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8.3

ガシャン、と自販機の取り出し口にペットボトルが落ちた。

一時間目の授業(化学実験だった)が終わって教室に戻る途中に購買部に寄った。

別に喉が渇いたという訳ではなく、教室には戻りたくないのだ。

春樹が来る予感がしてならない。むしろ来ないと楽観ができない。

そして早々に奴のペースに乗せられて、決心をぐらつかされそのままずるずると春樹と付き合い続けそうで怖い。自分が思っているくらい早い段階でそうなってしまいそうな気がする。

そこまで春樹が抵抗するなら余計に何とかしなきゃと思うのに、結局最後は自分の幸福や気持ちを優先させてしまいそうな自分が怖い。

そんなことを考えていると急に視界が暗転。


「だーれだっ」


…さすがに高校生になってまでこんなことをされるとは思ってなかった。目隠しとか…。


「…篠原」


そのまま名前を呼べば目に当てられた掌が外され、「せいかーい」とにゅっと目の前に黒縁眼鏡をかけた男子が躍り出てきた。


「おはよう、島崎ちゃん」


「おはよう。いきなりだったから驚いた」


あははゴメンね~と篠原は謝ったがその謝り方とか声とか顔とか絶対悪いと思ってないだろう。まぁ、最近は篠原の人を食ったような態度も割と慣れたけど。


「島崎ちゃんなんかすごい疲れてそうだから元気付けてあげようかと思って」


「え、そう?」


やっぱり色々私は分かりやすいのだろうか、と「うん」と即答した篠原を見て思った。

やだなぁ。気持ちなんて人にばれて楽しいものじゃないのに。


「その分だと、まだ迷ってるの?新垣君との事」


ふいに篠原が自販機で飲み物を選びながらついでみたいにそんなことを言った。

私に頭を向けていて篠原がどんな顔でそんな事を聞いているのかは分からない。


「い、いや。春樹とは…別れようって決めた。もう今後一切関わらない」


「そう」


篠原はあっさり答えると飲み物を取り出して、私が寄りかかっている壁の隣に来た。


「それでいいと思うよ。良く決めたね」


いつものように柔い笑顔を振りまいて私を見下ろした。


「だけど、その様子じゃ上手くやれてないみたいだね」


「う、うん」


「そりゃ新垣君も抵抗するだろうね。あれほど執着してるもんね。7年前の事がトラウマになってるんだろうし」


「なんか…理由を言えっていわれて。なんて言えばいいか分からなくて」


理由なんて「春樹のため」その一言に尽きる。けどそれを多分春樹は理解してくれないし納得できないと思う。

嫌いであれば良かった、春樹にもっと酷い仕打ちを受けていれば良かった。

だったらいくらでも理由は言えたし、無理をする羽目にならずに済んだ。


「理由ねぇ…言った所で素直に新垣君が君を手放すとは思わないけどね」


でも良い案があるよ、と言葉が続いた。


「何?」


「君が僕に頼ること」


さらりと篠原は言いきった。

それは、と口を聞こうとしたのを篠原の声が遮る。


「わかっているよ。島崎ちゃんが一人で何とかしようとしてる事くらい。部外者の手は借りたくないもんね。それくらい君にとって神聖なものだから」


「あ、いや、部外者っていうか、巻き込むのは申し訳なくて」


「同じことさ。でも、よく考えてみなよ。あの新垣春樹だよ、君一人でどうにかできる相手だと本気で思ってる?言い方きついかもしれないけど」


「う…」


「結局言い含められて、それどころか下手に新垣君の危機意識を刺激したものだから余計に締め付けが強くなるってオチ」


「……今、まさにその状態です…」


だろうね、と篠原は飲む気がないのか買った缶コーヒーを片手で弄んでいた。


「それでも一人でやるつもり?」


ちらりと横目で私の方を見遣って。

無駄だよ、とそのどこか冷え冷えとした目が言っている。

分かっている。でもそんなの仕方がないじゃないか。

それでも一人でなんとか春樹を離してやらなければいけない。こんなこと他人に任せては春樹にも篠原にも申し訳ない。


「格好付けてる場合じゃないんだよ、島崎ちゃん」


「別にそういう訳じゃない」


「格好付けてるよ。だってこの際形振り構わず目的を果たすべきだよ。誰を何を利用したっていいじゃない。綺麗になんて別れられなくていいじゃない。相手の気持ちなんて考えなくていい。優しすぎるよ、そんなの。だからいつまで経っても付け入られるばかりだし、押し切られるばかり」


