乾いた水
作家・斉藤陽介との出会いは彼の講演会だった。
娘、小麦の通う大学で一般も参加出来る公開授業が有ると知り、読書家で斉藤のファンでもあったみちるはお洒落して出掛けたのだ。
最新作はちょうど購読している新聞に連載していて、つい先日、最終回を迎えたばかりだった。
長編ミステリー小説の中に一度きり現れて消えた女性の登場人物が印象的で、文中の彼女の装いはEMILIO PUCCIを着こなしていると描かれていた。
だから、古いママ友の営む自宅ネイルサロンを訪れた時ふと思いついて「プッチ風の柄模様」をオーダーしたのだ。自分がいつもは無難な一色を選んでグラデーションにしてもらうので、一瞬ママ友は意外そうに眉を上げて見せた。
大して期待はしていなかったのに、ママ友はファッション誌のプッチの広告を見ながら、それはそれはそっくりに本物以上に本物らしく腕を奮って描いてくれた。
みちるの爪はプッチ柄のボタンのように鮮やかな色調で艶やかに輝いていた。
講演会当日はプッチの服を着こなす勇気も買う思い切りもなかったのでスカーフを一枚買ってショルダーバッグの肩紐に結び付けて出かけた。
自己満足のお洒落心からで、人気作家の印象に残りたい、目に留まろうなどと、そこまで考えていた訳ではない。
娘の大学に来るのは入学式以来だった。
外せないゼミが有るので一緒に行けないと言われ、広い学内をようやく探し当てた会場の席についた。
空いていた通路側の非常口に近い席に座る。
その非常口から斉藤が姿を現した時には胸が高鳴った。




