第一章 「善意と欲望」 1-3
INTERLUDE.
深夜二時。人も獣も静まり返る真夜中の時間であっても、魔術師にとっては当てはまらない。
彼らにとっては夜こそが本来の活動時間であり、今の時刻は儀式や降霊など、様な魔術行為を最高の形で実現するのに最も適した時間だ。魔術行使の成功率においてもこの時間は最も高くなるため、彼らがこの時間帯に活動するのには絶対的な意味もある。
そうした事情もあってか、一般的に魔術師が昼間に活動しないと言われる理由の一つに、単に寝不足のために朝起きられないという生活サイクルの狂った者がごく一部にいるのも事実だ。
ただ、この時間帯での活動が最も最適であるのは何も魔術師だけのことではない。魔術師が魔の恩恵に授かる者であるならば、魔の恩恵に生きるもの。すなわち”魔物“や”霊“などの類の異形たちにとっても、今が最高に活発になる時間帯であるのだ。
異形たちは昼間の明るい時間では姿を隠して、存在に気づかれないようおとなしくしている。しかし、夜になると昼間の鬱屈を晴らすかのようにその存在を現して活動を始める。大昔からこの時間帯における、幽霊や魔物などを目撃したという伝承が伝わっているが、それは限りなく事実に近い。
害を及ぼさないものが大半だが、害を及ぼして時には命を奪う種類がいるのも確かだ。そうした普通の人間などでは対処できないことを、対処しなければならないのも魔術師の役目の一つである。……もっとも、害を及ぼすような異形のほとんどが、魔術師が使役している使い魔である場合が多いことも事実なのだが。
「……まだもう少し先にいるみたいね。そうたいして強いわけでもなさそうだけど、数がどのくらいいるのかが問題かしら」
西園寺結美が今やっていることも、そうした彼女が請け負った役目を果たすためだ。
感知魔術を行使しながら、夜の森の中を進む結美。彼女が今いる場所は一応彼女の家が管理している森だが、夜の闇の中を歩き進む彼女にとって恐怖こそ感じはしないものの、夜の森が醸し出す不気味な雰囲気に心底嫌気が差していた。
瀬戸口市には森が多い。
都市の方は開発が進んでいて既にその姿は見られないものの、郊外の山やその地域にはいまだ深い自然が残っている。
樹木が切り倒され、土が固められ、動植物たちがその住みかを追われようと、力のある緑はそこに残り続ける。文明の光が、彼らの力をやがて凌駕してしまうその日まで、神聖な領域として在り続けるだろう。
……この森もその一つだ。
瀬戸口の町と山地の間にある境界の森。決して広いわけでもないが、狭くもない。地方の都市でならどこにでもある平凡な森だ。
気温にして摂氏十五度。先日までの雨のせいなのもあってか、湿気の残る冷たい夜気が肌に軽い鳥肌を立たせる。
昼の森は人々を招き入れず、夜の森は迷い込む生者を呑もうとする。
聞こえてくるのは微かな風の声と、河のせせらぎだけ。
ここは命の営みを感じさせない無窮の闇。決して人に足を踏み入れさせることを許さない帰らずの森だ。
しかし。そんな森の中を、結美は一人歩き進んでいた。
頼りなげな足音を響かせ、彼女は木々のヴェールを抜けていく。森の空気は冷たいが、それでもコートを羽織らなければならないほど寒いわけではない。おかげで結美は今夜の見回りに支障をきたさない程度の服装で臨むことができた。
「――――」
風が不快な耳鳴りを運ぶ。木々の影が不気味に動く。
幻聴でもなく、錯覚でもない。
彼女が森の奥へと歩みを進めるたびに、「何か」からの声のしない囁きと視線が強くなってきた。まるで「帰れ、帰れ」と、恨みや怒り、そしてそれと同じくらいの不安や恐れを帯びた警告の声であった。
それらの警告に構うことなく、彼女は躊躇うことなく進み続けた。
「――――」
彼女の顔が、かすかに険しくなる。
さきほどから感じていた耳鳴りは既に消え失せ、背筋が凍り付くほどの殺意に変貌している。並みの人間であれば恐怖で身動きが取れなくなるだろう。
しかし、彼女の心に揺らぎはなかった。
