第二章 「義務と意思」 プロローグ
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月日の流れは自らが感じる以上に早く過ぎ去る、という言葉をよく聞く。だが、今自分が強く感じているのは、少なくない被害者の数を出しつつも解決することに成功したあの騒動から一ヶ月余り、七月の上旬を過ぎたというのに夏の兆しを一向に見せずにのらりくらりとしている季節の移ろいの遅さだった。
既に梅雨は明け宣言が全国のニュースで流れ、日中を通じて雨が降る頻度こそ実際少なくはなったものの、宣言が伝えられて以降この街の空模様が曇天から快晴に変化した試しは一度としてない。まったく晴れないというわけではないのだが、梅雨の間に溜め込んだ湿気を手放したくないと言わんばかりに雲が太陽の顔を出てくる度に覆い隠してしまい、降り注ぐはずの陽の光をまともに拝ませてくれないのである。
「……今日は午後から晴れになるって昨夜のニュースじゃ伝えてたくせに、一向にそんな変化を感じさせる動きが見られないんだが。おい、どういうことだよ洋介? せっかくの日曜なのに起きた直後から薄汚い曇り空を見せつけられるなんて、テンションだだ下がりもいいところだぞ」
「知りませんよそんなこと。気持ちのいい朝を迎えようとしてその文句を言ったならまだしも、深夜番組を見るために夜更かしして昼過ぎの今に至るまでずっと眠ってたんです。少なくともそんな不規則・不健康な生活を送る人間に、寝起きの気分が悪いどうこうなんて文句を言う資格はないと思いますけど」
休日の昼過ぎ、午前の間に済ませておく家事をようやく片付け、昼食の準備に取りかかろうとしていたちょうどその時、俺は寝坊して気だるい様子のままリビングに出てきた桂子さんを出迎える。おそらく二階の自室から直接そのまま降りて来たのだろう。寝る前にきちんと手入れしなかったせいか茶色の長髪は爆発状態になっており、着古した薄桃色のパジャマは遠目からでも分かるほど多数のシワが寄っていて彼女の寝相が悪かったことを物語っていた。
本来であればリビングにこんなだらしない格好で出てくるのはこの家では厳禁である。というのも、うちは今起きてきた林桂子という、自分こと相原洋介の保護者と言える女性が店長を務め、この地域で知る人ぞ知る程度の規模で認知されている”桂林“という名前の小さな喫茶店でもあるからなのだ。そのため家のリビングは店のフロアも兼ねていて、桂子さんの今の姿を客に見られてはただでさえ知名度の低いこの店の評判が落ちるどころの騒ぎじゃなくなってしまう。
しかし今店内に客は誰一人としておらず、それどころか今日玄関のベルがこの家に人が来訪してきたことを告げた音すら耳にしていない。営業する日時そのものとしてこの店は平日の午後二時から午後六時までと土曜の午前一○時から午後八時までとあり、基本的に日曜は労基法に則って定休日と定まっている。桂子さんがこのだらけた格好と面構えで真っ昼間から堂々とリビングに出てきたのも今日が休日と知っていたからこそであり、さすがに普段はこの人なりに身だしなみの整った格好へ着替えて仕事に臨んではいるのだ。
『――ま、その開店準備は早朝学校に行くまでの間にほぼ全部俺がやらないといけないんだけどさ。ここに引き取られてから今日に至るまでこの人が真面目に勤務してる姿なんて一度も見たことないし、なんで喫茶店を開業しようなんて考えに思い至ったのかその経緯をほんと知りたいよ』
急ごしらえの自宅改造で構えた店だと聞いてはいるが、個人的な感想として店内の内装はおしゃれだが決して着飾った印象を見た者に与えない風情ある洋風の空間として仕上がっており、カウンター席に並べられた背もたれ付きの革製チェアや窓際に配された複数のアンティークテーブルというチョイスは素人の突貫工事で作られたとはとても思えないほどに完成度の高いものである。
