7.8
「お、おはよっ…」
寝坊した。携帯のアラームを寝ぼけて切ってそのまま二度寝してしまったのがいけなかった。母に起こされ起きてみればいつもより三十分近く遅い起床。普通に学校に幾分には問題のない時間だけど、春樹のマンションに寄るのをふまえるとぎりぎりの時間。
正直、春樹はもう先に行っているかと思ったけど。
春樹は既に制服を着てドアの前にいた。私の姿を認めると此方まで歩いてくる。
「遅い」
こつ、と春樹の拳が頭に軽く当たった。
「先行っても良かったんだよ」
私のせいで遅刻なんてさせたらそれこそ申し訳ない。
何言ってんの、と春樹。
「電話すれば良かったのに、そしたら俺が真琴の家まで行くし。使えよ、文明の利器」
「あ…そうだね」
ほんと春樹のいう通り。そうすれば時間が短縮できたのに。こんなに走ってまで来ることなかったのに。全くそんなこと頭に無かった。来てくれとは言えなくても先に行くようには言えたはずなのに。
「そんな心の底からがっかりしたような顔しなくても」
「え、そんな、別にそんなことは」
「出てる、お前結構何でも顔に出てるから。かわいいからいいけど」
「え、嘘…」
春樹の後半の言葉は聞かなかったことにして、自分の顔を思わず触る。そんな顔に出てるなんて…。でも考えてみればよく春樹に思考を読まれてることが多々あった。不思議だったのだ。春樹が特殊なのだと思っていたけど、そうではなくて私が単に何でも顔に出していたってだけのことなのか。なにそれ、超恥ずかしい。
「ぽ、ポーカーフェイスを心がけるよ…」
あんなことやこんなことまで顔に出ていたかと思ったら憤死しそうになる。
え…まだ、バレてはないよね。大丈夫だよね?
「無理だとは思うけど。お前昔からだし」
笑って、春樹が手を差し出して何も考えずそれを取る。ぼおっと蕩けた頭で。
…なにその笑顔。
そんな無邪気そうに目を細めて、柔らかく口元を緩めて、嬉しそうに楽しそうに幸せそうに微笑んでいる。イケメンであるとか、そういうの関係無しに目を奪われてしまいそうな表情。
きゅう、とまた心臓が締まっていく感覚。血液が全身をすごい速さで駆け巡って、熱い。
とっさに下を向く。
なんで私は簡単に手を繋いでしまったんだ。これじゃ距離が近すぎる。
「あ…私走ってきたから汗かいてて、あの、手汗が…」
とっさに出てきた言い訳は、残念ながら嘘じゃない。あと緊張のために1.5倍は多めに出ている。
「ほんとだ」
春樹が繋いでいる手に目を落とした。否定されなかったことが微妙にショックだけど。
「ビショビショだな、こんなにいっぱい濡らして…恥ずかしい奴」
「あの、春樹さん…?」
「真琴のせいで俺の手がふやけそうなんだけど、どうしてくれるんだよ」
いくら私でもそこまでは手汗出してないと言いたい。
さっきの天使の微笑みはどこへやら、いつもの意地の悪そうなにやにや顔になっている。クククと愉しそうに笑い声まで上げて。
「セ、セクハラっ…」
「何がセクハラなんだよ、俺は手汗の話してるんだけど。勝手に妄想膨らましてるそっちが欲求不満なんじゃないの?」
「違うし…断じて違うし…」
「あー、楽しみだな。あと六日」
というやり取りが何度か続いて、遅刻した。
なんか最近おかしい。
アイデンティティー的な大切な何かを忘れてる気がする。
「どうしよう…」
「最近、あんたいつも頭抱えてるわよね…何、遅刻したのがそんなにショックだったの」
休み時間の教室。いつものように私の机に座った須藤を見上げる。彼女にすがり付こうとして「気色悪い」と手の甲をぺしっと叩かれた。
「須藤…私さ」
献上品として鞄からビニールパッケージの新製品のお菓子を封を切って須藤に差し出す。
「何よ」
スナック菓子をぽりぽり食べてる姿がハムスターっぽい。
「怖くない…最近春樹が。どうしよう」
「はぁ?」
そうなのだ、春樹が怖くない。
ちょっと前まであんなに怖かったのに、今は全く。
良く分からないことで怒るし、睨むし、扱いは乱暴で怖くてできることなら近づきたくも関わりあいたくもなかったはずなのに。
