第一章 「善意と欲望」 プロローグ
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六月になったばかりの夜。俺はいつものように、瀬戸口町某所で営業している“喫茶・桂林”で働いていた。
と言っても、今日も客があまり来なかったため、やった事と言えば掃除と食器類の整理くらいしか挙げられない。
飲食店で働いていながら接客をまるでしないというのは実に奇妙な話だが、店の実情を考えればそれは仕方のない事であった。……決して評判が悪いという訳ではなく。
「あーあ。今日も客は来なければ、おもしろそうな依頼も来なかったなぁ。客が来ないのは一向に構わんが、何もないと暇過ぎて死にそうだよ」
店のカウンターに頬杖をつきながら桂子さんが不意にそんな事をぼやいた。別に暇であっても死にはしないだろう、と思ったが、それをいちいち突っ込んでいてもキリがない。そうですね、とだけ答え、後片付けの続きをする。
「それに、何故か知らんがコーヒーメーカーまで壊れちまった。これじゃ煎り立てのコーヒーを飲めないじゃないかよっ。アタシが」
余程イラついているのだろう。桂子さんの声は、話すごとに怒気を帯びてきているように感じる。台詞を聞いた瞬間コーヒーはあんたじゃなく客が飲むものだろうが、と心中で声を上げたが。
「そして何よりっ。どうしてあたしの煙草が一本も無いんだ!この退屈を煙草無しでどうやって凌げと?おい、洋介。ちょっと近くのコンビニの物でいいから適当に選んで買ってこい」
そしてこのわがままである。まあ、いつも通りの事ではあるが。
桂子さんは飾り気のないタイトなジーンズに、使い古してくたびれたように見える白いワイシャツを着て、茶色い長い髪を垂らすように結っている。
その格好であれば、別に近くのコンビニへ行く程度の外出で誰かと出くわしても、変な目で見られることはない。なのに、自分の買い物を他人に押しつけるのは、めんどくさいからという余りにも身勝手な理由だ。押しつけられる側としてはたまったもんじゃない。
「申し訳ないけど、桂子さん。未成年の俺が煙草を買ったりなんかしたら、問答無用で警察のお世話になりますよ。買った俺も、買わせた桂子さんもね」
内心かなり呆れていたものの、努めて冷静に桂子さんの要求を却下する。
「別に大丈夫だろ。今は夜だし、人も少ないだろうから、店員に軽く暗示かけて買えばばれないって」
……ばれなきゃ犯罪じゃない、とかの話ではないと思うが。
さらっと物騒な言葉を口にした桂子さんに、俺はますます呆れてしまう。
「……そんな事したら警察以上に厄介な連中のお世話になりますよ。もちろん下手をすればですけど」
すると、桂子さんもこの意見ばかりは納得したらしい。確かにそれは勘弁願いたいな、と難しそうな顔を作りながら呟いた。
「――ちっ、クソッ。お前が協会の奴らの事を口にしたせいで、ますますイラついてきたじゃないか。もしこれで肌荒れとかなったりしたらお前のせいだぞ」
「いや、それとこれとは話は別ですから。それにそもそも、一日に煙草を十本以上吸っている時点で、桂子さんには美容に関して何かを言う権利はこれっぱかりもないですっ。――むしろ、肌荒れに悩んでいる健気な女の子達に肩持ってやりたいくらいですよ。まったく……」
最後にそんな事をつけ加えて言ったのは、煙草も吸い、酒も飲み、運動もしなければ肌の手入れもしていないこの人が、世の女性誰もが羨むであろう容姿と美肌を持っているからだ。
三十代中頃もかくやの歳で(初めて会った時が二十代後半と仮定しての場合なので真偽の程は分からない)、あれだけの質を保つのはどんな努力家でも難しい。それなのに、この人は極めて不健康な生活習慣で過ごし、しかも本当に何もせずそれができているのだ。もはや詐欺としか言いようのないレベルである。
「おいおい。美人に向かってそんな事言うようじゃ、彼女は絶対できないぞ。ああ、これ確定」
