第一章 「善意と欲望」 2-2
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白藤の相手を終えて剣道場を後にした時には、時刻は既に夕方の五時を切っていた。
剣道場に入ったのは三時半過ぎくらいだったが、その後の準備運動や他の部員の練習やらで先延ばしが続き、なかなか白藤と試合することができなかった。その後なんとか時間を見繕って試合を二回行い、最後にクールダウンを済ませると剣道部を後にし、そして今に至っているというわけだ。
「あぁ、疲れた……。あんまり帰りが遅いと夕食のことで桂子さんにネチネチと文句を言われて嫌なんだけど、いざ試合になれば時間のことなんて気にしていられないからな。それにわざとあっさり負けるなんてことやったら白藤のやつ怒るに決まってるし」
試合はいずれも白藤の勝利で終わったが一試合ごとにかけた時間はかなり濃密で、勘を鈍らせない程度の練習で早く帰りたい自分としてはかなりしんどかった上に少し煩わしくも思った。……まあ、数少ない質の高い練習を彼女が受けることができたと思えば時間を無駄にはしなかった、とまんざらではないが。
「――あっ。そういえば醤油と冷凍うどん切らしてたっけ」
下校してからしばらく歩いたところで、家の冷蔵庫の在庫事情を思い出す。
醤油は昨日の夕飯を作った時にはまだギリギリ使えるだけ残ってはいたものの、今はもう今晩のメニューで使用する分すら残ってない。だし醤油を代わりに使うのもありだが、それだと桂子さんが手抜きっぽくて食う気になれない、などと意味不明の不満を漏らしながら食事することになるので、今のうちに買っておかないと色々めんどくさい。
冷凍うどんもうちの家計と胃袋を支えてくれてる大切な食材である。時間がない時には茹でるか焼くだけで腹持ちの良い満足のできる食事を短時間で用意することができるからだ。俺的にカップラーメンやうちの地域圏ではポピュラーな生そば麺なんかよりもずっとお手頃で汎用性が高いように思う。
今日はタイムセールをしていたかどうかは覚えてないが、もしやっていたとすれば今から急げば間に合うかもしれないし、お買い得商品があるかどうかも見ておきたい。夕食の用意する時間と桂子さんの機嫌のことも考えると、今から急いで買い物を見て回った方が良いことは明らかだった。
「となると、早くいつものスーパーに寄って買い物しないとな」
そう決めるが早いが、俺はすぐにスーパーへ向けて走り出した。
買い物を終えて家に帰ると、桂子さんに開口一番「遅い、早く飯作れ」と言われた。
珍しく夕刊を読んでいる桂子さんが、文句をそれだけで済ませてくれたのは運がいい。実際のところは夕食の準備を始める時間として今の時間はさほど遅いわけでもないのだが、七時までには夕食が出せるようにしておいた方がいいだろう。
学校から出された宿題や、しておかなければならない新しい魔術の課題と鍛練。そして昨夜桂子さんから今夜話すと言われた真面目な話も待っている以上、あんまりちんたらと用意していられない。
二階の自分の部屋に入ってすぐに部屋着への着替えを済ませると階段を下り、我が家の手狭なキッチンで夕食の準備へと取り掛かった。
作るメニューそのものはもう考えており、スーパーで半額で買った春雨と冷蔵庫にあった野菜を適当に下ごしらえして炒める。そこにキッチンの棚に保管していたチャプチェの素を加えて仕上げるとそれを皿に盛り付け、さらに残っていたみそ汁とあらかじめ炊いていたご飯の用意も済ませて今日の夕食は完成した。
「おお、チャプチェか。春雨の量が少ない気がするが、まあ肉が多めなだけいいか」
出された夕食に桂子さんもご機嫌な様子で、昨日作った八宝菜の時みたいな陰口を今夜は聞かずに済みそうだ。
白藤との剣道でお腹を空かせていたせいか、俺も桂子さんと同様にお代わり込みで夕食を三十分足らずで平らげてしまった。
その後夕食の後片付けを済ませ、風呂を沸かして入った後、リビングでテレビを見てくつろぐ。しばらくすると俺の次に入浴を済ませて上がってきた桂子さんが、まだ乾いていない髪の毛をタオルで拭きながら話しかけてきた。
