乾いた水
「通路側の席に座っていたあなたの爪の美しさが印象的でした。サイン会で本を差し出された手を見てあの時の女性だとすぐに分かりました」
壇上の陽介から、膝の上に揃えたみちるの指先まで見えたのが不思議だったが、席からそう遠くもなく、みちるからも陽介の胸元に差したペンの飾りが見て取れたので、それも有り得たのだろう。
「お仕事をされてますか」
専業主婦だと答えるべきか、パート勤めを付け足すべきか。
パッとした仕事をしていたなら、喜んで答えるのに。
陶芸家とか、友禅の染色家とか、フードコーディネーターとか、才能や、確かな技術を誇れる仕事ならどんなに良かったか。
嘘をついてでも見栄を張りたい呆れた自我を何とか抑えてみちるは正直に答えた。
「普段は主婦で週3日植物園で受付案内のパートをしています」
「僕は明後日まで大阪に居ますので、どこかでお会いできますか」
翌日は植物園は休園日だったので、迷うことなく、昼食を共にする約束を交わした。
ほんの2〜3回のやり取りで呆気なく事が運び、時間差で心臓が早鐘を打ち手が震え始めた。
結婚後は夫以外の男と理由も無しに食事などしたことが無かったからだ。
職場の上司や取引先の男に誘われたり、道でナンパされたり、誘われることは再三再四だったが、ややこしい事が苦手で、いつも喫茶店でさえ応じなかった。
夫婦関係は冷え切っていたが、1人でも楽しみは見つけられるし、それ程寂しいとも思って来なかったのだ。
友人の中には子育てを卒業すると、虚しさを持て余し、夫にも優しさを期待出来ず、出会い系で男を見つけて慰めにしている人もいる。
みちる自身はそんな欲望は、映画や小説の世界に触れるだけで満たされるタイプだと思っていた。
しかし、相手がベストセラー作家となれば話は別だ。