だけど、最近は春樹の考えていることが前よりも分かる。言いたいことも比較的言えるし、扱いも丁寧になった気がする。少なくとも無体なことはされなくなった。
だからなのか、春樹といるのが苦痛ではない。
それどころか、一分一秒でも長く一緒にいたいとか…。
「なんで怖いと思ってる人と付き合ってたかは知らないけど、いいんじゃないの?怖くないなら」
「いや、それが逆に怖いっていうか」
私が私じゃなくなっていくようで。作り変えられていくようで。
どこかでブレーキ踏まなきゃいけないんじゃないかと不安になる。
「色々考えすぎなのよ」
単細胞のくせに、と毒突いて。
「あんた気付いてないだろうけどあんたが言ってる事の大体はただの惚気よ。耳が腐るから私にそんなこと聞かせないでよね、彼氏に聞かせればいいじゃない。彼氏に」
くい、と須藤が顎を動かした方を見れば教室の入り口に見えた。あまりに珍しいことだから驚いた。
「真琴」
手招きしている、こんな休み時間に一体どうしたのだろうか。
慌てて春樹の元へ駆け寄る。
「どうしたの」
聞くと、ああ、と春樹が声を上げた。
「今日昼休み行けないから」
ちょっと用ができて、と言葉が続く。
そういうことか…何か別のベクトルの事を考えていた自分が恥ずかしい。
「そっか、分かった」
そういうことは勿論あるだろう。教室遠いのに言いに来てくれた春樹は律儀だと思う。
ふいに私の頭が掴まれた。春樹の親指が私の眉毛の端を撫でている。
何事かと春樹の方に目を向けると、口角を上げている春樹がいた。
「そんな寂しそうな顔するなよ」
え、また顔に出てました?嘘だ…。
「すっごい下がり眉、情けない顔で笑える」
「すいません…」
なんで謝る?と春樹が小首を傾げた。
いや、こんな…笑える顔した彼女でごめんなさいという…。
「いい子にしとけよ、篠原に付いていったりするなよ」
「うん…」
ぽす、と最後に一つ私の頭に手を置いた。それを合図にしたようにチャイムが鳴った。
自分の席に戻ると何故か須藤の顔が赤かった。
「…このバカップルが」
なぜかぎろりと睨まれた。バカップルって…。
■■■■
昼休みに手を洗いにトイレまで行こうと廊下に行けば、ばったり遭遇した。まるで合わせたようなタイミングで。
「やぁ、島崎ちゃん」
眼鏡の中性的な顔立ちの男子がへらっといつものように蕩けた笑顔を顔に浮かべて私に手を上げた。
「篠原」
「ねぇ、お昼一緒しない?新垣君行けなくなっちゃったんでしょ。新垣君いないと屋上行けないし、僕ぼっちなんだよね」
篠原に付いて行ったりするなよ。
脳裏に春樹の言葉が浮かぶ。
「ごめん、私友達と食べる約束してるから」
少なからず良心は痛む。それにこんな風に突っぱねるのは、ただの自意識過剰な気がしてならない。篠原に他意が無かったら相当恥ずかしい。ていうか、他意が無い可能性の方が圧倒的に高い。
「そっか、なら仕方ないね」
あからさまに肩を落とす篠原がちょっと哀れで。
でも春樹には付いていくなと言われているし、須藤と先約があるのは本当だし。
迷いに迷って私は口を開いた。
「み、皆で食べようか」
提案すれば、篠原は顔を輝かせて「うん」と応えた。
「誰よ、こいつ」
須藤が手に持ったフォークを篠原に向けていた。
篠原は教卓の横のパイプ椅子を借りてそこに座っている。
「あれ、夏休み前に会わなかった?須藤凛さん」
「何で名前フルネームで知ってんのよ!きもっ!私名乗ってないわよ、あんたになんて」
そうだっけ?と篠原がとぼけていた。
そういえば確かに須藤と篠原は初対面ではなかった。けど、須藤が覚えてないようだから一応紹介したほうがいいだろうか。
「えーっと…こちら篠原君っていって」
「ああ、篠原ってこいつの事なんだ」
頬杖をついて須藤がそう零す。
「いいの?篠原に付いていくなって言われてたんじゃなかったの」
やっぱり須藤に聞かれてたのか。
そりゃそうだ。私の席は右から数えて二番目で最後列。教室の入り口でなんかしてたら分かるだろう普通。
