1.8
石川さんに比べたら、須藤なんて可愛いもんだ。
須藤たちなら言葉で散々嬲って私をハブるくらいだ。動いてもたまに脅しをかけたり喧嘩ふっかけてくるくらい。相手をしなければ基本無害。私がどんなに気に入らなくても実力行使に出たりしない。
しかし、石川さん達は違う。
「あうう…」
私は今非常にへっぽこな恰好をしている。
女子トイレのドアにぶら下がっていた。
びしょ濡れで、ポタポタと私の脚から滴が床に落ちていた。
何とか地面に着地したいのだが、ちょっと勇気が出なくて降りられない。
石川さん達が戻ってきたらどうしよう、そう思うのに臆病風に風に吹かれて躊躇してしまう。
とりあえず私がどうしてこんな状況に陥っているのかと説明しようと思う。
昼休みは再び春樹が来るようになったので何もなかったが、放課後になると私は石川さん達に捕まった。完全に油断していたのでそれはもうあっさりと。
私は石川さん達に散々暴言を吐かれて尋問され春樹と別れるように脅され、あげく女子トイレに連れてかれ閉じ込められ上から水やゴミ(最悪なことにトイレの、主に使用済みナプキンなどのゴミだ。うっぷ…。)をかけられた。こんなのドラマとかでしかないかと思っていた。本気で虐めのようじゃないか、いやもう虐めと言ってもいいだろう。
イジメカッコワルイ、なんて言ってる場合じゃない。
間もなく石川さん達は出て行き、私はトイレの個室(洋式)に閉じ込められた。直前に何かを運ぶような音がしてドアの前に置かれた気配がした。石川さん達が去った後私はドアを何とか開けようとしたがどういうわけか動かない。仕方ないので私は便器を使ってなんとか隣のトイレに移動することに成功した。が、降りられない。
「もう腕が…!」
プルプルしていた手が体を支えられなくてどんどん力が抜けていく。そして不意にズルゥンと手が滑った。
ぎゃあ、とか、うわぁとか大方女子らしくない叫びをあげて私は落ちた。
そして運動神経に全く恵まれていない私はお尻から着地、すさまじい鈍痛に床に芋虫が如くのたうち回った。
「あぁあああ…」
なんで昨日と言い私がこんな目に遭わなければならないんだ。
やはり春樹の彼女になるのは何が何でも回避すべきだったのだ。
そもそも私は春樹に接触するべきではなかった。あのとき春樹だと認識してすぐさま逃げ去ればよかった。それをグダグダととどまっていたからあんな事になる。
私があの場から動かなかった理由は二つ。
見つからないように慎重に行動しすぎたのと、久しぶりに聞く春樹の声に動揺していた。
入学式の時の挨拶はまともに聞けなかった。私自身が混乱していて気が付いたら春樹は壇上から消えておりPTA会長とかいう見知らぬおっさんが代わりに喋っていた。
だから小学生の時以前の声しかほぼ知らない私は、格段に低く落ち着いた声に戸惑いを覚えた。
あんなに怖かった春樹なのに、私の知っている奴はもうどこにもいないと分かってしまって。
「それで…」
それで、何だ?
私は今何を言おうとした?何を思った?
うーん、どうやら私疲れているらしい。自分が思っている以上に石川さんたちの攻撃に精神的に参っているようだ。
…それにしても、石川さんたちも私にこんな事をするくらいなら春樹にもっとアプローチをかければいいのに。
黙っていれば可愛いし十分可能性はあると思う。春樹の好みは良く知らないが年頃の男子なら大抵ああいう顔に弱いんだと認識している。
春樹が石川さんとくっついてくれれば平和になるのに。
石川さんみたいな子と春樹が付き合えば、誰も文句を言わないのに。
女子が寄ってくるのが嫌なら、石川さんみたいな取り巻きの誰かと付き合えば丸くおさまるのではないのだろうか。
あの時は気づかなかった春樹の矛盾点に気付き私は首を傾げた。
まぁ、今はそんなことはいい。
私が閉じ込められていた個室の前には机が二列二段にして狭い通路でつっかえ棒的役割をしていた。二列にした机はぴったり通路の幅の長さだった。それは開かないわ…。しかしよくもまぁ、わざわざどこから持ってきたの?
さすがにここに置きっぱなしも悪いような気がしたので、私は机を運び出すことにした。ついでに散らばったゴミをくず籠に戻し、濡れた床を雑巾で拭いた。立つ鳥跡を濁さず。汚したのは私じゃないが。
「よいしょっ」
机を一気に二個重ねて運ぶ。
取りあえず目標は1階の3年教室前。
石川さんたちがそこから机を運んできた可能性は高い。例えそうでなくても生徒玄関が間近だから目につくだろう。よし、とトイレを出て一歩踏み出した。
ずるぅうう。
濡れた上靴が思いがけなく勢い付けて滑り、前のめりに体が傾き派手な音で机を倒しその上にダイブしてしまった。
「~~ッ」
鉄パイプの骨組に胸を思いっきりぶつけてしまう。痛みにぎゅうと体を縮こまる。
「なに、マヌケな恰好してるの」
聞き覚えのある醒めた声に目をゆっくり開けて、その人物を見上げた。
勘弁してほしい。いつもいつも奴は嫌なタイミングの時ばかり現れるのだ。
モデルのような小さな顔にあるのは見つめた誰もを魅了する切れ長の凛々しさを讃えた目、日本人離れした高い美しい鼻梁、色気を否応なく感じさせるやや薄い唇。
目もくらむような美貌。
そんなものを持っている人間を、私は今の所一人しか知らない。
「見たところ、石川たちにやられた?」
なぜか機嫌よさげな声色でそう聞く。
私を見下ろす、その目は残酷な光を浮かべているように見えた。
「うわー、醜いねー」
惨めな恰好の私を見て嗤った。
私が誰のせいでこんな目にあっているのか知っているくせに。
その嬉しそうな顔に、私は直感した。
この男はおかしい。
人として大切な何かが壊れている。
甘さとかそういうものからどこまでもかけ離れた男。
近づいたらダメな人だ、分かっているのに何の因果か私は奴から逃げれないでいる。