しかし、いくらそうしたセンスを持ち合わせたところで、店の経営を軌道に乗せる能力と気概がなければ武器として使えるはずの見どころも宝の持ち腐れとなるだけだ。
桂子さん自身の商売事に対する知識の疎さと生来のいい加減な性格も手伝い、うちは開業当初から赤字スタートでようやく黒字化を達成できたのは俺が高校へ入学した頃と実はつい最近である。元々桂子さんが退屈しのぎの趣味で始めたというきっかけのせいもあって、店の内装と客に対して提供するメニューの準備を終えた段階でもう既に彼女の中ではやりたいことをすべてやり切ってしまったらしく、店の宣伝広告や新たなメニューの考案など店の継続に重要であるはずの営業努力をめんどくさいというただそれだけの理由で怠ってしまったのである。
そういうわけでまったくアテにできない我が家の店長に代わり、俺が店の切り盛りを請け負うことにならざるを得なかった。本格的に店の経営へ口出しするようになったのは中学の二年から三年へと繰り上がる頃であったが、開店準備のノウハウ確立からメニューに必要となる材料を少しでも安く仕入れる方法の模索と把握等々、数えきれないほどの失敗を重ねながら出費を抑えて店の維持に努めてきたのだ。店を畳むという選択は桂子さんが頑として許さなかったため、色んな意味で凄まじい経験をこの年齢で積んできたものだと自分でも思えてくる。
「あれ? なあ洋介、煙草どこにあるか知らないか? レジ横の灰皿の上に置いてあったはずなんだが見当たらないぞ」
「煙草の箱はマッチ箱とセットでカウンターの上に置いてあります。もちろん使う灰皿も一緒です。……何度も言ってますけど、重ねて片付けた灰皿の上に煙草を置かないでくれませんか? 今日は休みですけど朝開店の準備する時に結構邪魔なんですよ、あれ」
「別にそれくらい構わんだろうが。灰皿とセットで置いてた方が探す手間も省ける上に、どこに置いてあったか忘れなくて済む。たかだかその程度のことで邪魔と言って文句をつけるなんて心の狭い人間だな」
「それ一度でも早起きして準備の手伝いをしたことあってから言ってくれませんかね?」
「できるはずがないと分かり切ってることを他人に押し付けてくるな、馬鹿。まあそれはそれとして、わざわざ用意してくれてありがとな」
起きて早々盛大なブーメランを投げつけてくるあたり目はとっくに覚めているようで、桂子さんは俺が用意した喫煙セット一式から煙草を取り出して口にくわえるとマッチを使い火をつける。そしてそのつけたばかりの煙草をそのまま一気に吸い切って肺から紫煙を吐き出すと、さっきまでの気だるそうな顔つきから今度は心身ともに冴えた表情へと切り替わっていた。
「ぃよしっ! スッキリした! やっぱり寝起きの時はこれで一気に体のエンジンかけるのが一番だな」
「絶対に真似はしたくありませんけどね。ただでさえ喫煙は健康に良くないのに、そんな一気にニコチンを摂取するなんて見てるだけでもゾッとしますよ」
「そうか? 吐き出した煙でたまにむせてしまうってこと以外は何も不都合しないんだがな。あ、でも一本丸ごと使い切るって都合上、ゆっくりと味わって吸うことができないって欠点は辛いところあるかもな」
「いや、俺が聞きたいのはそういう事じゃなくて…………まあもういいです。桂子さんがそんな不健康な生活送ってても、その吸血鬼じみた出鱈目な体質で無効化されてるってことはもう昔から知ってるんで」
これ以上雑談にかまけて昼食の準備に取りかかれないことも億劫だったので最後そんな皮肉交じりの返事だけしておくと、俺はリビングから奥のキッチンへと改めて向かった。 その途中――吸血鬼というフレーズがお気に召さなかったのだろうか――「あんな何考えてるのかよく分からん化け物どもとあたしを同列に並べんな、馬鹿たれ」という言葉が聞こえてきたため、こっちの理解が及ばないって意味合いならあんたも変わらないだろうが、と内心突っ込まざるを得なかった。