチ導師はその言葉に答えず、キリコ准導師を指して僕に告げた。
「あー、君。君の指導役はこの干物女だ。せいぜい長話を聞きたまえ。
じゃあ、後は任せたよキリコくん」
そう言うと、僕が口を挟む暇もなく、彼女は部屋から出ていってしまった。
残されたのは僕と、時代錯誤の女導師、いや准導師。
「指導、と導師は仰っていましたが、あなたは何か法術に関して悩みを抱えているという理解でよろしいでしょうか」
「……それをあなたが知ってどうなるって言うんですか」
なんてことだ……。
あの極彩公に指導を受けるため、学院に残るために地に頭をこすりつけまでしたというのに、よりにもよって。
埃まみれの帽子の陰から僕を覗くこの女性は、学院でも有名な“無能”導師だった。
僕はキリコ(無能に導師呼びなど要るものか)に勧められた椅子に座り、茶を啜っていた。
彼女は僕に茶と椅子を勧めたきり、少し待てとだけ言い放ち、僕をいないものにように扱って書き物をしている。
たとえ内心で認めずとも、彼女は立場上導師に次ぐ立場。おとなしく待ってはいたが、待ち時間が半刻を超えたあたりでしびれを切らした。
「准導師。僕はいつまで待てばいいのですか。アーチ導師は僕を指導しては下さらないというのですか」
キリコの三角帽が揺れた。さも今まで忘れていたかのように彼女が僕を見る。白々しい。
「え、ええ。きっと、そうだと思います。
導師は今夜は逢瀬だと前々から仰っていましたし」
逢瀬? 僕の危機を放っておきながら、どこぞの男と現を抜かすっていうのか!
内心憤る僕をよそに、キリコは続けた。
「確か、お相手は貴族のご令嬢でしたか」
どこぞの男でなくどこぞの女だった。そっちの趣味かよ。
なんだかひどく馬鹿らしくなった僕は席を立った。
全く、時間をずいぶん無駄にしたものだ。もう日が沈んでいる。
出ていこうとする僕に、キリコが声をかけてきた。
「何か悩みがあるのではないのですか。
アーチ導師に指導を乞えなかったのは残念でしょうが、私でよければ、力になれるかもしれません」
僕は鼻で笑った。
まさかこの無能が僕の危機を救うなどあるはずもない。
クラリッサ・キリコ。彼女は先も言ったように、この学院がなぜか抱える無能導師である。
第二学院の誇りと呼ばれるのが“極彩公”アウローラなら、恥と嗤われるのが“無能のクラリッサ”だ。
その無能ぶりたるや、決闘で6歳の子供に負けただの、書いた論文のことごとくが考慮に値しないとして学会から永久追放にされているだの、枚挙に暇がない。
多くの場合、世に溢れる人の悪い噂というのは信憑性に欠けているものだが、彼女の場合は全て明確に記録が残っている事実である。
そういった経緯から、彼女の学院内での立場はひどく低い。
肩書は准導師であると同時にこの学院唯一の導師補佐で、担当導師、つまりアーチ導師に奴隷のようにこき使われる存在だ。
学院の仕事においても、導師にとって花形といえる実践訓練の授業を一つも受け持っておらず、逆に生徒や導師ですらも嫌う講義である属性術、癒術、呪術の各種理論の講義を全て押し付けられている。
大人たちがこうもわかりやすく見下していれば、生徒たちが真似するのも当然であろう。
確実に自分たちのほうが法術をうまく扱えるという事実があるのも大きい。
そんな彼女に心配されるなど恥でしかない。僕はキリコよりも優れた法術使いである自負があるし、彼女にできることで僕にできないことなどないと確信している。
たとえ今は不調でも、僕は第二学院に入学を果たした天才なのだから。
侮られたときのような不快感が口をついて出た。
「失礼ながら、あなたに話したところで解決するとは到底思えませんね。
子供に負けるような無能に、高等炎術が使えるとでも?」
いかに相手が無能といえど、自制が利いて後半の罵倒は小声になった。
それが聞こえてかは知らないが、静かな声が扉に向かう僕を追う。
「……なるほど。
確かに私では解決できないかもしれません。
お帰りなのでしたら、ついでです。そこの灯りをつけてくださいませんか」
傍らを見ると、火のついていない室内灯が置いてある。
なぜこんな些事に僕が法術を振るわねばならないのだ。
しかし、一応は准導師の頼みだ。仕方なく片手に基礎炎術を起動し、室内灯に火を灯す。
灯りがともったのを確認し、今度こそ部屋を出ようとした僕の心を読んだような絶妙な間で、また声がかけられる。
「あなたが悩んでいる“大爆火”のことですが」
つい、振り向いた。
未だ暗い室内も相まって、彼女の顔は三角帽の陰に隠れて窺い知れない。
さらに炎を生成し、室内灯の光量を増す。
「……どうしてわかったんですか」
僅かに明るくなった室内。
いつの間にか傍らに佇む准導師は僕の問いに答えず、じっと僕の手元を見ていた。