……なんでこの人はいつもそういう方向に持って行きたがるんだろう?自分で自分を美人と言う時点で色々おかしいし。まあ、悔しいことに美人であるのは確かなのだが。
「……美人でも変人である人に、そんな事を言われる筋合はありません。とにかく、今は手が離せないんで煙草にしても何にしても、欲しいなら自分で買ってきてください」
きっぱりとそう言い切ると、桂子さんはめんどくさい奴だな、なんてぶつくさと文句を言った。
「分かったよ。じゃあご要望通り自分で買ってくるから、掃除済んだら夕飯を作っておけ。当番、今日は任せただろ?」
掛けていた自分のコートから財布を取り出しながら、桂子さんは俺に聞いてくる。
「……そうでしたね。分かりました、何が食べたいです?」
「何でもいい。最低限、肉が入っていれば」
……また難儀なリクエストを。
思わずそう言いたくなったが、桂子さんの機嫌をこれ以上悪くするのもめんどうである。なるべくそうします、とだけ答えると、俺は何かと気難しい同居人の外出を見送った。
店のフロア兼家の居間でもある部屋の奥には、簡易的な台所がある。
狭くて、人が二人通るのがやっとのスペースしかないが、調理をするための最低限の機能は備え付けられている。まあ、他の一般的な台所と比べ、少々変わっているところはあるのだが。
「さて。じゃあとりあえず、まず何の食材が残ってるいるのかを調べるとしますか」
掃除を終え、手を洗ってエプロンを身に付ける。夕飯の用意をするため、冷蔵庫の中身を確認し始めた。
……肉は、まあ、豚肉がぎりぎり二人分なら残ってはいたが、他の食材が若干乏しい様子だ。味噌はほとんど切れかけていた上に、野菜に至ってはじゃがいもとニンジンしか残っていない。ちなみに、加工食品等は桂子さんが毛嫌いしているため、うちの冷蔵庫には一つも無い。
「冷凍パスタや餃子とかならまだしも、ベーコンやソーセージが嫌いなのはどうかと思うぞ……」
体に良いとは言えないだろうが、全く良くない訳でもないのに。おかげでこっちは手間の掛かる料理しか作れない。……その恩恵として、こなせるレパートリーはかなり広くなったが。
「豚肉、じゃがいも。そしてニンジン、か。……となると、作れるのはもう肉じゃがくらいしかないな」
食材を取り出すと、下ごしらえを手早く済ませる。店の手伝いで最初にやらされたのがこの作業なので、今では目をつぶったままやれ、と言われてもできる程上達していた。
自分こと相原洋介がこの家に居候してもう八年になる。
初めてこの家に来た時は、自分は身寄りもなく行く宛てもない境遇に置かれていた人間だった。
八年前。両親が事故で死んで、かく言う俺も重傷を負って死にかけた。幸い一命を取り留め、親戚のいなかった俺は、その後病院の紹介で施設に預かる事となった。だが、そこに自分の居場所は無かった。会った人みんなから煙たがれたのだ。というのも、それは俺が普通の人間とは少々変わった事ができたためである。
否。変わった事ではなく、みんなが知らない事をできるだけだ。
魔術という、神秘を現すための術を。
マッチやライターを使わずに火を起こせたり。割れてしまったガラスを元に戻せたり。さらに極め付きは、何も無いところから色々な物を作り出す事ができるのだ。
もちろん、むやみやたらに使っていた訳ではなく、自分なりに隠し通してはいた。だが、ある日ヘマをやらかしてしまい、秘密はすぐに噂として広まってしまった。
桂子さんと出会ったのは、だいたいそのくらいの時期だ。あの時の強烈な印象は、今も鮮明に覚えている。
診療カウンセラー・林桂子という名目で魔術協会から寄越された桂子さんに、俺は半ば強制的に面会をさせられた。
間抜け。
クソガキ。
不埒者。
初対面してから三秒と経たず、桂子さんは俺に向けてこう言った。名前も、素性の説明も一切抜きでである。子供ながらこんな厄介な女の人と面会だなんてついてない、と思ったくらいだ。
――まあ、もちろん。それから改めて話を聞かされた時には申し訳ない気持ちになり、また背筋が凍り付くような感覚にも襲われた。