「それはそうだけど…」


「それとも何。本当は島崎ちゃんは新垣君と離れたくないのかな。このまま新垣君の未来を歪めたままでいいってこと?」


「ち、違う…」


「なら答えは決まっているでしょ。使えるものは使っときなよ。折角ここに都合よく利用出来そうな奴がいるんだから」


そうした方がいいのは分かる。

私が一人で春樹に立ち向かうのよりずっと勝ち目はあるだろう。

分かっているけど。


「…なんで篠原は、そこまでしてくれるの」


私の手助けをしても、篠原の利益になる事などあるのだろうか。ただ厄介事になるだけだ。

なのに、なぜ篠原はそこまでするのだ。


「なんでって…なんでだろうね」


今やっと気付いたような声色に呆れる。

篠原ってこんなに無自覚だったっけ。


「うーん、島崎ちゃんは何だと思う?」


そして何故か質問を返された。そんなことを聞かれても分かるわけないじゃない。

ふざけんな、と篠原の顔を睨めば篠原は心底おかしそうに笑い声をあげた。


「こっちの理由なんて島崎ちゃんが好きに考えていいよ。多分当たらずとも遠からずだと思うから」


「なにそれ…」


はぐらかされた気しかしない。全然答えになってないし。


「その答え方はずるくない?そもそも…うっ」


急に悪寒襲われて思わず背中が丸まる。なんだ、と顔を上げて視界に入ってきたものに驚愕。



「なに、やってるんだよ」



いつもより数段低い声に怒ってると分かる。

そもそも来たって不思議じゃない。むしろ遅すぎた位だ。なのになんで私はまるで警戒してなかったのだろうか。


「春樹…」


新垣春樹がそこにいた。

切れ長の目は全てを凍りつかせるような光を讃えている。うっすら微笑を浮かべているのが余計に怖い。


「真琴、こっちに来い」


私が動くより早く手首を掴まれて春樹の方に引き寄せられた。

腰に回された腕の力が強い。その力に負けて春樹へ体を押し付けるような形になってしまう。


「いい加減、人の彼女に構うの止めてくれない?」


静かにけれど決して穏やかじゃない声を篠原にかける。

怖い、怖いって。


「彼女、ねぇ…」


対する篠原は全く春樹を恐れてないような顔で口角を上げてにやついていた。

またそんな挑発するような言い方…。

何なんだ、何故篠原は近頃春樹に対してそんなに好戦的なのだろうか。

見ているこっちの心臓が痛くなるから止めてほしい。


「ま、まぁもうそろそろチャイム鳴るし教室に戻りませんか」


険悪なムードが立ち込めた場にいたくなくて話を変えようと声をあげた。春樹の刺すような視線を感じたが敢えて目をそらして気づかないふりをした。


「そうだね~、もうそろそろ行くかな。じゃあ後でね、島崎ちゃん」


そう言って篠原は春樹に拘束されて動けない私を尻目に一人悠々と廊下に出て行った。

ひ、ひどい…。

しかもそんな深読みさせるような台詞まで言い残して。



「真琴」


篠原が去った後、完全に抱き締められ頭の上から声がした。


「後でって何。なんで篠原といた。何を話していた」


春樹の疑問は尤もで答えたいのはやまやまなのだが。

苦しい。締め付ける強すぎて呼吸すらまともに出来ない。ましてや会話など。


「黙るな、答えろよっ」


いや…気付いてよ。

ぺしぺしと春樹の背中を叩いたが一向に春樹が気付いた様子がない。


「俺にだって我慢の限界がある。お前が他の男といるのを見て平気でいれるはずない」


私もそろそろ息の方が限界なんですが。なんか三途の川で三年前に亡くなったおばあちゃんが手招きしてるんだけど。


「篠原の事といい今朝といい、そんなに俺を掻き乱して楽しいか。そんな悪趣味な事は止めろ。頼むから少しは安心させてくれ」


「は…るき…っ」


「真琴、真琴」


息も絶え絶えに春樹の名前を呼んだのが多分間違いだった。

信じられないことに、それがマックスかと思っていたのにさらに強い力が胸と背中にかかって「あ、圧死する…」という確信を抱きながら私は意識を手放した。




■■■■




ここは、どこだ…。

自分の部屋じゃない天井が見える。自分は寝ている体勢をしている。

そうだ、確か春樹に抱き潰されそうになって…。多分気絶したんだろうか。じゃあここは保健室のベットか?


すぐ近くで声がするので、薄目でその方向を見てみてぎょっとした。

どうして…。


なぜかそこにいたのは井澤さんと春樹だった。


「真琴、全然起きないじゃん。ほんと新垣何やったの」


井澤さんの言葉に慌てて目を閉じた。

どうしよう、起きるに起きれない。


「うるさい、というか何でお前がここにいる。出てけ」


春樹の声もする。


「何でって私も真琴の様子気になっただけだし。新垣を真琴と二人きりにしたら何しだすか分からない」


現にこんな事になってるし、と井澤さんが言えば黙れと新垣は言い返した。


「何もしないに決まってる。それにお前には関係ないだろ。とっとと出てけ。昼休み終わるぞ」


春樹の言葉に今が昼休みだと分かった。何時間気を失ってたんだ…私。

というかわざわざ昼休みに私の所に来なくて良かったのに。責任を感じたのかもしれないが、別に本当に死ぬわけではないんだから放っておいてほしい。今はできるだけ春樹と顔を合わせたくない。