独り言のように彼女が囁く。
「高等炎術、“大爆火”を私が使えないというのは事実です。
ですが、“大爆火”という術自体は基礎炎術の延長であり、決して難しいものではありません。
少なくとも、この学院に入学できるだけの才能があるならば」
間近から聞こえる、暗闇に溶けるような、霧がかった声。
僕は自分の中の荒れた心が少しずつ鎮まっていくのを感じていた。
「恐らく、問題はおよそ難しいとされる箇所にはありません。
あなたはこれまで、どのような訓練をしてきましたか?」
「え、と。導師による模範例の観察と、反復練習を」
いや、違う。これは気圧されているのだ。
僕の全てを見透かしているような、この女の瞳に。
常識の向こう。計り知れぬ暗がりを、深淵を覗いているような……。
「……なるほど、わかりました。
では、講義を始めましょう」
彼女の声に、意識が、落ちる。
翌日、僕は訓練場にいた。
属性術の実践訓練、今日の課題は“大爆火”。僕に立ちふさがる危機そのものだ。
身の丈よりやや小さい程度の火球を生成し、一定の距離を進んだのちに爆裂させる。
炎術の中でも高等術式に含まれるものの、本来は苦戦するような術ではない。なぜか、僕には本来顕現するべき大きさの火球が生成できなかったのだ。
連日の失敗からか、それとも大っぴらにアーチ導師を頼ったせいか、僕を見るミラー導師の目はひどく冷たい。あの目を見る限り、僕が追い出されるのは想定より数段早そうだ。
同級生の名が呼ばれていく。彼らは事も無げに火球を生み出し、そして一様に僕を見る。お前にできるのか、そう言って心の中で僕を嗤っているのだ。
頭を振って疑念を飛ばす。そんな訳があるか。彼らはそこまで性根の腐った連中ではない。かつての僕がそうでなかったように。
落ち着け。息を吸って、緊張や不安を共に吐き出せ。
「――、来なさい」
ついに、僕の名が呼ばれた。ミラー導師に術を見せる時が来たのだ。
アーチ導師からの指導は受けられなかった。
昨日得たのはあの得体のしれない准導師の長話だけ。
成功する要素など、何ひとつ……。
「どうした。早くやりなさい。後がつかえておるのだからな」
ええい、ままよ。
「完全復活だな! 最近の不調が嘘みたいだったぜ。
むしろ、最近はなんであんなに冴えなかったんだ?」
「僕にもわからないよ。なんで不調かわかってたらあんなに長続きしないさ」
実践訓練の直後、僕は友人に肩を叩かれ、不調からの脱却を祝われていた。
見事、僕は完璧な火球の生成と爆裂に成功しただけでなく、完成度の高い”大爆火”であるとミラー導師からお褒めの言葉まで頂いたのだ。
「しかし、ずいぶん凄い“大爆火”だったじゃないか。
実はミラー導師がお前の代わりに出したって言っても信じちまいそうなくらいにさ」
「それはさすがに言い過ぎだろ……。
僕自身、なんで今日成功したのか、なんであんなにすごい術として使えたのかはよくわからないんだよ」
そう、なぜ僕は成功したのだろう。今日と昨日で何が変わったのかがわからない。
昨日までだって実際に起こす現象は鮮明に頭に浮かんでいたし、出力の調整だって別段変えたわけでもない。
いつも通りに法術を編んだというのに、昨日以前では失敗し、今日は成功した。
「ふうん。不思議なこともあるもんだ。
……ところでよ。今朝はあの“無能”の部屋からお前が出てきたって目撃証言があんだけど。
まさかヤったんじゃないだろうな?」
「馬鹿言うな、あんな外套姿に反応なんかしないさ。声は……悪くないけど。
法術理論についての長話を聞かされただけだよ」
昨日の夜のことはよく覚えていない。あの後、理論についての話を聞き流しながら、時折訊かれる質問に答えていく内に寝入ってしまったらしい。理論という退屈極まりない内容もさることながら、無駄に落ち着くあの声が悪かった。
朝起きたら朝食が用意されており、あれよあれよという間に部屋から送り出された。
……あの無能、割と面倒見自体は良いのかもしれない。
「理論の長話? そりゃあ災難だったな。
それにしても、やっぱりあの導師は無能だよな」
確かに。
突然、理論について語り始めるなんて、あの女は一体何がしたかったのだろう。
理論なんて実際の法術行使には何の役にも立たないのに。
思案する僕の隣で、友人が突然声を上げた。
「あ、そうだ。お前が今日うまくいった理由が思いついたぜ」
「なんだい? ……ロクな話じゃなさそうだけど」
一応聞き返す僕に、友人はしたり顔で高らかに言い放った。
「あの“極彩公”のご利益だ! 地に伏せて拝み倒したんだろ?
その熱意に、アーチ導師の背後にいるって噂の法術の神が微笑んでくれたんだよ」
……なるほど。それはそれは。
「確かにそうかもしれない!
