晴天の霹靂
溜め息と共に目を閉じる。自分にはこんな時に行きたいところとか会いたい人は居ないのか。幾人かの友人の顔が浮かんでは消える。皆、忙しいだろうと遠慮が勝つ。新婚の息子の家に行ける筈もなく社会人になったばかりで1人暮らしを満喫しているであろう娘を頼るのも気が引ける。普段から暇を見つけては映画館に行くことを楽しみにしているが、賑やかな場所は気が進まない。昔、一度だけ行ったことのある九条の小さな映画館を思い出し、そこへ向かった。シネコンでは見られない希少な映画が見られるところだ。道を覚えているか、映画館がまだあるだろうかと不安になりながら二度乗り換えて歩く。商店街を外れた住宅街に建つ三階立てのマンションの地下にアトリエのような小さな看板が見えてきた。運良く「これから上映です」と案内され、アンティークのようなレジスターで切符代を支払う。エプロン姿の女性がレジの引き出しを閉めるときチン!と懐かしい音をさせた。試写室のようなこじんまりした室内のシートに収まるとほっと気持ちが緩んだ。客達は中年女性のお一人様が大半で、物静かな人ばかりだ。始まった映画はなんとレバノン映画だった。ベイルートにあるエステサロンを舞台にした女性達の群像劇。戦車と爆撃、戒律と因習に縛られたイメージしかなかったが、そんな環境の下で女性たちは美を求め恋愛に忙しく若さに執着する。今、何を見ても頭に入って来ないだろうと思っていたが冒頭からアラビアンビューティーと評される女優たちの美しさに夢中になっていた。気が付けばスクリーンには低予算を思わせるあっさりと短いエンドロールが流れていた。戒律にも因習にも負けない映画の中の彼女たちのようにもっと自分を可愛がってやれば良かったのではないか。自分自身を諦め、ただ忙しく働き内から湧き上がる欲望にも耳を貸さず傷つけているのは、他ならない自分だったのだ。静かに立ち去る観客の最後に劇場を出るときレジスターにいたエプロンの女性が微笑みかけてきた。良い映画だったでしょう?と目が言っている。節子も頷いて外に出た。