「洋介。今日の新聞読んだか?読んでないなら今すぐ見ておいた方がいいぞ」
「いや、まだ見てませんけど。何か気になる事件でも載っていたんですか?」
「気になるどころか、どんぴしゃの事件だ。前に言ってた不法侵入の案件は軽く聞いたよな?――やっとそいつが尻尾を見せ始めたみたいでな」
「――――」
普段の意地悪でどこか威圧的な雰囲気とは程遠い真剣な表情で話し始める桂子さんを見て自然と気持ちも引き締まり、話を聞くためにもテーブルの上に無造作に放置された新聞を取って一覧に目を通す。
「……南町での一家殺害事件に、街中のビルで死者多数のガス漏れ事故。他にも複数の身元不明、原因不明による事件事故が地元警察からの説明で明らかになる、ですか」
「ああ、そうだ。しかもガス漏れ昏睡事故はともかく、その記事に載ってる一家殺害事件のとこの記事見てみろ。――殺された家族の遺体から心臓が切り出されていたときている。
新聞側からすれば読者のがっついてくれる良い猟奇ネタを得られたかもしれんが、あたしたちからすれば事件事故の犯人が間違いなく魔術師であると教えてくれるあまり嬉しくない情報だな。……ついでに厄介なことこの上ない類の相手をあたしたちがしなくちゃならないっていう事実もだが」
桂子さんのこぼす盛大なため息に、俺も「そうですね……」とため息をこぼすのでなく緊張が高まっているのを強く感じていた。
「とりあえず、一応一つ一つ事実を整理してから今後の対策を決めよう。あたしとお前で集めた情報だけじゃなく、この間聞いた西園寺からの報告も含めてな。本当は彼女も交えた上での会議にしたかったんだが……」
「……確か住んでる家の整理や整備、それと入居の手続きとかにまだ手が離せないんでしたっけ?」
「じじいが生きてた頃から思うんだが、どう考えてもあの屋敷の面積って人が一人二人で住むにしては広すぎる気がしてならないんだよな。それにあのじじい、やたらと高価な骨董品とかを趣味で飾ってたりしてやがったし。
まあ、じじいが死んでからあたしが預かってそいつら全部売っ払ったけど」
「……すみません、唐突なカミングアウトは勘弁してくれませんか?胃と頭が痛くなって来るんで」
今この場に、まだ自分が会ったことも見たこともない西園寺結美という女性がいないことを心の底から安堵せざるを得ない。というか、他人から預かったものを売り払うということをなぜこの人の思考回路は容認してしまうのか、そこが謎である。
「まあ、その西園寺からの報告も含めて色々と状況を確認して行くわけだが、彼女の報告とこちらの情報を合わせても、侵入してきたのは降霊魔術師であることは間違いないな」
「はい……。敵のおおよその素性はもう掴めているんでしたよね?何者なんです?」
「端的に言うと、まあ所謂”はじき者“に分類される輩だな。一昨日くらいに協会のから頼んでいた対象の身元資料が届いたんだが、見るからに人付き合いが悪そうな嫌な面してやがるよ」
心底うざいと言わんばかりの顔を見せながら、カウンターの一角の書類棚から資料を取り出してこちらに渡してくる。資料は写真付きで、人付き合いが悪そうと桂子さんが思わず言いたくなるのも少し分かるような気がした。
「アレベール・バトゥル。元・魔術協会欧州支部に所属。降霊科で次席を修め、欧州支部で降霊科の第一人者となるが、指針のずれや主張のすれ違いなどから欧州支部を脱退。その後しばらくは各支部を渡り歩いていたが、十年ほど前に魔術協会英国本部から”無条件執行対象“に指定されて以来姿をくらます、ですか……」
「訂正。降霊科の第一人者になったじゃなくて、主席が辞退したから棚ぼたでその地位が転がり込んできただけ。あと支部を脱退じゃなく追い出されたんだろうし、渡り歩いてたんじゃなく単に放浪してただけだろ。今度からきちんと正確な報告を送ってくるように言っとかないと、まったく……」
「調査対象への偏見と嫌味が入り交じった報告書なんて、不正確で解読しにくいだけだと思うんですけど」
