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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

遠くからでもその声で

作者: AMAB

 アパレル、販売員が一番労働条件が悪くて職業的地位が低いという世間的な印象が、いつの間にか飲食店がその地位を継いでいたらしい。正直言って、飲食業従事者に休みはない。開店時間より少し早めの午前中から閉店の深夜まで、ほんの少しの隙間を縫うように休憩を途切れ途切れに挟みながら駆け抜ける。ひとの飯を作っていながら、自分の飯を食いはぐれることはままある話だ。だけどもうここまで四六時中食べ物の匂いに囲まれていると、腹も空かない。いや、減ることには減るんだけど、食べる気が沸かない。食べても美味しく感じない。

 とはいえ、ここ一、二年はプライベートでも楽しいことがなくて、精神的にも参っている感じはある。仕事は忙しいし、入社三年目じゃまだまだ覚えることも多いけどそれなりに責任もついてきて、ただ上から言われることに頷くことにも疲れてきたところだ。まだ若い社員っていうのは、上とバイトとの板挟みで大変だ。手の足りない日は休みだろうが駆り出されるし、休みなんて月二日ぐらい取れたらいいなって具合だ。

 コックになりたいと上京して三年。友達も恋人も……いない。プライベートなんてものが存在しない生活を三年も続けていればこうなるんだろうなとは思うけど、上京したてのころはこんなんじゃなかった。こんなことになるなんて想定していなかった。

真野まの」「ん?」

 時間がないのと無精とで伸びた髪を邪魔にならないように束ねて、その上から制服である黒い布を巻く。白いコック服に黒いギャルソンエプロンという格好は、ぼんやりしていた僕の肩を叩いた同僚も似たようなもので、違うのはそいつはメガネをかけていて、髪の毛は律儀にカットされているという点ぐらいだ。身長は僕のほうが高いけど。

「今日上がった後ヒマ? 飲み行かね?」

「今日? 何時だよ。オールは無理」

 この曽根そねは同期入社で、配属先も同じで、同じ苦労を味わってきたいわば仲間だ。必然的に仲が良くなって、お互い休みなんてないようなものだからかこうして仕事終わりに飲みに行くこともある。

 ただ問題は曽根は学生の頃から夜通し飲み歩いたり遊んでいたような奴だったのに対し、僕の方は田舎もんだからそういう遊び方には慣れていないということ。オールナイトで飲み続けた後に仕事なんて僕には無理だ。曽根だってオール後はさすがにゾンビ化してるし。

「飯食うだけだって。渋谷の方で気になる店があったんだよ。リサーチリサーチ」

 渋谷という地名にやや抵抗を覚えるのは、あのあたりはよく出かけた思い出があるからだろう。……恋人と。渋谷からぶらぶらと原宿まで歩いて、洋服屋巡りしたり公園でまったりしたり。今思うととても充実していたように思える思い出の日々。今じゃ思い出したところでほっこりするどころかがっかりする。もうあんな満たされた日々は過ごせない。そう思っただけで渋谷という地名は倦厭しがちだ。

「わざわざ渋谷か……」

「別にいいじゃねえかよ。お前渋谷よく行ってただろ」

 だからだよと不機嫌な顔をして見せるけど、事情を知らない曽根に悟れというのは無理な話なのは分かっている。かといって説明するのも嫌だから、ここは折れるしかない。渋谷と言えどそう狭くもないし、あれだけの数の人間がひしめいているのだから、その中からたった一人に出くわすことは確率的にも低いだろう。問題はないはずだ。

 ……たった一人の人と出会う確率がどんなものか知らないけど、僕は彼のことをそのたった一人だと思った。それなのにこの有り様っていうのはどういう事なんだろう。僕の努力不足? それとも彼の怠慢? どっちにしろ、後悔にしかならない。後悔ってのは、あとに悔やむこと。ここまで来たら後の祭りってか。

「ってことで、上がったら渋谷な」

「分かったよ」

 脳天気に悩みもなさそうな曽根の顔を見てたら、何だかウジウジ悩んでいるのが虚しくなってきた。ふざけろ。今日はしっかり飲んでやる。


 *


 渋谷は宇田川町。洒落たレストランやバーの並ぶその界隈は、ストリート系雑誌ではよく取り上げられているとかなんとか曽根が言っていたけど、その手の雑誌を読まないこっちにしてみれば然程驚くべきことでもなかった。でも飲食業従事者としては落ち着いた大人の雰囲気と、遊び心が入り混じったその雰囲気は悪くない。むしろ好ましいとさえ感じるぐらいだった。

 曽根は僕を誘っておきながら知人なんだか行きずりなんだか分からないけど、近くにいた人に話しかけて十分ほど前から席に戻った様子はない。まあ、曽根と面と面を突き合わせて酒を飲んだところで大して美味しくもないからいいんだけど、誘っといてそれはないだろとは思わなくはない。