やっぱりあれほどの法術士なら、人知を超える力を持ってるものなんだな!」
私は友人とそんな話をしている彼を遠目から眺めていました。
……通りがかる生徒たちが、どこか軽蔑するような視線を向けているように感じるのは気のせいではないでしょう。
まさか、私が生徒を襲うような痴女だと思われているのでしょうか。
確かに、講義の途中で寝入った彼をなんとか座椅子に移した後、寝ているならいいかと夜通し同じ部屋で書類仕事をしていたのは、少々はしたないことであったかもしれません。
彼が目覚めるのが思っていたより遅く、講義に遅れないよう慌てて送り出した時には多くの人に目撃されてしまう時間帯になってしまっていたのも良くなかったでしょうか。
あれこれと思案する私の肩に、手が置かれました。
「おい」
「ひゃい。私はただ講義中に寝入った彼を泊めただけで何もありませんでした本当です」
精一杯取り繕いながら振り返ります。
「お前はいきなり何を言ってるんだ?
私だよクラリッサ。彼の件についてどうなったか聞きに来たのさ」
呆れ顔で立っているのはアーチ導師でした。
彼の件と言われ、昨日の夜を思い出します。
結論から言えば、彼の不調の原因は、何らかの体調不良による術式を編む感覚の狂いでした。
起こす事象を鮮明に脳裏に浮かべ、それを実現する術式を感覚で編みこむという帝国式法術は、準備から発動までの時間が非常に短く、自由度が高いことからこの帝国でも主流として使われています。
しかし、個人の感覚に依存する関係上、わずかな調子の変化でも崩れてしまうという繊細な側面も併せ持っているのです。
私は彼の口から零れた高等炎術という言葉と、室内灯をつける際の基礎炎術に表れていたわずかな術式の歪みから、恐らく火球を一定以上の大きさに生成できないのだと推測しました。
そもそも種類の少ない高等炎術です。その中でも、巨大な火球を生成するという特徴を持つ術式となれば絞り込むのは難しいことではありません。
問題が術式、ひいてはそれを編む感覚にあるとわかった以上、その感覚をもう一度掴みなおせば“大爆火”が発動すると踏みました。
そこで、昨晩は初歩的な炎術の発動について理論的な見地を含め、講義として彼に聞かせていたのですが、途中で寝入ってしまいました。
果たしてどこまで聞いていたのやら。
ともかく。
視線の先、誇らしげに笑う彼については、この結論とするのが妥当でしょうか。
「どうやら、彼は自力で解決したようです。
あの見事な術は、彼のたゆまぬ修練の為したものです」
術が発動できたのはともかく、あれほどの術式に仕上がったのは間違いなく彼の努力です。
導師による“大爆火”を緻密に観察し、寝食を削って行った反復によって精度を磨き続けた。
術式の基礎的な部分に綻びがあったので努力の成果は目に見える形に表れてはいなかったものの、こうして見事に実を結んだというわけです。
「……ふん、そうかい。
お前がそれでいいんなら、そう思っておけばいいさ」
私の言葉を聞いても、アーチ導師は無表情でした。
……………………。
「ごめんなさい、アウローラ」
「何が?
別に私には、君がなんて呼ばれようが関係ない。
私は私。天才で偉大で伝説で、最近神の加護を与える力が芽生えたって噂の現人神なアウローラ・アーチなのだからね」
そう口では言っても、不機嫌なのは明白で。
素直でない旧友に、帽子の陰でくすりと笑みが漏れます。
「あなたがくれた、私の評価を挽回する機会を、また無駄にしてしまいましたね」
もし、私が彼の不調回復を手助けできたということになっていたら、私の評価はわずかですが緩和されていたのではないでしょうか。
少なくともアウローラは、私が成功した暁には「キリコ准導師は雑事を押し付ける程度なら十分に仕事をする」とでも言いふらすつもりだったのでしょう。
どうやら、彼が不調から回復した理由は極彩公のご利益ということになったようですが。
「……もういい。行くよクラリッサ。食堂で何か奢りたまえ」
「構いませんが、あまり高いものは控えて下さいね。あなたと違い、私は薄給なので」
彼女が、憎まれ口を叩きながらも、何かにつれて私のことを周囲に認めさせようとしてくれているのは知っています。
しかし、私が高等法術どころか、中級法術すら使えないことは事実。私が専門とする法術理論も、実践では何も役立たないものとして扱われているのが現実です。
うぬぼれかもしれませんが、こんな私がこの学院に居られるのも、彼女が学院長に取り計らってくれているからなのかもしれませんね。
ふと見れば、いつの間にやらアウローラの背中は随分と遠くにありました。
かつてこの学院の生徒であったころから、ずっと変わらず遠い背中。
いつだって全力で追いかけて、それでも決して追いつけなくて。
私はなんだか懐かしい気持ちを抱いて、足音高く歩く彼女の背中を追うのでした。
いつか、きっと追いつきますからね。アウローラ。
かつて、発達した法術技術によって巨大な版図を広げた帝国の歴史には、多くの偉人の名前が刻まれている。
その中でも、“極彩公”アウローラ・アーチの名はひときわ有名であり、彼女が生きていた時代こそが帝国の最盛期の始まりであり、時代の転換点とする説を支持する歴史家は多い。
ただ、多くの偉人が生まれた動乱の時代にあって、その偉人の中にクラリッサ・キリコという名前が入ったことは、いずれの時代においてもない。