故意ではなかったとは言え、魔術の存在を一般人に晒しかけたのだ。魔術の秘匿を大原則と定める協会の基準に照らせば、当然、罰則程度では済まされない大罪である。桂子さんの計らいがなければ俺はあの時、殺される運命だったに違いない。
結局、施設での俺の噂は協会が上手くもみ消したおかげでなんとか収まった。
そして、俺の処分は紆余曲折を経たものの、桂子さんが自分の元に弟子として引き取る、という事にして無理矢理片付けたらしい。
余談だが、桂子さんは自他ともに認める人間嫌いな人である。見知らぬ他人はもちろん、(元々少ないのだが)知り合いと顔を合わせる事すら避けるという徹底ぶりだ。
最近になって、それは幾分柔らかくなったとは言え、それでも外に出る頻度が著しく低いのは相変わらずである。
必然として、そんな人が弟子を取るだなんて事はまずあり得ない。なのに俺を弟子入りさせたのは、当時開いたばかりで人手不足だった喫茶店の仕事にこき使わすためなのも一部あったが、やはり俺の魔術に興味を持ったというのが一番の理由だろう。……確証もない上に、本人に詳しく聞くこともできなかったが。
「おーい、帰ったぞ。
……お前な。下ごしらえしてぼけっとしている暇あるなら、さっさと飯作れ」
「――え?」
気が付けば。いつの間にか桂子さんは帰宅していて。夕飯を催促するように、いつもの不機嫌そうな顔を覗かせていた。
その後。三〇分程掛かって、俺は夕飯を完成させた。
「肉じゃがかよ……」
出来上がった夕飯をテーブルの上に置いて、最初に言われた言葉がこれである。……何が不満だというのか。
「別に悪くはない。……けど、もう少し見栄えのありそうな物を作れなかったのか?」
肉があるならなんでもいい、と言っていたくせに文句を付ける桂子さん。一体俺に何を 期待していたんだ。
「なあ。ほんとに無理だったのか?」
「無理でしたね。残っていた材料がこれくらいしかなかったので。それに大体、材料が切れている原因の一つは、桂子さんが昨日使ったからなのもあるでしょうが」
そう言うと桂子さんはむぅ、と納得したのかしてないのか、よく分からない反応を見せる。
「……まあ、それなら仕方ない事か。――いや、でももう少し考えてから作っても良かったんじゃないか?」
……だったら最初から、リクエストを明確に伝えればいいだろう。
聞き流そうと思っていた文句も、こうもしつこいと流石に腹が立ってくる。こっちは曖昧な提案と、ひもじい冷蔵庫の事情を深く考慮した上で夕飯を作ったのだ。そのくらいの苦労は察して欲しい。
「――そうですか。そんなに文句があるようでしたら、桂子さんは今日飯抜きという事にしますね」
テーブルの肉じゃがとご飯を取り上げ、最後通牒を桂子さんに突き付ける。そしたら「分かった。分かったからそれだけは勘弁してくれ」とすぐにおとなしくなってくれた。
食事を人質に取れば、この人は大抵の事には従ってくれる。一緒に暮らし始めて最初に分かった事だ。気難しいくせに、可愛らしいところもあるものである。
それからしばらくは、夕飯を食べながら二人でたわいもない話をした。
ここ最近の協会の動向に関する報告や、今月の店の収支の見込み。そして俺の学校での暮らしぶりや、桂子さんの人間関係での愚痴話など。そんな当り障りの無い会話が小一時間続いた。
「そういえば洋介。一つ聞き忘れていたんだが」
食事を終えてから唐突に。桂子さんはさっきまでの気さくな感じから一変して、険しい顔付きで話を持ちかけてきた。
この空気は、さして珍しいものではない。
「……はい、なんですか?」
何を聞かれるのか分かっているのに、俺はわざとそう返事をした。
「……。……昨日、この前アタシが仕上げるように言ってた課題。ちゃんとしたのか?」
「……」
気まずい沈黙が二人の間に流れる。いや、気まずくなったのは俺だけで桂子さんはさっきと何も変わっていない。
誤魔化してもばれるのは分かり切っていた事だった。なので正直に報告を伝える。
