乾いた水
一度だけでも会って話し合いたいとか、別れを拒否したいとか、メールを送りたいとか、そんな気持ちは一向にわかなかった。
冷酷に手のひらを返した陽介を恨むより彼がくれた心浮き立つ思い出に感謝したいと思うのは破れた恋を悔やみたくない意地のかけらか。
陽介を身近に感じる書店も避けて通る。
爪を飾る気力もなく、ネイルサロンからも遠ざかったまま、剥がれそうなジェルが無残な姿になっている。そうだ、来週にも手入れをしてもらおう。
乳白色の入浴剤は気まぐれに植物園の売店で休憩時間に買って帰ったものだ。
浴槽の湯に溶かしながらやわらかい香りの湯気をぼんやりと眺める。
こうしている時にも大切な陽介の言葉が思い出される。
おっちょこちょいで泣き虫のみちる、本当にその通り、自分が何者か、遊びで浮気の相手だと知ろうともせず、ずっと支えたいと言われ、自分勝手に信じ込んだ。
息子に知られて家まで捨てようとしてしまった。
考えに捕らわれて、いつまでも湯をかき回していると、遠慮がちに浴室の扉が薄く開けられた。「ママ?」小麦の顔が隙間からのぞいている。
「ママ、大丈夫?入ったきり物音もしないから、心配したよ。ママ最近元気ないから」
不安げに扉を閉めて離れる小麦を見て、もう、考えるのはやめようと思う。さっさと諦める。
そして、これ以上、自分を責めるのも惨めになるのもやめて頭から追い出してしまうのだ。
これからは何事も無かった顔で自分の力で笑いを見つけながら生きるしかない。
翌朝も同じように朝食とお弁当作りの家事で始まった。
だるそうに出勤する浩二を気配だけで見送り洗濯物を干しにベランダに出る。
ふと、8階から下を見下ろす。
ただの何気ない仕草なのか、それとも下を歩く浩二の姿を見ようと思ったのか、自分でもはっきりしなかった。猫背気味に中庭を横切る浩二が見えた。
その瞬間、浩二が立ち止まりベランダを見上げ、みちるを見つけた。
8階からではお互いの表情は判別出来ないが、物問いた気な空気が2人の間に流れていた。
浩二はひょっとして、時々こうして我が家のベランダを見上げて居たのではないか。自分を見送るみちるを探していたのではないか。
ためらいがちに手を振ろうとすると、浩二の方が素早く片手を上げて見せた。
みちるが手を振る姿を確認するときびすを返して敷地を出て行く。
じっと見つめながら、あの背中を再び懐かしく好ましく思える日が来るだろうか、きっと、戻れる、とみちるは唇を噛んだ。




