第一章 「善意と欲望」 2-1
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六月は既に半ばを過ぎた。
外の天気は、ついこの間まで雨が降っていたことが嘘のように、快晴の空模様を見せている。校庭のところどころにはまだ水たまりが小さく残ってはいるものの、体育の授業や部活動で使用する分には何の支障も来さない程度のものである。
文句のつけようがないほどの晴天。この地域で暮らす誰もがもう梅雨は明けた、と信じて疑わないだろう。
『でも、これでまだ梅雨明けじゃないとか言うんだから信じられないよな。来週からまた降り出す可能性が高いって今朝の予報でも伝えていたし』
天気予報なんて当たらないからアテにするな、などと抜かす人間も未だにいるが、その予報で備えができるとできないではかなり違ってくる。
近代になってから発展を遂げた科学だけでなく、古来から続く魔術でさえ正確な気象予測をすることが未だにできていないのだ。アテにできない予報でも、指標の一つとして見るくらいの活用は考えるべきだろう。
はあ、と今日何度目になるか分からないため息をこぼしてしまう。
今は四限目の数学の授業。
教壇では若い教師が方程式の公式の見解や応用の説明を延々と述べ続けている。
数学なんて社会に出てから何の役に立つんだ、と言うほどでもないのだが、個人的に授業を受けていて一番しんどいと感じるのはこの数学である。さすがに定期試験で平均の下を行ったことは一度もないが、上に行ったことも一度としてないというなんとも微妙な結果しか得たことがない。
空きっ腹に堪え、右から左に流れるだけの教師の説明を聞くこの時間。内職をするか、それがないなら居眠りをしてやり過ごすしかないという地味につらいものである。
唯一救いがあるとすれば、この苦行に耐え切りさえすれば学園生活の華である昼休みが待っていること。が、それが来るまでもうあと二○分ほど時間が必要なので、早まって浮かれるわけにはいかない。
『……教師に注意されるだけじゃなく、その後で白藤にまたがみがみとお説教されるなんてのは御免だしな』
そう思い直すと再び黒板に目を向け、内容の半分も理解できない説明文や公式の使い方を、ただひたすらにノートにまとめる作業を再開した。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教師が終礼を済ませて教室を出ると同時に三十人もの生徒は一斉に席を立った。
時刻は昼の十二時四○分ぴったり。今から三○分、本鈴が鳴るまでを換算すれば四○分の間はゆったりと自由に過ごすことができる。
ざあ、と伝播していく憩いの空気。
堅苦しい授業からのひとときの解放、全生徒待望の昼休みの始まりだ。
うちの学園には他校と比較しても立派な食堂があり、たいていの生徒は食堂で昼食をとる。だが、中には金銭的な都合から弁当持参という世知辛い連中も少なからずいて、その中の一人が自分だった。
「なあ、相原。お前昼教室で食べるのか?もしいいなら今日は食堂に弁当持ってきて一緒に食おうぜ」
「……いいけど、お前いつも購買でパン買ってきてるのに、なんで今日に限って食堂なんだ亮太?食事にあまり時間をかけないで昼休み騒ぎまくるはずのお前が、食堂でゆっくりとお昼を過ごすなんて違和感しかないぞ」
「”珍しい“とかならともかく、違和感はさすがに言い過ぎだろ……。まあ俺だってたまにはスローフードな昼飯を食いたいし、それに実を言うと今日寝坊して朝飯を食い損ねちまったから午前中から腹が減って仕方なくてよ」
「それ単にお前の自業自得じゃないか……」
遅刻をしなかったことは称賛に値するが、朝の目覚めが良い自分にとって寝坊して朝食を食べ損ねたという亮太の話にはやはり情けないとしか思えなかった。
「まあ、別にどこで食べようと構わないし、いいぞ」
「おおっ。じゃあ俺先に行って食券買うから、相原は着いたら席の確保を頼んだ!」
そう言うや否や、亮太は教室から飛び出すと全速力で食堂へと走って行った。
俺も鞄から弁当を取り出すと、亮太に続いて教室を出る。