「新垣」


「触るなって」


「新垣、私は関係ないの」


なんでだろう。

何か今日の井澤さんの様子がおかしい。

表情は見えないけど、いつもよりずっと落ち着いている。

元気がないのかと言われるとそうでもない気がする。


「関係ないだろ、普通に」


「新垣」


「何、まだ何かあるの」


「新垣…春樹」


どうして、その時井澤さんが春樹の名前まで呼んだのかは分からない。

ただ私の胸の上にちりちりと小さな炎が灯る。

嫌だ。

この場にいたくない。

多分嫌な事が起きる。直感的に感じる。出来れば耳を塞ぎたい。ここから出て行きたい。


「なんで、新垣の彼女は真琴なの。どうして真琴と付き合って、真琴のどこが好きなの」


なんでそんな事を聞く。

だって井澤さんには、そんなのどうでもいい事だろう。春樹が陸上部に入ればそれで良かったはずだ。

誰かが、小さく息を吸った音がした。


嫌だ、嫌だ嫌だ。


言わないで、その先をお願いだから言わないでほしい。

言うなら私の知らない所で。そんなもの私は聞きたくない。



「どうすれば、新垣は私を好きになってくれる」



あ、と声を上げそうになるのを必死で耐えた。

聞きたくなかったのに。はっきり聞こえてしまった。


井澤美咲は春樹が好き。

勘繰ってみたこと何度かあった。でもその度に有り得ないと打ち消していたことだ。

私はそれがずっと怖かった。

多分同じような話を昨日していたのだ。

春樹の嘘つき。

私が心配する事はないなんて、大嘘じゃないか。


「なにそれ。真琴の様子が気になるとか言っておいて、そんな事を俺に聞くとか自分のやってることがデタラメだって分かってんの」


「違う、私はっ」


「何が違うんだよ。結局真琴を理由にして俺に近付いてるだけだろ。俺はあんたのことを少し買いかぶりすぎてた。他よりはマシかと思ってたけど全然そんなことなかった」


「新垣」


声だけで思いの丈が伝わってきそうだった。なにも隠しても偽りもない思いだ。

私は絶対に春樹にそんな風に気持ちを伝える事ができない。

そんなに真っ直ぐに好きだと言えない。



「好き、新垣の事が好きなの」



好き、新垣が


新垣春樹が


春樹が好きなの


好きなの



頭のなかで何度も井澤さんの台詞が細切れになって再生される。

目眩がする、頭も痛い。


春樹を好きになる女の子なんて山ほど見ている。

その中でも誰よりも井澤さんは春樹と対等になりうる存在だった。

春樹が彼女を好きになる要素はあったから。


駄目だ。

嫌だなんて思っては駄目だ。渡したくないなんて思っちゃいけない。

春樹を手放す私に怖がる資格なんてない。

解放するっていうのはそういうことだ。春樹が誰を好きになろうといいって事だ。

それでいいんだ。いいんだ。


「あんたやっぱり声大きい、真琴が起きたらどうする」


「起きればいいよ」


「ふざけるなよ。こんな会話を聞かせられるか」


「起きて何もかも思い知らせてやればいいんだ。逃げてばかり守られてばかりの真琴に新垣の気持ちも現実も分らせればいい。気付かないでいいわけない、そんなの私が許せない」


「井澤!」


