乾いた水
実物は新聞や、雑誌のインタビュー記事の写真で見た、渋い洗練された50代半ばの精悍な男性像を裏切らなかった。
軽く柔らかそうな生地の丁寧な縫製で仕立てられたスーツは背の高い陽介によく似合っている。
話し始めると低い声は聞きやすく耳に心地良かった。
話の内容も分かりやすく、彼の珍しい経歴、オーケストラ指揮者だった時代の話から、小説家への転身、映画化された小説の話、妻である女優、泊美玲が自身の作品で主演した折の夫婦の会話を披露したりと、壇上を降りるまで会場を飽きさせなかった。
手の届かない世界、雲の上の人だと、子供じみた月並みな感想が素直な気持ちで、この時はまだ陽介の存在を自分に引き寄せて考えるなど思いもしなかった。
数日後、大型書店での彼の出版サイン会で再会し、みちるを覚えていたと知るまでは。
見開きにサインしながら陽介は「大学のホールへ講演会にいらして下さいましたね」と抑揚のない低音で言いながら、本に一枚カードを挟み込んで返してくれた。
書店に併設されたカフェで開いたカードにはメールアドレスが手書きされていた。
すぐにもメールを送りたかったが相手が文章のプロだと思うと思わず尻込みした。
2日たって、やっと「身近な距離でサインして頂き感激しました。百合の描かれた美しいカードをありがとうございました。」と短いメールを送った。
特に好きな作品やその感想、激励の言葉など綴ってはみたが拙い考えが恥ずかしく思えて結局全て削除したのだ。
返信はすぐに来た。