「――いいえ。昨日はさっき話したように、学校の友人から呼び出しをくらったのと、帰ってからも家事と宿題に追われたので、それで……」
ただ、言い訳をするつもりは無かった。だが、口を開くとどうしても言い訳としか思えないような言葉しか出てこない。そんな自分が情けなかった。
「……。……まあ、お前の事だからきちんと埋め合わせしようと考えてはいただろう。別に、あれは期限を決めてやる程のものでもないしな」
けどな、と桂子さんは一旦そこで目を瞑る。そしてため息を一つ吐いた後、俺にこう聞いてきた。
「――お前。いつまでそんな態度でやって行くつもりなんだ?」
「…………」
静かな、しかし責めるように見つめるその視線に、俺はまた黙り込んでしまう。桂子さんはそれを気に止める事なく言葉を続けた。
「分かっているだろうが、魔術師が人並みの幸せを得るなんて事はまず無理だ。まあ、お前はまだ若いし、社会的な体面がまだ必要なのも理解はできる。だから学校に通うのも高校までならいいだろうと思う。だがな、それで本業に支障が出てしまうようなら――」
「桂子さん。それ以上は言われなくても分かってますから」
遠回しな台詞で話してくる桂子さんに、俺はできるだけ口調を荒げないよう気を付けながら、ようやく返事をした。
ここまで言われて桂子さんが何を言いたいのか。それが分からない程、自分も馬鹿ではない。
いい加減覚悟を決めろ、そう言いたいのだろう。
……そんな事、今更言われなくても分かっている。俺だって、半人前だが魔術師だ。自分がどんな状況に置かれているかくらいちゃんと把握している。だが、それでもあと一年。なんとか今の生活と自分の義務を両立して、それから自分で決めたい。
「……出来なかった分はまた明日やるつもりですし、こんな風に続けるのもあと一年くらいですから。だから心配はしなくても大丈夫です」
「…………」
俺の返事を聞いた後、桂子さんはしばらくの間黙り込んだ。が、再び、今度は浅いため息を吐いた後、「別にお前を心配して言った訳じゃないよ」といつもの底意地の悪そうな笑みを浮かべながら言ってきた。
つまり……ひとまずはそれでいい、という事なのだろう。
自分達にとって重苦しい話題は終わった。あとは、各々の時間を好きなように過ごしたら就寝に入るだけである。
桂子さんはカウンターで、先ほどコンビニで買った煙草をさほど美味しくなさげに吸い、俺は夕飯で使ったテーブルの椅子に座って、地元発行の新聞に目を通していた。
「あ」
不意に、桂子さんが何か思い出したように声を上げる。
それに釣られて、俺も読んでいた新聞から目を離し、桂子さんの方へ顔を向けた。
「どうしたんですか?突然」
「いや……まあ、たいした案件でもないんだけどな。昨日、ちょっと知り合いから気になる事を聞いたの思い出して」
たいした事ではない。そう言いながらも、話している桂子さんの表情はどうも機嫌が悪い。こういう時は、大抵処理するのが面倒臭い話が出てくる事が多い。その事については既に自分も了解済みだった。
「また、不法侵入者なんですか?でも、新聞見た限りじゃあまり物騒な事件は出ていませんけど」
……あくまで強盗とか交通事故の類を無視した上での見解だが。
「あーいやいや、そっちじゃない。不法侵入の話もあるにはあるが、今言おうとしてたのは別件だ。
……実は、なんでもそれまで留守になっていた瀬戸口の管理人が帰ってくるとかなんとか。そんな話を聞いてな」
一瞬、俺は不覚にも、なんだそんな事かと馬鹿正直に納得してしまった。が、すぐに「うん?」と疑問が湧き、急いで思考を巡らせた。
その話は、俺が今まで聞かされていた事と食い違っている。瀬戸口の管理は確か桂子さんにすべて任されていたはずだ。魔術協会から譲り受けるという形で、桂子さんはこの地域一帯とその霊脈の管理権を手に入れ、今まで悠々自適に生活してきた。それが今になって、管理人が戻ってくるとは一体どういう事なのだろう?