途中、他にも自分と同様に弁当を持って食堂へと向かう生徒がちらほら見かけられた。考えることはみんな同じらしく、あんまりちんたらしてると席が確保できなくなるかもしれない。
そう思った俺は階段を下り終えたところで早足に切り替え、食堂に着くとすぐに窓際付近の二人分のテーブル席を確保して座り、券売機の行列と窓口の人だかりで埋もれもがいている亮太がやって来るまでしばらく待った。
「ふぇぇ……。危うく窒息するところだったぜ。あっ、席の確保ありがとな」
「ああ。ちょっと危ないところだったけど、なんとか向こうのたまり場の周辺に座ることだけは避けられたよ」
「みたいだな。……うわぁ、相変わらずすごい女子の密集率の高さだなぁ。あの辺りで食事をするとなるとこっちの神経と鼓膜が擦り切れちまうわ」
亮太が日替わりのセットランチを持って席に座り、無事に一息つけることにお互い安堵したところで、俺たちは食堂の中心から出入り口にかけてまでの大半の席を占拠している女子の軍団を見て思わず唸ってしまう。
学園の男女比はだいたい同じかせいぜい六:四くらいまでしか差はないはずなのに、清楚な色合いで彩られた食堂は完全に女子の巣窟と化している。
一体いつからこんな状態なったのかは分からないが、購買の品物が充実していて、弁当を持って来ず手早く昼食を済ませたい男子が大勢いるこの学園では、友人とおしゃべりしながら昼食をとりたい女子が食堂を占拠するのはある意味当然と言えば当然の結果に違いない。現に場の空気からしても、食堂に男子がいることに違和感を覚えるほどなのだ。
「……なんというか。あんまり長居はできそうにないし、長居したくもないな。猫に追い詰められた壁際のネズミのような気持ちで食事するのはなかなか手厳しいぜ」
「気持ちはわかるけど亮太、それ微妙にたとえがズレてる。猫はネズミを集団で追い立てることはない。逆の場合はごく稀にあり得るけど」
「ああ、そうかぁ……。――いや、でもライオンは獲物を狩る時に群れで仕留めるだろ?それもメスがさ」
「別にネコ科にこだわる必要ないだろうが……」
ピラニアとかオオカミとか、もっとバリエーションに富んだものを用意してもいいだろうに……。
そんなこんなで俺と亮太は、女子軍団からの意思のない圧力を感じながら、食事中はなんでもない話ばかりを続けた。
そして昼食を食べ終えると俺たちはすぐにテーブルを空けて食堂を出る。他の男子生徒も食べ終えるとすぐに食堂から出るように心がけているようだった。
別に食堂に留まっても何ら問題は無かったであろうが、食堂を支配する女子軍団の異様な空気の中で、男子が下手に騒いだりするのはやりにくい。
「いずれこの学園の食堂は女子専用スペースとして利用されるようになる日もそう遠くはないかもしれないな……」
自分たちと同様に食堂を後にする男子生徒を見ながら、密かにそんな予言めいたことを呟いた。
そして放課後。
多くの生徒が各々の部活動へと動き始める中、俺は帰宅部なのに帰宅できず、剣道部の根城である剣道場へと足を運んでいた。
「白藤。改めて確認したいんだけど、剣道部の他の部員でなんとかできないのか?」
「……無理よ。言い方がちょっとひどいけど、私と他の部員とではが違いすぎて。腕はともかく速度が違いすぎてお互い練習にならないのよ」
「なら、京子先生に頼めばいいじゃないか。俺だってついていけるのは速さだけなんだし、あんまり意味ないだろ」
「できる時はもちろんそうしてるわ。でも、お姉ちゃん教師だから他にも仕事があったりで剣道部に来れない日があるのは知ってるでしょ?だからこうしてあなたに時々試合の相手をしてもらっていいかって随分昔に頼んだんじゃない」
「いや、そりゃたまにはいいとは言ったけどさ……」
ただ確認しただけなのに、何もそこまで攻撃的にまくし立てることもないだろう。
心中で深くため息を吐きながら、昔安易に白藤のこの頼みを受けてしまったことを改めて後悔してしまう。