きつく縛られた唇には、微塵の恐れもありはしない。彼女は自らの意志でここまで歩みを進めた。恐怖があるのならそもそもここまで辿りついてはいない。
今からやることは、これまでにもしてきたことと何ら変わりはない。ただ一つ違うのは、今夜はいつも一緒にいる彼女のが傍に居るか居ないかだけ。それについても承知の上で、彼女は今夜ここに来たのである。
「――見つけた」
そして、森へ入ってから約二〇分。ようやく今夜の目的の相手を見つけ出した。
左右の木々の陰に隠れている二体と、彼女の正面に漂っている三体。
合わせて計五体。視認できるその姿はおぼろげで不明瞭であり、人の形をしているようにも獣の形をしているようにも見えた。
一体から感じられる魔力はそれほど大きくないため、低級の死霊かあるいはそれに準ずるものであることは確かだ。しかし、それが五体もいて、警告を無視してここまでやって来た彼女を取り囲むようにして待ち構えている。
「こんばんは。無駄話はしたくないし時間もあまりないから今のうちに聞いておくんだけど、あなたたちの主はいつからこの町に来ているのかしら?」
静かに、そして平然と相手に話しかける結美。
しかし、待ち構えていた死霊たちは間合いをはかるようにじりじりと距離を詰めるだけだ。
一応、彼らにも意思疎通を図れるだけの知能は備わっているが、彼女の問われた事に対して返事をするための機能までは備わってはいなかった。彼女としては言葉は無理でも、無意識に向けて意思を発することができる相手であるのなら情報を得る上でありがたかったのだが、どうやら期待外れだったようである。
――まあ、もっとも。
「最初から殺すこと以外に機能がない相手じゃ、会話なんてできるわけないからねっ」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、結美は一気に駆け抜けた。
狙うのは正面の三体。とにもかくにも、この囲まれそうな状況を打破することが彼女にとって最優先のことである。
相手が自分よりも格下のものであろうと、包囲されては手の出しようがない。
そんな結美の動きに正面の三体は驚いたように、慌てて左右へ避け始める。木々の陰に隠れていた二体も、彼女の後を追ってすぐさま攻撃に出ようとした。
しかし、相手の動きを読んでいた結美は、正面の三体のうち右側の一体にすぐさま標的を絞る。左手を広げ、顔の正面に突き出して構えると、すぐさま攻撃に出た。
「,,!!」
彼女は一秒とかけずにその呪文を詠唱する。すると彼女の正面に複数の術式が展開し、瞬間それが一列に並ぶと、一筋の光線が放たれた。魔術師にとっては基礎中の基礎。体内の魔力をエネルギーに変換する『熱量変換魔術』を応用して繰り出す、ほとんどの魔術師が一番最初に覚える攻撃魔術だ。
繰り出した光線が狙いを定めた死霊の体を貫く。光線に貫かれた死霊は、まるで霧が晴れるかのように跡形もなく消え去った。
また結美は、光線を放ったと同時に、右手で上着のポケットにしまい込んでいた小石のようなものを取り出して足元に叩き落としていた。
彼女の右側には、彼女が叩き落とした小石を基点とした小規模な防護結界が張られた。即席で作り上げた結界であるため、せいぜい簡単な盾の役目と視覚的な妨害を敵に与えるだけのものだ。が、彼女が今相手にしている敵に対してならそれだけでも充分だった。
右側の木の陰に潜んでいた死霊は、結美の張った結界のせいで彼女がどこにいるのか分からなくなる。やみくもに攻撃へ出ようとしても、結界の防御は死霊にとって硬く、突破することは不可能であった。
そうやって右側の敵の動きを抑えて時間を稼いでいるうちに、彼女は左側の木の陰に潜む伏兵を片付けようと動き出した。
無論、結美の動きを離れて見ていた伏兵の死霊は彼女を仕留めようと、既に狙いを定めていた彼女に向けて呪いを帯びた魔弾を放った。
放たれた魔弾を、彼女は感知魔術で軌道を読み取って躱した。すると、初めに彼女の攻撃から逃れた二体の死霊が反撃に出ようと彼女へ急速に近づく。
「くっ!