「あれ?教えてなかったか。まあ、お前と会う二年も昔の事だったから、言い忘れてたのかもな」
桂子さんは一旦煙草を口から離して、紫煙を吐き出す。
「ということは、瀬戸口の管理人は元々、桂子さんではなかったんですか?」
「ああ……まあ、色々とあってな」
煙草の吸殻を灰皿に捨て再び口に戻すと、昔の事を思い出すような口振りで話し始めた。
「十年前だったか、ここの管理人であったじじいがご臨終して、その際にここの管理権をどうしようかで協会と一悶着あってね。じじいが後継者と指名していたやつはまだ幼かったから、土地の管理なんて任せられないと協会が認めなくてね。
そこで、じじいと知り合いで協会ともいざこざの無いあたしが、その後継者が一人前になるまでの後見人として預かる事になったんだ。連中もどこぞの馬の骨か分からん野心家の魔術師に預けるよりは安心だったろうしな。……まったく。それが落ち着いたすぐ後に、出来の悪い弟子も持つ事になったんだから、いい迷惑だよ」
さらっとひどい事も口にする桂子さんの話を聞いて、俺は事態をようやく飲み込めた。
「ふーん、なんか大変そうですね。まあ、自分に課された義務と思えば気が楽になるんじゃないですか?
……それより、義務と言えば桂子さん。明日の買い物、忘れないように行ってくださいね。冷蔵庫の中身切れてますから、補充してもらわないとこっちは朝昼晩の食事を提供できませんので」
忘れないうちに桂子さんに釘を刺しておく。
この家では基本的に、買い物のような比較的簡単な家事を桂子さん、掃除・洗濯・料理などの手の込んだ家事をを俺がするというやり方を採用している。作業の分担比率が明らかに偏り過ぎているのではないか、と常々思ってはいるが、恩恵的な指数から考えるとこのやり方が一番安全でメリットが大きいのは明らかだ。
他人から見ればおかしくても、当事者である自分達にとってはこのやり方が何かと性に合っているのである。
「とりあえず、三日分の野菜と肉類をお願いしますね。あと、朝の食パンとお米も念のために買っておいてください。まあ、買う量自体はいつもより多い感じですけど、桂子さんならなんとか出来るでしょうし頑張ってくださいね」
そう言うと、読み終えた新聞紙を丸めてゴミ箱に捨てる。
今は夜の十一時。明日は学校がもある以上、鍛練をするでもない限り夜更かしは出来ない。とりあえず今日はもう寝て明日に備えよう。
そう思ってリビングを後にしようとした時、桂子さんが唐突に残酷な台詞を口にする。
「ああ。それなんだかな、洋介。明日急に仕事が決まっちまったから、悪いんだけど代わりにやっておいてくれ。
というか、やれ。命令だ」
瞬間、周りの景色が一斉に灰色と化したような錯覚に襲われる。
桂子さんの言葉を聞いて、自分でも分かるくらい身体が固まっていくのがはっきりと伝わった。
買い物は普通、業務用の食材もまとめて買うのがこの家では通例となっている。三日分の食糧だけでも持って帰るのにかなり骨を折るのに、そこに追加で荷物が増えるのは言うまでもなくえげつない。
――また、そんなうちの事情をよく知った上で追い打ちをかけているのか。
家庭用のスーパーと業務用のスーパーの距離が、どちらも家から三十分近くも離れたところにあるのだから、これで怒らないはずがなかった。
「こっ、この嘘つきッ!そうか、どうりで買い物を頼んだ時からやけに落ち着いているなって思ったよっ!!
つーか、それならそうと先に言っておいてくれっ!」
ついため口で話してしまうが、もうこの際どうでもいい。
実を言うと前回の買い物も桂子さんが忘れたせいで俺が代わりに行っており、あの時は友人の肉体労働に付き合わされた後での作業だったため、危うく腕がちぎれそうな程の筋肉痛に見舞われる事になった。
そんな苦い経験をして、まだそんなに日も経ってないのに、今度は前回よりも重量を増やして買って帰らなければならないだなんて、冗談じゃなかった。
「仕方ないだろ。何せ急に決まった仕事なんだから。おかげで明日は店でのんびりとできないから困ったもんだよ。まあ、体力を使わないといけない仕事ではないみたいだから、そこまで苦労はしないだろうがな」
……おい。俺の苦労はどうなるんだ?