 曽根が来たがっただけあって、店は悪くない。というより常連になりそうな気配さえある。広くないし変な間取りのカフェバーだけどDJブースまであるし、個室じゃないけど白布でやんわりと仕切られた客席は落ち着いた空間を醸し出している。かかってる音楽の選曲もなかなか。客層はぱっと見で男女の三、四人グループやカップルといった若者層。アパレルとか業界人御用達って感じかな。いかにも渋谷っぽい感じ。

「きゃあ!」

 いかにも女性らしい悲鳴が聞こえたと思った瞬間、ぶちっと何かが切れる音。嫌な予感しかしなくて振り返ったと同時に、目の前が真っ白になった。びっくりして動きが止まる。

「やだあ! 踏んじゃったあ!」

 知性の欠片も感じさせない阿呆な声に苛立ちが募る。別に僕が同性にしか興味のない性癖をしているからといって女性を差別するつもりはないけど、流石にこれには耐えられない。

 視界が白くなったのは、座席と座席を区切る白布をこの女が踏んで引っ張ったからなのは声だけでも理解できる。子供じゃないんだ。ごめんなさぐらいは言えないものなのか? しかもこの布は店の備品で、壊したからには弁償が必要になるはずだ。まあ弁償しろと店側が言うことはないにしろ、少しぐらいは悪いことをした気持ちを表すべきじゃないのか?

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

 布を取り払いながら文句の一つでも言ってやろうとしたところで割って入った男性の声に身が竦んだ。低めの優しげな声。色んなことがフラッシュバックするほど、彼によく似た声。喉がカラカラになって息が詰まった。

「ねえ福川原ふくがわらさん、掴まっていーい? また踏んじゃうかも」

 福川原さん? その珍しい三文字苗字は僕が偶然の間違い電話から出会ったたった一人の人と同じ名前。彼の声が好きで、気付けば彼のすべてが好きになっていた。好きすぎてダメになるんじゃないかと思っていたら、それより先に関係がダメになった。

 だめ、だ。彼と別れてから一度も彼に会ってなかったし、会うことなんて想定もしてなかった。それもこんな場所で、今夜!

「ごめんね、ちょっと待ってて。こっちの人大変になっちゃってるから……」「いえ、結構です。大丈夫だから、もう行ってください」

 白布を頭から被ったままで、僕は必死になって福川原さんの手から逃れた。どう考えても挙動不審でおかしな状況だったけど、顔を見られたくなかった僕に出来ることはそれくらいしかなかった。頼むよ、見逃して。

「でも、」「あんねえ、早くどっか行けって言ってんの分かんねえの? 邪魔なの。どいて」

 福川原さんは優しい人だから布を被った間抜けな若者にさえ手を差し出そうとする。それが僕にはどれだけ辛いことかも知らずに。だけどそれを遮って助け舟を出してくれたのは、どうやら騒ぎを聞きつけて戻ってきてくれたらしい曽根のようだ。あいつなら任せても大丈夫だろうという安心感に全身を束縛していた緊張感が少しはほどける。

「ねえ、行こうよお」

「分かりました。ごめんなさい、すみませんでした」

 謝るのは彼じゃなくてあの阿呆っぽい女だろ。そう思ったけど声を出すのは控えた。もし福川原さんがこっちに気付いたら大変だ。ここは黙って曽根に任せておいたほうがいい。

 世界を白く染める白い布の中でじっとしていると、ぽんぽんと頭を軽く叩かれた。

「出てったぞ。お前も出て来い」

 こそこそと布から顔を出すと、想定外に近い位置に曽根がいた。その顔には事情を説明しろと朱書きされているのが分かる。助けてもらった以上、説明する必要はあるだろう。出来ればしたくなかったけど。

「知り合い?」

「たぶん。顔見てないから分からないけど」

「声で分かった?」

 まるで一問一答禅問答のように質問が重ねられる。遠回しでも遠慮がちでもない曽根の問いは時々とても答え辛い。でも何が知りたいのかわかり易くていい。

 言葉でなく頷いて肯定を示すと、曽根はちょっとだけ考えるような間を置く。だけど口を挟ませる余裕は与えずに次の質問。

「お前が渋谷に来てた理由で、来たくなかった原因? つまり元カレか」

 つか、それもう質問じゃないし。そう口には出さなかったけど顔には出てたのか、曽根は楽しそうに笑いながらグラスに残っていた酒を煽った。

「やっぱお前もこっちの人だったんだな」

「こっちの人?」

 なんだかものすごく納得された態度で言われてもなんのこっちゃ分からない。とりあえずオウム返しに聞いてみる。すると曽根は両手でピースを作って指をちまちまと動かす。外人なんかがよく使うジェスチャーだ。ダブルクォーテーションだっけ? 引用とか強調で使うやつ。

「元カレ」

 元カレ? そうだろ、なにが? と頭を傾げかけたところでやっと頭が働き始めた。元カレっていうのは元彼氏の略。彼氏ってのはつまり、僕が福川原さんという同性と付き合っていたと告白したも同じってことか!