―― . !」
反撃に出ようとしていた敵に対して、結美はすぐさま防御態勢を整える。防御魔術を瞬時に右手へ組み上げ、彼女の目前にまで迫ってきた死霊の直接攻撃をそのまま受け止めた。
「邪魔だから、さっさとあっちに吹き飛んでなさいっ。」
術式を解除すると同時に、手の空いた右手に魔力を溜めて急激に放出した。すると、まるで爆風に吹き飛ばされるかのような衝撃波が彼女の右手から放たれ、その真っ正面にいた死霊が消し飛ばされる。
彼女が今行ったのは、”魔力放出“と呼ばれるもので、魔術とは別次元にある技の一つだ。体内の魔力を四肢の先端、どこか一ヶ所に集中させて溜め込み、砲弾を放つのと同じ原理で吹き飛ばして攻撃する。
一見シンプルで無駄が無いように見える攻撃方法だが、放出された魔力のうち攻撃として有効な分は存外に少なく、細かな狙いを定めることもできない。また、放たれた衝撃波の影響で周囲への二次被害が出たり、下手をすると放出した際の負荷で自身に被害をもたらしてしまうなど、どちらかというとデメリットの方が比重的に大きい。
だが、使い勝手が良いことと、実体を持たないような敵に対して攻撃を瞬時に発動できることから、結美のように状況に応じて使用する魔術師も少なくない。
接近してきた死霊の一体を排除し、その後ろの一体を魔力の衝撃波でひるませる。時間をまた稼ぐと、改めて結美は左側の木の陰に潜んでいる敵に狙いを定める。
潜んでいた死霊は先ほどの攻撃を彼女に躱されたことで、次こそは外すまいとさらに強力な魔弾を放つ準備をしていた。
「!!」
しかし、結美はその圧倒的な呪文の省略化で、先ほどの術式を再び稼働させる。死霊がまだ魔弾の力を込めている途中、彼女は再び光線を放ち、狙いを定めた死霊を消し去った。
魔術にとって呪文とは、個人に対する自己暗示そのものだ。自らの体に刻み込んだ魔術を発現させるために、魔術師は呪文を唱える。その内容には魔術師の性質が濃く表れ、魔術の発現に必要となる意味合いと定められたキーワードが含まれていれば、その詠唱は各魔術師の好みによる。
基本的に詠唱の時間は長ければ長いほどより強力な魔術行使ができるものだが、大掛かりな儀式の時でもない限り、呪文の長さは短いほうがより効率的で好ましい。でなければ、魔術師同士が殺し合いになった時などで実用的な魔術行使ができない。
この矛盾する呪文の詠唱の性質に、大抵の魔術師は真っ正面から向き合ってその方策を練るのが常だ。ただ、結美のように自己暗示をかけるのに長け、呪文の極めた省略化によってその矛盾を克服するような裏道を通れる人間も少なからず存在する。
敵との圧倒的な実力を目の当たりにして、残った二体の死霊は敗北を悟ったらしい。どちらが追われても一方が生き延びられるように、互いに別の方向へ移動し、森の奥へと一目散に逃げ出した。
「申し訳ないけど、逃がさないわ」
そんな敵の逃走に対して、彼女は慌てる素振りを一切見せず冷静に対処する。
先ほど張った結界の基点に向かって右手を広げ、小さく「 」と呟く。すると、即席である結界の魔力が急に増し、森の奥へ逃れようとする死霊を取り囲むように形が変化する。死霊が変化に気づいた時にはもう手遅れで、覆い囲われた結界内に完全に閉じ込められる格好となった。
それらの工程に二秒とかけずに済ませると、結美はもう一体の方に取りかかる。あちらの方にはあらかじめ打っておいた布石はないので、そのまま追撃しなければならない。
稼働させていた術式に細工を施し、発射する光線の出力を調整する。逃げる相手に攻撃するのであれば、威力よりも命中精度を重視した形に変えた方が素早く確実に仕留められる。
術式の細工を終え、逃げようする死霊に結美は狙いを絞ると、先ほどよりも威力を抑えた細い光線を放つ。狙いを絞って放たれた光線は死霊の急所に直撃すると、死霊は風船が破裂するかのように膨らみ、はじけ飛んで消えてしまった。
「じゃあ、あなたで最後ね」
振り返ってそう呟くと、結美は強化した結界に閉じ込めた死霊の始末に取り掛かる。閉じ込められた死霊は何とかして逃げようともがいているが、膨大な魔力を有する高位の霊体でもない低級の死霊にこの結界を破ることは不可能なことであった。
結美は再び呪文を唱え、敵を閉じ込めている結界を操作する。
袋の鼠となった敵に対して、攻撃魔術を使うと言った余計な手間はいらない。加えて敵は歯向かって来ようとする外敵を殺す機能だけを持った機械同然の相手だ。そんな相手にためらいや同情は不要である。
「!!」
突き出した右手を握り締めて彼女はそう叫ぶと、広がっていた結界が一気に収縮する。中でもがき続けていた死霊はそのまま圧し潰され、結界の中で完全に消え去った。
「……ふぅ。終わった、のね。一人で実際に戦うのは初めてだったから正直どうなるか不安だったけど、この程度の掃討をこなす分には大丈夫みたいね」
軽く息の上がった呼吸を整えると、結美は周囲の確認を取る。彼女の周囲に他の敵は見られず、感知魔術を発動させても新たな反応は見つけられなかった。
周囲の確認を済ませると、上着やスカートについた土埃を払って結美は踵を返す。目的は果たし、調べた限り他に異常も見られないのなら、彼女がこれ以上ここにとどまる理由はどこにもない。
今夜倒した敵が、この町の外からやって来た外来の魔術師が使役していた使い魔であったのは確実だ。それらを始末したことで相手の出方も大きく変わってくるであろう。万全を期すためにも、すぐに戻って今後の方針を練ることと、屋敷の守りをさらに盤石にする必要がある。
「……まあでも。相手の素性が掴めないうちでは、せいぜい守りを固めておくくらいしかできないのよね。今後のことについては、林さん……いえ、桂子さんとまた会った時に報告も兼ねて話し合わないと」
口元に手を当て、しばらく考え込んでから結美はそう口にする。
そうして森に静寂が再び訪れた後、彼女は最初に訪れて来た時と同じように、ゆっくりと暗い夜の森を後にした。