こちらの抗議なぞどこ吹く風。
桂子さんは淡々と、かつほとんど自分の事しか口にせず、言い訳ならぬ言い訳を手短に述べた。
もちろん納得できる訳がなく、俺は食い下がって反論を続けた。
「ホントっ、ひどいったらありゃしないわッ!分かっていたなら、前回行き忘れた事についての詫びくらい欲しいもんだよ、まったくっ!!」
すると、桂子さんはいい加減しつこいぞ、と言わんばかりの目で俺にこう言ってきた。
「やかましい。そんなに文句があるなら、さっさと重量軽減の魔術を覚えられる段階まで磨いてから言え。
それに、まさかさっきの嫌がらせを忘れた訳じゃあるまいな?」
なんだよ、最後のものすごくしょうもない理由付けっ。
だが、魔術の事については言い訳のしようもないため、やはり言い返す事が出来ない。それに桂子さんはこう見えて本当に忙しい立場にあるのも事実だ。協会から任された仕事を無下に断ったりすれば、やはり色々とまずい。
悔しいが、ここはおとなしく引き下がるより他なかった。
「………………分かりましたよ。明日は、――いえ、今回も買い物は俺がやっておきますから。桂子さんはきちんと、楽なお務めをしっかり果たしてください」
俺がそういうと、桂子さんはわざわざお気遣いご苦労さん、とまたも場違いな返答をしてくる。
憤懣やる方ない気持ちで仕方なかったが、もうどうしようもない。それならもうさっさと睡眠を取って、少しでも疲れを抜く事にしよう。買い物が楽になるかどうかはともかく、少なくとも気は晴れてモチベーションは上がるだろうし。
そう前向き捉えるよう努めて、自分の部屋へ戻る。
その途中、
「そう言えば、桂子さん。明日しなければならなくなった仕事って、実際何なんですか?」
ふと、まだその事を聞いてなかったと思い出して、桂子さんに訊ねてみる。
「あん?お前バカか?なんで今さらそんな事聞くんだよ」
「な、何なんですか。別に聞くこと自体は悪くないでしょ?」
そう言い返すと桂子さんはやれやれ、と言わんばかりにため息を吐くと応えてくれた。
「さっき話に出てきた、戻ってくる魔術師。……お前と同じ歳くらいの女だが、その子の出迎えと簡単な挨拶をしなきゃいけないんだよ」
四年ぶりの我が家を見た時に、私、西園寺結美が抱いた印象は廃墟であった。
庭の草木は伸び放題。家の敷地を囲む塀と、煉瓦造りの洋館にはツタやコケが侵略的な勢いで生えてしまっている。かつて私が見た豪勢で温かみのある面影は欠片も感じられず、ただひたすらに時を重ねて寂れた、という事実のみが伝わってくるだけであった。
「はぁ……」
思わずため息をこぼしてしまう。分かってはいたが、実際こうして自分の家が荒廃した様子を見ると心に何かが重くのしかかってくるような気持ちに苛まれる。この様子だと、恐らく家の中もひどく荒れてしまっているに違いない。
――四年。
家族であり、私の師でもあった祖父が亡くなってもう既にそれだけの月日が流れた。私にとってそれは感慨深くあり、またどこか寂しさを感じる時間であった。
「とりあえず、まずは家の中の荒れ具合の確認と寝床の確保をしなきゃ。庭の雑草や家の整備は色々準備も要るし、また今度するしかないわね。
――あっ。もちろん、あなたの寝床のことも忘れてないわよ」
そう言って私は、先程から塀の上で屋敷の様子をうかがっていた相棒の黒猫に声をかけた。
私の声に気づいた猫はぴくっと耳を立て、高さ二メートルはある塀の上から飛び降りる。そして、何やら不満そうな顔を作りながらこちらへ歩み寄ってきた。まるで”本当にここで暮らすのか……?“とでも言っているかのようである。
「仕方ないわ。他に行くあては無いんだし。それに、私たちにとって一番安全な場所はここしかないのよ」
言葉は話せなくても通じることはできる相棒に、私は苦笑を浮かべながら諭すように説明をする。しかし、猫は話に興味が無いのか、大きく欠伸をして顔を洗う仕草をするだけであった。
「……そんなにここで暮らすのが嫌なら、あなただけ野宿するっていうのはどう?」