 え、でもこっちの人ってことは、もしかして曽根も同性愛者だってこと? そんな、まさか! さっきだって女性をナンパして姿を消していたはずなのに。

「え? マジで?」

「やー、正確にはおれはどっちでもいいんだけどね。お前きゃーきゃー女に言われる割に興味なさそうだっからもしかしてーとは思ってたんだけどな」

 上手い返しが出来ずにいると、曽根は一人で納得した様子でニタニタ笑っている。なんだか弱みでも握られたかのような居心地の悪さだ。差別されるとか言うんじゃなかったから良かったんだとは思うけど、なんだか全面的に喜べないのはなぜだ……。

「へえ、あーゆーのが好みなんだ?」

「好みっていうか……」

「未練たらたらだからさ。気にはなってたんだけど」

 未練たらたらって……。確かに、間違いなく未練だらけだけど、でもさ、もう過去のことだし。出来れば忘れたいんだよ。もう望みがないのは分かってるんだからさ。

 さっきだって、ショックだったんだ。やっぱり福川原さんって、ノーマルなひとだったってことじゃん? あの阿呆っぽい女が彼の好みだとしたらもっとショックだけど、まだ付き合ってる感じじゃなかったからそういうわけでもないってことにしておきたい。今のところは。結婚なんかされちゃったら立ち直れない。少なくともこっちに新しい恋人が出来ない限り。

「過ぎたことだから、忘れたいんだけどね」

「じゃ今は絶賛恋人募集中?」

「どうかな。別れたからはい次ってなるほど器用じゃないから」

 忘れたいのは事実なんだけど、忘れられる自信がないのも事実。それくらい、彼のことが好きだった。と、いうか、未だに好き。さっき声を聞いただけでもまだどきどきしてる。ほんと恋は人をダメにするな。

「でも、新しい恋人を作ったほうが切り替え楽だと思うけど」

 曽根が何を言いたいのか分かってきた。こいつ、もしかして僕のこと口説こうとしてる? 三年も仕事上とはいえ付き合いがあった仲なのに、一体どんな風の吹き回しだ? 最初の頃は僕に興味あるような態度じゃなかったと記憶してるけど、あの頃は福川原さんと付き合ってて舞い上がってたから外野のことなんて気にも止めなかったけど。

 僕がその可能性に気づいたのが伝わったのか、曽根がにやりと笑ってその可能性を確信へ変えた。

「真野の顔すげえ好みなんだよね。カラダも結構いい感じじゃん?」

 な、生々しい。そういうことに関して曽根はオープンだし、自分の快楽に遠慮しない性質なのは友人兼同僚という立場からも知っている。だけどそれは対象が自分にならない場合に限る。自分が対象となるとまた話は違う。

 ま、まあ興味がないわけではないんだけど……。福川原さんとはその、最後まではしなかったから。キスは結構してくれたんだけど、エッチはこっちにも遠慮があって、あっちはあっちできっと躊躇いがあったのか、そういう流れにはなりにくかった。本当はしたかったんだけど。

「曽根とか……想像つかない……」

「酷くね? 一回ぐらいしてみれば世界変わるって。食わず嫌いは良くないってー」

 食わず嫌いとかでなく、ただそういう目で見れないってだけの話なんだけど、そんなこと言ったところで理解してもらえないんだろうな。曽根だし。なんでも自分の都合よく解釈するのが得意技みたいな奴だし。

「いやでも……」

「これからうち来る? 気持ちよくイカせてやるって」

 冗談、ではなだろうということは奴の表情からも悟った。でもやっぱり曽根とそういう関係になるというのは想像がつかなくて、僕は顔を引き攣らせてぎこちなく笑うしかなかった。さすがにそこまですればこっちが言いたいことも分かってくれたのか、曽根ががっかりした様子でグラスの残りを飲み干した。

「ほんと頭かてえのな。お前」

「悪かったな」

「そこがいいんだろ? まあおれの場合は外見に比重がでかいけど」

 入社前からいやに曽根に気に入られているなとは思っていたけど、まさか顔が好みだったからという理由だとは思いもしなかった。というか、あまり自分の顔が誰かに好かれるという実感が無いんだけど……。自分の顔って毎日鏡で見てるわけで、あまり客観的に見れないからどう自己評価していいものか悩ましいしな。福川原さんは格好いいとか言ってくれていたけど、どれだけ本音だったのかも今となっては分からない。

「ま、気が向いたらいつでも声掛けてくれよ。こっちはいつでも歓迎だから」

 そんな日はいつまで待ってもらっても来ないような気がしたけど、決め付けは良くないと思い直す。少なくとも。どうしようもなくなった場合には協力願うのもいいのかも分からない。いつまでたっても手だけで済ますってのもどうかと思うし。

 願わくば、曽根とセフレになる前に恋人が出来たらいいんだけど。その望みは薄いかもだけどさ。


 *


「キスだけ」

「だめ。やだ」

「舌入れないから」

「絶対入れるだろ」

「一回だけだからさ」

 そんなに酒を飲んだ覚えもないけど、緊張したり弛緩したりとで疲れたのか、さっきからだいぶ酔った感覚でふらふらしているような気がする。一緒にいる曽根はこいつは本当にアルコール分がかなり入っいるからただの酔っぱらい。