女子剣道部の主将である白藤だが、主将を任されるだけのものはあって県や全国に出ても通用するというだけでなく、有段者の資格までも得ているというという折り紙付きの実力者だ。姉の京子先生も同様で、学生時代には全国大会で入賞したこともあるらしく、学園に賞状が飾られているのを何度か見たこともあった。(完全に余談だが、うちの学園には男子剣道部も一応あるにはあるが、人数も少なく白藤のように熱心で実力のある人間もいないために注目度が低く、存在感がかなり薄いために半ば解散気味の状態となってしまっている)
実はこの姉妹、元々この地域では割と有名な剣道家の娘だったらしく、家の道場に通ってくる門下生たちに剣道を教えながら、家族四人で生活を送っていたらしい。
しかし、五年前に二人の両親が事故で他界。白藤はまだ子供だった上に、京子先生もその時には教師になる道を歩みだしていたことから道場は継がれず、日々掃除だけはしているものの使われることはなく放置されているようだ。
ちなみになぜ俺が白藤の剣道の練習相手になっているかと言うと、それは一年の頃に白藤に弱みを握られてからしばらくの頃に遡る。
その時剣道部では、根性の叩き直しという名目のもと部員一同が白藤に一対一で勝負を挑んでおり、どういう経緯だったかは覚えてないが、俺もその場にいて勝負に強制参加させられていたのだ。あいつにしては珍しく、おそらく遊び半分な気持ちで俺に竹刀を持たせ、そして完膚なきまでに打ち負かすつもりだったのだろう。
だが、幸か不幸か(おそらく不幸だろう)俺は白藤との勝負で――相手が全力を出し切ってなかったとは言え、それなりに追いすがった試合を彼女に見せてしまった。実は、俺はその時までで桂子さんから魔術師との戦いに対する備えとして、格闘術やら武器を用いた戦術やらの基本をかなりの質と量で受けていた。
協会の中に身を置かない外野の魔術師にとって生き延びることに手段を問うのは命取りになる。逆に協会に身を置いていたり置いていた魔術師たちは伝統や儀礼、厳格なまでに定めた戦いに対するを各々自らに課している。彼らを出し抜く上での戦術の多様さは絶対に必要不可欠なことだ。
そうした桂子さんの方針の下で俺は魔術以外の学べる限りの近接戦闘の訓練を受け、正しく会得できたかどうかは分からないものの、少なくとも常人以上の見切りや反応速度の良さを身に付けることはできていたのである。
その時の白藤との試合は思わぬ相手の実力に白藤は動揺したものの、本気になった彼女の動きに着いて行けずに防戦一方となり、そのままあっさりと負けてしまうという結果に終わった。
そしてその際に目を付けたのか、白藤は俺に今後も時間に余裕がある時は相手をして欲しい、と人目のない場所で頭を下げて頼んできたのだ。今考えると頼みを断っても良かったのだろうが、頭を下げてまで頼み込んできた彼女の姿を見ると断るのに少し躊躇われてしまった。
結局悩んだ末に了承してしまい、こうして現在に至るまで振り回されているというわけだ。
「学校じゃなく家でお姉ちゃんの相手をしてもらうことも時々あるけど、うちの道場ただでさえ広くて掃除や後片付けも一苦労な上に、帰ってからもお互い用事があって忙しいのよ」
「まあ、確かに聞いた限りじゃ難しそうなのは分かるしな。……剣道部を辞めるわけにもいかないんだろ?」
「ええ。少しでも練習ができなくなるとかだけじゃなくて、将来うちの道場を再開する時に部を切り盛りした経験がほんの少しでも役に立つかもしれないから。それにせっかくみんなと仲良くなったのに辞めちゃうのも寂しいしね」
そう言って部員たちの顔を思い浮かべたのか、白藤は小さく笑う。
部員たちからの信頼も厚く、帰っても親が待っていない彼女にとって、家で黙々と鍛錬に励むよりも放課後に剣道部でみんなと練習する方が心地よいのだろう。両親が行っていた剣道場を再開させるという将来の目標もはっきりさせている点でも、俺はこいつのことを尊敬できる。
「……ま、だからと言ってこんな苦労させられることに目を瞑れるわけではないけどさ」
聞こえないように小さくそう呟く。すると白藤が「何か、言いたいことでもあるのかしら」と耳ざとく俺に聞いてきたので、すぐに「いや、何も言ってない」と誤魔化す。
地獄耳とはつくづくありがたくない言葉と痛感せざるを得ない。