そんなものを送られてくるようになれば、読み返す度にいちいち正しい情報へと脳内補正しなければならず、仕事が滞ってしまって仕方がなくなってしまう。
「魔力属性は”風“と”水“の二重属性。降霊術、召喚術に通じ、姿をくらませていた間にこれらの魔術以外にも長けているようになっている可能性大。本人の戦術に特筆すべき点は見当たらないが、欧州時代から自身の近辺に低・中級霊を侍らせて生活を送っていたとの目撃があるため、それらとの連携に重きを置いた戦闘が予想される、というところですか。第一印象とかそこから連想される性格とか抜きにしても、なかなか厄介な相手になりそうですね」
しばし間を置いてから、桂子さんは小さく頷いた。
「――だな。協会の実働部隊が集団で対処するならまだしも、あたしたちみたいな外野の傭兵もどき個人で相手をするにはちょいと分が悪い。もちろん負ける気はさらさらないんだが、今回は初めから何かしらの支援が欲しいと思ってはいた。そう考えると西園寺がここへ戻ってきたのも、偶然とは言え協会の都合が重なっていたことは否めないかもな」
「そうなると、対処は俺たちと共同で行うことになるんですね」
「当たり前だ。土地の現状や霊脈の管理についての大まかな協定はもう済ませた。これから先、瀬戸口は当分あたしと彼女で共同管理することになった以上、戻ったばかりだからと言ってのんびり見物なんてさせてたまるか」
最後の辺りは桂子さん自身の感情的な理由付けがあるような気がしなくもないが、元々この土地が彼女の一族が管理していたことを踏まえると、不法侵入への対処に彼女が参加することは当然のことだろう。
「分かりました。そういえば西園寺さんとのやり取りについては、俺が桂子さんの方針や意見を伝えて彼女と話し合うというようにこの間聞いたんですけど。……本当にそれでいいんですか?」
「ん?いいですかも何も。あたしが西園寺の屋敷まで出張るのは色々とまずいし、だからと言ってわざわざ彼女にまで来てこさせるのもめんどくさいだろ。お前の通ってる学園にもうじき編入するってこの間聞いたし、彼女の了承も取ってる。それならお前に普段の連絡役は任せた方が色々と好都合だ」
「まあ、考えればそうではあるんですけど……」
「だったら何も問題ないだろ。それともなんだぁ?女性と話すのが恥ずかしくてテンパらないか不安だ、とかそういうことか?」
「そんなくだらないことじゃありませんよ。というか俺普通に学校で女友達とかいますし、話すだけで恥ずかしがるなんてことはありませんから」
そう言い返すと桂子さんはつまらないとでも言いたげな不機嫌顔を作り、「お前、ほんとに童貞か?」と失礼極まりない言葉まで宣ってくれる。……童貞であるかないかは関係ないだろうが。
「まあ理由とか都合は何であれ、そろそろお前もこういった交渉役みたいな役割に慣れておけ。ハードルこそ低くても、いずれこの家を出て一人で生きるようになってからこういう経験は意外と活きる。弟子の教育も考えればちょうどいい機会だよ。
ま、そういうわけだから任せたぞ。ヘマをすることはないだろうが、まあ彼女と仲違いするようなことはしないようにしてくれ」
「…………」
ほぼ成り行きで任されたとしか思えない今回の役目に、慣れてないこと以外にもなんとなく不安を感じてならなかったが、そうと決まった以上は断ることはできないし理由もない。
反論することも特になかったので「……まあ、できるだけの努力はします」と返事をし、寝る前に残っていた家事を済ませようとリビングを後にする。
「――あっ、ところで桂子さん。西園寺さんには俺のことについてどのように伝えてあるんです?その辺の確認しておかないと色々とやりにくいんで」
リビングから出る間際。西園寺と実際に接した時に話し合いを円滑に進めるために聞いたのだが、桂子さんはいつもの口調で本日二個目の爆弾発言を投下してくれる。
「ああ。彼女にはあたしの弟子が君と同じ学園に通っている、としか伝えてないぞ。まあ彼女が転入したことはすぐわかるだろうから、自己紹介とかその辺りの関係構築とかについてはそっちでなんとかしてくれ」
……なんとかできるかどうか不安がさらに増してきた。