 流石にそろそろ帰らないと終電がと言いながら席を立とうとして失敗を繰り返し、ようやく店を出たのは終電も終わったくらいの時間帯だった。曽根は始発まで飲むかホテル行こうとしつこくて、少し前からは身体に触れてきたりもしている。別に露骨な触り方じゃなかったから戯れ程度に思っていたけど、もしかしなくてもあっちはやる気満々なんだろうと思う。

 とうに電車もなくなっているこの時間に無駄な足掻きなのは分かっていても、ついつい足は駅へと向かう。別に漫喫入って寝ててもいいし、それこそホテルに入って寝るのも手段だ。でも今ここでホテルに行くという選択肢は、どうにかして曽根を追いやった後にだけ発生する。じゃなきゃベッドを共にする羽目になりかねない。

「真野お」

 間延びした声で呼ばれたかと思うと、ぐいっと肩を掴まれた。文句の一つでもつける前に、普段仕事で酷使されたせいで鍛え上げられた腕力によって、僕の身体は近場のビルの隙間に押しこまれていた。酔いの回った頭では何が起きたのか理解が追いつかない。

「終電もなくなったことだし。な?」

「意味分からないから」

 お世辞にも清潔的とは言い難いビルの壁に押し付けられて、足の間に身体を割り込ませるようにして僕の身体を固定した曽根のドヤ顔が至近距離にある。太ももには奴がわざと押し付けてるんだろう股間。アルコールのせいでお互いの上がっている体温が布越しでも顕著に伝わってきている。あまりにも最近その手のことをしていなかったからか、曽根とこんなことをするつもりなんかこれっぽっちもないはずなのに、うっかり生唾を飲み込んだ。

「やめ」「ほんとに? お前のも固くなってきてるぞ」

 やらしい手つきでそわっと撫で付けられると、その先を切望しているのかぞわっと快楽に期待している身体が震えた。

「やだって言ってる」

「身体はそうじゃないみたいだけどな」

「エロオヤジかよ、んっ」

 悪態をつくつもりで言い返したけど、曽根が構わず服越しに触ってきて、思わず呻く。自分の声なのにまるで喘ぎ声みたいに聞こえて、びっくりして手で口をふさいだ。こんな汚い路地裏で体を撫で回されて喘いでいるなんて恥ずかしくて穴があったら入りたいぐらいだ。

 聞かれたかなと不安になって曽根を見遣ったら目があった。それもドヤ顔で、満足げな表情の。

「おれの読みだと真野はネコがあってるよ。イイ声でなくし。感じいいみたいだし」

「こんなガタイのやつ抱きたいとか思わないだろ、普通っ」

 ついうっかり本音がこぼれた。だけどこれは本当のことだ。僕はたぶん男として見ればかなり恵まれているのだと思う。タッパがあって、そこそこ筋肉量があって、太りにくい体質。でもそんな男らしいやつを、誰が抱きたいと思う? 女顔の小柄な男と並んだら、皆そっちを選ぶに決まってる。僕の方に来るのは、抱かれたいってやつばっかり。

 僕個人としてはネコだタチだと区分けする必要はないと思っているんだけど、どうも線引きしたがる人が多くて嫌になる。どっちだっていいじゃないか。好きなら抱きたいし抱かれたいと思うものじゃないのか? 少なくとも僕はそう思う。

「おれは抱いてやれるよ。お前の元カレと違ってな」

「なっ、福川原さんを悪く言うなっ」

 言いながら間近に迫っていた曽根を睨みつける。結局彼とはうまくいかなかったけど、喧嘩別れしたわけでもないし、嫌いになったわけでもない。ただちょっと歯車が合わなくてすれ違ってしまっただけだ。現に今も僕は彼のことを思うと脈が早くなるんだから。

 曽根は僕の身体を撫でまわす手を止めずにおやと意外そうに片眉を上げた。未練がましいと僕を責める割には僕が福川原さんのことを庇うのを不思議思うなんて。どうせ僕はしつこい性格をしているさ。別れた元恋人をいつまでも想ってるうざい男だよ。

「ほんと可愛いな。このまま付きあおうぜ。おれならお前のことほっとかないし」

 別にほっとかれたわけじゃない。お互いに空気の読み合いをしてしまっただけのことだ。言い訳なのは分かっているけど。でも、それでも、どちらかが一方的に悪かったというわけではないのは理解している。あの時ああすれば良かった、こうしたら良かったのではないか、なんて何回も自問自答を繰り返した。でも過ぎ去ってしまったことはもう取り戻せない。彼の元を僕は去った。彼もそれを止めなかった。

「満更でもないだろ?」

「……やだって、言ってる」

「この状態じゃ説得力ないって」

「誰だって触られれば反応するんだよ。やめろって」

 凄みをきかせてみたところで、曽根相手じゃ効果はない。どうやったらこの状況を打破できるんだろうか。暴力にだけは行きたくないという気持ちが先立つけど、もしそれしか方法がないのなら仕方がない。