相棒の態度に段々と腹が立って、大人げ無いとは分かっていたが割と残酷な提案を口にする。すると、さすがに調子に乗り過ぎたと自覚したのか、猫は取り繕うように姿勢を正すと、家に入るのを催促するような仕草をこちらに示してきた。
その調子のいい態度に内心呆れるが、別に自分が咎めるような程の事でもないと思い直す。そして、相棒にばれないよう小さくため息を吐き、四年ぶりの錆で建てつけの悪くなってしまった家の正門を開き、洋館の方へ向かった。
意外なことに、洋館の中は予想していたほど寂れていなかった。もちろん、板張りの床や内装には、降り積もった四年分の埃や汚れがあるため掃除は必要である。しかし、洋館そのものの立て付けには何ら問題はなく、雨露をしのいで暮らす分には何不自由ない具合であった。一番の不安であった寝床の確保は、どうにか解決できたらしい。
「まあ、それだけならいいのよね。……問題なのはこの家が、私たちにとって広すぎることなのよ」
それは、無駄に多い部屋の掃除とか。止まっているガス・水道・電気を再び通す時の苦労云々の話ではない。魔術師である私が、拠点を構えてまず最初にしなければならない、防護結界をこの屋敷全体に張り巡らさなければならないことである。
西園寺の家は、ここ瀬戸口に根城を構え、代々土地と霊脈の管理をしてきた魔術師の一族だ。私の家系がいつ興ったのかは記録に無いため詳しくは分からないが、少なくとも江戸幕府があった頃の時代には、この土地に土着していたらしい。魔術協会の方とも繋がりは深く、私自身何度か祖父に連れられて訪れた事がある。協会の雰囲気自体は重苦しくて好きになれなかったが、あそこにいる――少なくとも祖父の知人や知人繋がりの人はいい人たちで、祖父が亡くなった後も色々とお世話になった。
「その人たちのおかげで、私は色々と学ばせてもらえたし、西園寺の家も没落せずに済んだんだから感謝しないとね」
そこは、祖父の残した人脈のツテや協会に対する根回しがあったのは間違いない。それでも、私個人に対してかけてくれた親切には感謝してもしきれない。……まあ、本当に親身に接してくれたのは祖父の友人など指で数えられる程度のもので、大抵は祖父が亡くなる前に交わした密約での見返りを得るために助けてくれたのであろうけど。
祖父、そして私に代わって瀬戸口を管理しているこの町の魔術師も、土地の利権欲しさに祖父の頼みを引き受けたとか、そんなところだろう。何しろ西園寺の管理しているこの地域は、協会の方でも注目されるほどの高位な霊脈を有している。主脈は過去の西園寺家当主が次代の後継者を育成するために、一族の体質に合ったに調整した。しかし、それ以外に流れている多くの副脈に関しては自然な状態のままで、全く手が付けられていない。おそらく西園寺家がこの地に根城を構えた際に協会との取引で、主脈を含めた土地の権利は西園寺のものと認めるが、副脈は協会の権利とする事になったのだろう。
ややこしい話ではあるが、少なくとも利権の確保を狙う協会の思惑は目に見て取れる。また、下手に瀬戸口の利権を独占して協会に目をつけられるより、上手く協会の意向に沿った提案を出して未来の一族の安全を考えた、その当時の西園寺家当主の英断であった事も読み取れた。
「でも。結局のところ、やっぱり自分たちがなるべく得をしたいから、話がこじれて妥協して上手くまとまっただけなんだろうけど。なんだか嫌な感じね」
理由はどうあれ、やはり親切の裏側にそう言った私利私欲の心がちらついて見えるのはやはり気分の良いものではない。人間であるなら「欲」はなければならないものであるし、それは仕方のないことかもしれない。それでも、浅ましい欲望ほど見るに堪えない、知るに堪えないものは、……私にとって無い。
「馬鹿ね……。そんな事、誰だって思うに決まってるわ」
そんな当たり前のことに納得をしていない自分に、自嘲するようにつぶやく。
その後一通り各部屋の様子をを見て回り、改めて家の状態はそう悪くはないことを確認する。そして急ごしらえではあるが当面の間の防御結界を家の敷地周りに張り巡らせると、明日から待ち受けている苦労に備えて身体を休めることにした。