「…付いていくんじゃなくて、連れてきたんだから大丈夫…多分」
「私しーらない」
そんなこと言われたら不安になるから止めて欲しい。
多分問題ないはず。須藤もいるし。春樹の耳に入ったって別に怒られたりはしないはず。
昨日言ったことが引っかからなくもないけど。
「へぇ、そんなこと言われてたんだ。じゃあ何か悪いことしちゃったね」
口ではそういうが少しも悪びれた顔をしてない。
なんだかその言葉に変なものを感じた気がした。気のせいかもしれないけど。
「あっ」
いきなり須藤が声を上げた。何かが転がっていくのが見えた。
床に転がっていたのはミニトマト。
「……」
じっとそのトマトを無言で睨む須藤。
落としたのか、落としたんだね。
「……島崎、今何秒経ったと思う…?」
「いや、3秒ルールは迷信だから!普通に洗ってくれば食べられると思うよ!ミニトマトくらいなら!」
そうよね…と須藤がフフと笑った。その目が危ない。
とにかくトマトを拾って須藤に渡して廊下に出してやれば素直に水道場まで歩いて行った。
良かった。須藤が野生に目覚めなくて本当に良かった。
「須藤さんって意外と面白い人だね」
「うん、本当に…」
篠原の言葉に同意して振り返ってみれば、ふと篠原と目が合う。
てっきりいつものようにへらへらしているかと思ったのに、全く表情がその顔に浮かんでいない。
「というか、島崎ちゃんもいいように躾けられちゃって」
怖い。
あの日、噛み跡を見つけられた時と似ていた。篠原がまるで別の人になったみたいで怖かったあの時みたいな。
「何の話してる…?」
「んー?新垣君のこと」
間延びした声だけがいつも通り。
「新垣君の言いつけなんて守らなくっていいんじゃない?そもそも君の事情なんて全く気にしないで言ってることなんだから」
それに、と篠原が言葉を続ける。
「そんなことを島崎ちゃんに言う割には、新垣君今誰の所にいると思う?」
そこまで言ってから篠原は口角を歪める。
「井澤美咲」
え、と声が出たがその先が出てこない。
というか上手く頭が働かない。ただ言葉を発した篠原の口元をぼんやり見ている。
「まぁ、何の話をしてるかは分からないけどね。あんまり興味もないし。僕が言いたいのは、その程度の人間なんだよってこと。新垣君は」
篠原の茶色い瞳が私の顔を覗き込んでいる。
「それでも好き?新垣春樹が」
聞かれて、頷く。
どうして篠原に気付かれているのかは分からないけど。
私の答えに篠原は少しだけ目を細めた。
「そうだね、島崎ちゃんはそういう子だよね。それくらいで嫌いになるなら好きになんてならなかったよね」
でもね、とその口が動く。
「新垣君は島崎ちゃんを好きではないし、君の存在が重荷にしかならない」
指先がどんどん冷えていく。
この先の篠原の言葉を聞きたくないと思うのに体は動かず、耳はやけに冴えてかすかな物音すら拾ってしまう。
「小さい頃、新垣君は誰も愛情をくれる人がいなかった。そこに君がいて彼を助けたものだから刷り込みみたいに新垣君は執着した。新垣君には君だけだったから」
どうして篠原がそこまで知っているのか分からない。分からないけど、そこを気にする余裕が私にはなかった。
「それだけなんだよ、ただの執着。今だって単に未だに周りに目を向けられずに君に見苦しいほど執着し続けているだけのこと。そんなことをしていて君がどんなに愛情を求めたって、新垣君にはそんなもの差し出せない」
だって君が本当に好きな訳ではないから。
「それに、君がいるせいで新垣君はそのまま周りに目を向けられない。いつまでも自分の価値に気付かない。本当はどこまでだって輝ける人種だって島崎ちゃんは知っているでしょう?それを島崎ちゃんへの執着が曇らせている。君が正しい方向に引っ張られるようなタイプなら良かったけど、残念ながら君は最終的に流されてるし」
「あ…」
「大事だね、君は新垣君が大事だ。下手したら自分よりも大事かもしれないね」
なら、と篠原が続けた。
「尚更もう開放してあげた方がいいんじゃない?」