 ケンカもスポーツもやってないけど、毎日くそ重たい鍋やフライパンを振り回してるコックの腕力を舐めるなよ。特別ジムとかで鍛えてなくても、毎日が筋トレみたいなものだ。曽根も同じ職種とはいえ、ホールも兼任している曽根よりは僕のほうが力は上だ。勝とうと思えば間違いなく勝てる。自信はある。

 キスでもするつもりなのか顔が迫ってきて、流石にもうダメだと覚悟を決める。それはもちろん、曽根にキスされ抱かれる覚悟なんかじゃなくて、殴り倒す方の。

「この状況は、双方合意の上ではないと考えていいのか?」

 ぐっと握り込んだ拳は振り上げられるタイミングを完全に逸した。僕は声のした方を見るために、視界に邪魔になっていた曽根の顔を容赦なく押しのける。曽根が何か言っていた気がするけど、そんなのどうでも良かった。そんなことよりもそこにいる人が本当にその人なのかを確認したくて必死だった。顔を見たいけど見られたくない。確認したいけど認めたくない。相反する気持ちがせめぎ合っていた。

「違う! 違います! 合意なんかしてません!」

 さっき声だけで誰か分かったように、そこにいるのが彼だということは分かっていた。顔を見なくったって福川原さんのことは声で分かる。だって僕は最初、この人の声に惚れたんだから。どんなに似たような声の人がいたとしても、間違えない自信があった。

「ではこれは犯罪現場ということか? まあまだ未遂みたいだけどな」

 本気の抵抗を始めた僕に驚いたのか呆れたのか、曽根の拘束は思ったよりも簡単にほどけた。阿呆みたいに慌てて曽根と触れ合っている部分をなくしてから顔をあげると、じっとこっちを見つめていたらしい福川原さんの男前な顔が見えた。本人は至って普通だと思っているらしいけど、僕からしてみれば格好良すぎて困る顔。

 福川原さんは左眉尻が少し右側より上がって見える。本人が無表情のつもりでも、少しだけ微笑んでいるように見える唇に、角ばった顎のライン。耳は綺麗に揃えられている髪に隠れがちだけど、実はもみあげあたりは綺麗に刈り込まれているのを僕は知っている。うなじも同じように刈り込まれていて、そのあたりを指で触るのが好きだった。

「ど、どうしてここに?」

 色々弁解したいことはあったけど、そんなことよりも知りたいのはこれだった。どうしてあの店にあんな女と来ていたのか。あの女は誰なのか。どうしてここに戻ってきたのか。謎ばかりで何一つわからない。でも一番分からないのは、彼の心だ。付き合っている時でさえ、僕は彼の心を理解したことがなかった気がする。いつもなんでだろうなんだろうと疑問を感じていたような感じがする。

 無表情の福川原さんが口を閉じている時間がいやに長く感じて、無意識に握りこんでいた手のひらにじっとりと汗が滲んできた。緊張している。当然だ。彼に目を向けているのが辛い。でも目を離せない。離したりしたらいけないと分かっているから。

「……声で、君のことは分かるよ」

 びっくりして、声が出なかった。見開いた目と半開きの口が間抜けに見えたに違いない。そう思っても、表情を取り繕うことができないほどに驚いた。

 まさか僕の声を聞いただけで僕だと分かっていた? だとしたら、僕が店で布をかぶって彼を追い出したとき既にそれが僕だと分かっていたことになる。分かっていて無視したのはお互いに同じだけど、どうして黙っていたのかと責める気持ちを抑えきれない。

「君も、分かっていて俺を追い返したんだよな?」

 非難したいのはどちらも一緒ってことか。まあ当然といえば当然だ。僕らの出会いは一本の間違い電話。彼と顔合わせをするまではほぼ毎日のように電話をしていた仲だった。お互い声が一番よく分かっている。

 あの頃は良かった。実際に会ってからよりも素直にいろんなことを喋れたような気がする。会ってからは緊張してしまってということもあるけど、どうもうまく話をすることが出来なかったような気がする。遠慮だったのか照れだったのか。今となってはなんだかよく分からない。でも、気まずい沈黙がたくさんあったのは覚えている。

「……はい。ごめんなさい」

「俺は別に謝って欲しいわけじゃないよ。新しい恋人といるときに前の恋人と鉢合わせるのは嫌だろうし」

 福川原さんの視線につられてその方向に顔を向けると、うっかりそこにいるのを忘れていたけど、曽根がつまらなそうな顔をして壁に寄りかかっていた。曽根は露骨に嫌そうな表情を見せて福川原さんを睨みつける。

「なら邪魔すんなよ」

「そう思ったんだけどね。俺には真野くんが嫌がっているようにしか見えなかったから」

「覗いてたのかよ。変態かっつーの」

 見た目がチャラいタイプの曽根と、真面目で優しい福川原さんとじゃ相性が悪いのは目に見えて分かる。でもそれを仲裁に入れるほどこっちに余裕がない。足は動かないし、手は握ってないと震えそう。出来ることなら今すぐにでも走って逃げたい。