私の体が揺さぶられたがすぐにその手は離れる。

多分止めたのは春樹だ。

はぁ、と溜息を吐く音が聞こえた。


「分かった、ここは一先ず出る。話はそれからだ」


そしてバタバタという音とともに声が遠ざかっていく。

人の気配が無くなって布団の中に潜りも込んだ。

誰にも顔を見られないように。

奥歯を噛みしめて息も殺す。


大丈夫だ。

これくらい大丈夫だ。


良かったのだ、春樹には井澤さんがいる。

井澤さんなら多分おそらく大丈夫だ。

私の代わりなどすぐなれるだろうし、私ように春樹の価値を曇らせることにはならない。

これでいいのだ。


「うっ…」


それでいい。それでいい。それでいい。

そうして欲しかった。

春樹がそれで救われるならそれでいい。

その為に決めたのだ、全部決めたのだ。全部断ち切った。

そこに私の感情なんて要らない。

前は全部自分の為だった。嫌な自分の心を知られたくなくて、嫌な人間になりたくなかった。でも、今度こそ春樹の為に。春樹の為にすることなのだ。

それだけが私が春樹に出来るせめてもの謝罪なのだ。


キィとドアが開く音がした。

誰かが入って来る。保健の先生だろうか。

いけないことかもしれないけど、もう少しだけ寝かせておいてほしい。

私はそんなに切り替えが上手くない。思ったこと顔に出ているみたいだし、簡単に動揺してしまうのだ。いつも通りの島崎真琴に戻るにはもう少し時間が要る。

私の気持ちとは裏腹にどんどん足音は近付いて、すぐ傍で立ち止まる。


ばっ、と突然布団が引き剥がされた。

弱虫な体が外気に晒される。


「なーに一人で泣いてるの」


軽い声は良く聞くものだった。

先生では無かった。

さっきまで私が布団の端を掴んでいたのは篠原だった。


「泣いて、ないから」


そう、と全部分かってるくせに篠原はあっさり引き下がる。

篠原には馬鹿らしい光景だろう。

私は口だけで、弱くって、惨めなだけだってとっくの昔から分かっていたはずなのだ、この男には。


「馬鹿でしょ、私。笑っていいよ」


こんな私笑い飛ばしてほしい。

どうしようもない、誰かの為になど到底出来ない私を好きなだけ罵倒すればいい。


「嫌だね」


ギシ、とベッドのスプリングが軋んだ音がした。

篠原が私の頭の横あたりに腰を下ろした。

その手がどういうつもりか私の髪を掬った。


「分かるよ、辛いのは。だって本当に新垣君が大事だったんだもんね。君の宝物だったからね」


宝物、確かにそうだったのかもしれない。

大事すぎて触れるのも欲しがるのも怖かった宝物だったのかもしれない。


楽になりたい?


後に続いたのはそんな言葉。


どうしようもなく辛いなら、楽にしてあげる。

助けてあげるよ。君を苛むもの全てから。

だから僕の手を取りなよ。


その甘い言葉を振り払う気力はもう無かった。

本当に苦しくて悲しくて取り乱していて、ただもう私はその言葉に頷くことしか出来なかった。

助けて、助けて欲しいと。

なんにも出来ない子供みたいに。


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