「嫌がってるのに無理やりしようとするほうがよっぽど酷い犯罪だと思うけど」

「嫌よ嫌よも好きのうちとは思わないわけ? てかストーカーも犯罪だから」

 このまま放っておけば殴り合いの喧嘩になりそうな雰囲気に、ぶるぶる震えているだけではだめだという危機感が煽られた。この場を収めることが出来るのは、第三者の介入か、あるいは僕だろう。僕のために争うななんてバカみたいなことは言えないけど、僕に責任があるのは確かだ。

「曽根。頼む、黙ってくれ」

「だって」

「頼むから」

 懇願するように重ねて言ってようやく、曽根は口を閉じた。その顔には不満が色濃く残っていたけど、こっちの意思を尊重する気になったらしい。また余計な口を挟む可能性はあったけど、これでしばらくは大人しくしていてくれると信じたい。

 緊張で弱る自分を鼓舞するように深く息を吸って吐き、今度は福川原さんに向き直る。福川原さんは厳しめの目でじっと僕を見ていた。あんまり見ないで欲しいけど、それを要求する余裕はなかったし、言ったところでそれを受け入れてもらえるとも思えなかった。これから話しあおうというのにこっちを見るなはないだろう。僕でもそう思う。

「ど、どうして戻って来たんですか。か、彼女を送りに行ったんですよね」

 彼が本当にあの女と付き合っていたとしたら、しばらくは立ち直れないかも知れない。心の何処かでは、店では他人行儀だったし、あんなのと付き合っているはずがないと確信している。だけどその一方であの女じゃない他の誰かと付き合っている可能性もあると仄めかす自分がいる。僕と別れてから今までずっとフリーであるわけがないじゃないかと思うのに、それを否定したがる。

「確かにあの女性を自宅まで送ってきた。でも俺は彼女と付き合っていない。飲みに来たのも今回が初めてだ。君の方は仕事後のデートってわけか? わざわざ山手線を半分も回って?」

 望んだ通りの否定の言葉だったのに、手放しで喜べないのは彼女のことだけを否定したから。彼女じゃなかったら他の誰かと付き合っているかも分からない。誰とも付き合ってないよって言われればまだ救われた気がするのに。でもそこまでは望めない。分かってる。僕はもう彼の恋人じゃないんだから!

「違います! 曽根は同期の同僚で、今日はただ飲みに来ただけです。僕はあなたと別れてから誰とも付き合ってませんっ」

 泣きたくなってきた。泣いて叫んで胸にあるもやもやをすべて喚き散らしてしまいたかった。だけどそんな癇癪を起こした子供みたいなこと出来るわけがないのも分かっている。ただそうしたい欲求があるというだけで、身体はまったく動いていなかった。

「俺は」

 小さな声だった。いや、そんな気がしただけかも分からない。でもなんだか自信がなさ気で、不安そうな声に聞こえた。僕はきっととても不思議そうな顔をしていたんだと思う。福川原さんの顔が困ったような笑みを浮かべていた。

「俺は君と別れたつもりはなかったよ」

「ハァ?」

 僕が声を出す余裕を取り戻す前に、曽根の限りなく相手を蔑んだような声が路地に響いた。僕は目を点にして、何を言われたのかを理解しようと必死になって頭を動かした。だけどどう考えても、彼が何を言っているのか分からなかった。

「この期に及んで何言ってんだよオッサン!」

「君は事情を知らないだろう? 黙っていてくれないか」

 苛ついた様子を隠そうともせずにそう言い切って、福川原さんは僕の方に半歩近付いてきた。僕の背後には薄汚いビルの壁があって、僕は逃れることが出来ない。だけどもしあと一歩でも近付いてきたら逃げる。例え足がもつれて転んだとしても。

「真野くんはきっと引っ越していった段階で別れたと思ってたのかも知れない。でも俺は、好きなことをしたいという真野くんの邪魔をする気はなかった。だから引っ越すのも止めなかった。別々に住んでいたって付き合いは出来ると思っていたから」

 この人は一体全体何を言っているのだろう? 言葉は耳に届いていたし、かろうじて意味も分かったけど、それが自分事のような気がしない。まるでテレビか小説の中での出来事のよう。

「ごめんね。それだけ、言いたかった。でも真野くんは俺と別れたと思ってたんじゃ、迷惑なだけだよな」

 福川原さんの泣きそうな笑顔。ぼんやりと、こんなに格好いい人なのに、こんなかわいい顔もするんだな、なんて考えた。

 僕は短い間だけど彼といて、一体彼の何を知っていたのだろう。知っているつもりになって、何も聞かなかった。何も知ろうとしなかった。これは僕の怠慢だ。自分の気持ちだけが先行して、彼のことを考えもしなかった。離れてみて気付くなんて間抜けすぎる。馬鹿らしい。阿呆みたいだ。

 でもそれは僕だけじゃない。彼だって何も言わなかった。聞かなかった。たった一言でも何か言ってれていれば、こんなことにはならなかったかも分からない。聞かれないから言わないんじゃなくて、教えてくれなくちゃ分からないことは山ほどある。

「福川原さん、まだ僕のこと……」

「好きだよ。君が彼と付き合っているのなら諦めようと思ってた。だけど嫌がってる声が聞こえて、放っておけなかった。ウザいよね。ごめんね」

 福川原さんのことを好きになってから、僕は何度も何度も自問した。ノーマルな性癖の人を好きになって告白して付き合って、本当に良かったのか? 絶対にだめになるんじゃないだろうか? でも諦めきれなかったのは、どうしても彼が欲しいと思ってしまったから。誰にも渡したくないと思ってしまったから。

 僕は茫然自失としてしまって、何も答えることが出来なかった。ただ思考だけが独り立ちしたみたいに徒然なるままに様々なことを考えていて、目に映ることが現実に思えなかった。夢かも知れない、なんて真剣に検討している部分もあった。

「真野くん?」

「真野、こんな奴別れたほうが懸命だぜ」

 分かってるさ。最初から、福川原さんを縛り付けるのは彼のためにならないことなんて分かってて、告白なんかするつもりなかったんだ。ただそうせざるを得ない状況になってしまったから告白して、何だか強制的に付き合ってもらったようなものなんだってことも。

 だけど福川原さんは僕のことを好きだと言ってくれたんだ。こんな料理以外なんの取り柄もない僕の相手をしてくれて、あまつさえ好きだって、一緒にいてくれるって。それだけで僕は充分だった。少なくとも、満足しているふりをしていたんだ。

「僕は」

 二人に注目されているのが痛いほどよく分かった。僕がどちらを取るのか窺っているんだか、責めているんだか分からない。どんな意味にしろその視線が痛いと感じる。元々見られるのはあまり好きじゃない。出来ることなら見ないで欲しい。

「福川原さんのことが好きです。でも、何も言ってくれないからもしかしたら、無理矢理付き合わせてるのかなって、不安で。ほんとうなら別れたほうが良いんだって分かっていても、手を離せなくて、近くに居たくて……」

 尻すぼみに声が小さくなってしまった。顔を上げて言う勇気もなくて視線はどんどんと地面に向いていたし、はっきり言って酷い有り様だ。だけど、ほんの少しだけでも本当のところを、本音を言えたような気がした。こんなこと今まで一度も言ったことはなかった。恥ずかしくて。

 なんて言われるのか分からなくてどきどきしながら俯いていると、曽根の側からチッと舌打ちが聞こえてきた。そっちにちらりと目を向けると、露骨に嫌そうな顔をした曽根がやってられないとばかりに頭を振っているのが見えた。

「あーはいはい御馳走様。おれはどっかの誰かをナンパして今日の宿を確保するよ。勝手にやってろ」

 そう言って福川原さんをわざと押しのけるようにしてこっちに近付いてきた曽根は、福川原さんの文句も聞こえていないかのように完璧に無視して、僕の俯いた顔をのぞき込んだ。目があって何かと疑問に思うよりも先に、キスされた。抵抗なんてするヒマはなくて、ただされるがままに貪られた。

「お前っ!」

「おれはいつでも歓迎だからな」

 曽根はそれだけ言って、ショックを受けている僕と福川原さんの間からさっとすり抜けると、あっという間に手の届かないところへと逃げ去っていった。あまりの逃げ足の速さに苦情の一つも言うひまがなかった。

 呆茫然としていると、だんっと不機嫌に足を踏み鳴らす音が聞こえて、反射的に顔を上げた。すると当然のように超不機嫌そうな福川原さんと目があった。

「あ、」「真野くん、わざとじゃないよな?」

 あまりに怖い低い声色にビビった僕は声を出すことも出来なくて、ただ必死に首を横に振る。さっきの去り際のキスが計算ずくだとしたら、もっといろいろ上手くやれたような気がする。僕にはそんな芸当は出来ないってことぐらいは福川原さんも気付いているとは思うのだけど。

「あいつとは本当になにもなかったんだよな? さっきの……キスとレイプ未遂だけ?」

 僕は声が出なかったから、当然だと示すように激しく首肯する。曽根が男も平気だって言うのは今日初めて知った情報だ。まあ、知っていたとしてもあいつとどうこうなるつもりは微塵もないけど。だって本当に好みじゃないから。

「正直、腸が、煮えくり返るかと、思った」

 言葉をきつく噛みしめるかのように言いながら、福川原さんが近付いてくる。条件反射で後ろに下がろうとして、壁があることを思い出した。逃げ道はなかったんだった。それに、たぶん今はもう逃げる必要はない、はず。

「あ、あの、」「君は身勝手で一方的だ」

 なじるように言われて萎縮するしか出来ない。たぶん今何を言われても僕が悪いのだと思うし、反論する余裕もない。具体的な理由は分からないけど、とにかく福川原さんにはいくら謝っても足りないような気がしている。

 殴られてもおかしくはない展開に、思わず身が竦む。殴られるのが怖かったわけじゃない。それでも反射的に身構えるものだ。福川原さんの手が振り上げられるのを見て、思わず目を閉じた。

 ……けど、やってきたのは殴られる衝撃ではなくて、そっと頬に触れる手の感触。少し骨張っていて皮膚の硬い手のひらは、少し体温が低め。一緒に住んでいた頃はよくその手に触れたっけ。座ってる僕の頭をぽんぽんって撫でてくれたりするのが好きだった。そんなこと、今まですっかり忘れていた。

「俺が君のこと好きだってこと、信じてなかったわけだよな」

 目を開けると、困ったような下がり眉の福川原さんの顔。

「そ、それは……」

 そんなことはないとはっきり言えればよかった。だけどそう指摘されると、そうだったのかも知れないと思った。僕ばっかりが福川原さんのことを好きで、彼が僕のことを同じように好いていてくれるなんてあまり考えなかったような気がする。だから飽きられるのが怖かった。何も言ってくれないことが不安だった。そして勝手な妄想で端的な回答に飛びついて、そして馬鹿な真似をした。

「ごめんなさい」

「いいよ。謝ってもらいたいわけじゃない。ただ、理解して欲しいだけだから。俺は君が思っている以上に君のことが好きだし、君を手放したくないって思ってるってこと」

 福川原さんは僕のことをもうどうでも良くなってしまったのだと思っていた。最初は物珍しく思って付き合ってくれていたのだと。だから僕が福川原さんの家を出て一人暮らしをすると言っても何も言ってくれなくて、僕が連絡をしなくても向こうから連絡をしてくれなくなったのだと思った。彼に嫌われてしまったのだと認めるまでにしばらくかかった。あの頃、一体どれだけ泣いただろう。

「ご、ごべんなざいっ」

 喉が震えて泣き声になったけど、もうどうしようもなかった。こんなことを言われて泣くなという方が無理がある。外だとか人が見てるかも知れないとかそういう懸念は頭になかった。ただ福川原さんの言葉がダイレクトに伝わってきて、感動してるんだか嬉しいんだか悲しいんだかもう何がなんだか分からない状態で、とにかく感情が昂ってしまっていた。

「うん、もういいから。これからはちゃんと話そうな。俺も反省してる。俺たちにはもっと会話が必要だったんだって分かったんだし、これからはいっぱい話そう。な?」

 こくこくと首を縦に振ると、福川原さんはふにゃりと笑って額に軽く口付けをくれた。まるでぐずった幼い子供をあやすかのようだったけど、ちっとも悪い気はしなかった。そのまま頭を抱きかかえられて、僕は泣き止む努力を放棄して、彼の肩に顔をうずめた。彼の手がそっと背中を撫でる感触に身体の緊張がほぐれていくのが分かる。

 あ、と思った瞬間、がくっと足から急に力が抜けて、必死になって福川原さんにしがみついた。急に僕の全体重がかかったからか、福川原さんも何事かと慌てた様子で僕の身体を壁に押し付けて支えてくれた。福川原さんと壁に挟まれてなんとか地面にへたり込まずに済んだものの、情けないことこの上ない。焦って目を丸くしていると、同じような表情の福川原さんと目があった。

「び、びっくりした。大丈夫?」

「僕もびっくりしました。すみません、なんか、緊張が解けたと思ったら力抜けちゃって……」

 ガタイがいいだけがとりえの僕を支えるのはかなりの重労働だ。身長も体重もたぶん福川原さんより多い。なんとか立て直そうと下半身に力を入れると、なんとか体重を支えることができた。それでもまだだいぶふらついていて、福川原さんにしがみついている手は離すことが出来ない。

「うーん、せめてうちまで頑張れないか? うちに着いたら倒れててくれていい。そしたらイタズラできるからな」

「い、いたずら……?」

 こんな状況で何が楽しいのかと気もそぞろにおうむ返しに問い返す。同時に超近距離にいる福川原さんの顔を恐る恐るちらりと覗き見ると、福川原さんは楽しそうに笑っていた。

「前は遠慮しちゃってあまりエッチなこと出来なかったから」

 何を言っているのかと驚いて目を見開くと、耳元で心地の良い福川原さんの笑い声が響いた。

 電話越しに話していた頃は何度も聞いた笑い声。その声が聞きたくて、電話越しに必死になって自分のキャラクターを作った。会って幻滅されたらどうしようなんて悩んだのが懐かしい。田舎者だから、都内に住んでるという福川原さんに会うのは本当に勇気が必要だった。だけどどうしても会ってみたくて、その衝動を堪えることが出来なかった。

 紆余曲折あったけど、この人に出会わなければよかったなんて結局一度も思わなかった。どんなに苦しくても辛くても、この人に会えた喜びを思えば我慢出来た。

「僕もそれは心残りだったんです」

「それは奇遇だな」

「キス、していいですか?」

「もちろん」

 この薄暗くて汚らしい路地裏で、僕はこの人に出逢えたことを心の底から感謝した。そして同時に、絶対にもう二度とこの人の手を離さないと心に誓う。何があっても、絶対に。

 実はこの話、以前ブログで書いたネタの後日話でした。これだけで読めるように書いたつもりですが、意味不明なところがあったら申し訳ないです。機会があったらこの話の後日談とか、最初の同棲期間中の話も書きたいなあ。

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