5.1
*篠原視点です
じりじりと熱で道路の上の空気がゆらめいている。蝉の鳴き声が鬱陶しい。今年の夏は記録的な猛暑らしい。どうやら地球は僕を本格的に殺しにかかっているらしい。うん、夏なんて大嫌いです。
夏休みになって本来、休みであるのになぜか僕は学校へ向かっていた。部活の会議のために。めんどくさ。本当ならクーラーのがっつりきいた部屋で寝てたのに。
もう脳みそが溶け出しそうで、ダラダラと垂れる汗が鬱陶しくて半目になっていて、そんな状態だから彼女を見かけた時、白昼夢でも見てるかと思った。
「あ、篠原おはよう」
「お、はよ…」
普通にあっさり声をかけられた。
半袖シャツの制服、肩まである髪は大きめの髪留めでまとめられていて、デオドラントの甘い香りがする。
校庭の隅で僕は彼女を前に少しの間狼狽してしまった。
「暑いね、まだ10時なのに」
島崎真琴がいた。
ミニタオルで彼女は自分の顔を拭っていた。
「島崎ちゃん、どしたの?呼び出しでもくらったの?」
「いや、補習…」
「ああ、夏期補習ね」
うちの高校は長期休業に補修授業を行っている。授業内容は前期授業の内容の復習とかセンター試験対策とかやっている。僕は一回も参加したことがないけど。
「偉いね、島崎ちゃんは」
「篠原だって学校来てるじゃない」
「いや、僕は部活だし。多分一時間もしないで帰るから」
なんでそんな少しの部活のためにわざわざ行かなきゃならないんだと改めて思ってしまう。こんなことなら僕も補習受ければよかった。そしたら、夏休みでも島崎ちゃんに会えたのに。
…って、なにをいってるんだ僕は。ただでさえ暑いのに何故か顔に血液が集中しだした。意味不明だ。
「部活の方が偉いよ、ご苦労様」
「……うん」
あれ。島崎ちゃんって、こんな柔らかく対応する子だっけ。
さっきだって島崎ちゃんから挨拶してきたし。
もしや今ここにいる彼女は僕が勝手に作り上げた妄想なんじゃないだろうか、と急に不安になった。
「ああ、そうだ。そういえば、苛めの方はあれ以来何もない?」
僕としたことがなんて下手な会話のずらし方。変に思われなかったかと内心ひやひやした。彼女の顔を伺うと特に気にしてないようだった。それはそれで少しがっかりするような気がするのはなんでだろう。
「石川さんたちのこと?ああ、大丈夫。というか、なにしたの。石川さん達も栞も川島君達も私と目が合っただけでものすごい勢いで謝ってくるんだけど…」
私何もしなくていいって言ったよね、と島崎ちゃんは不審げにこちらを見遣る。
僕はただ新垣君に写真SDカードを渡しただけだからそんなことを言われても分からない。
「今更だけど本当に何もしなくよかったの?かなりひどい目に遭わされたでしょ」
集団で襲われていた彼女は目もあてられないような恰好になっていた。未遂とはいえあんなことをされたら精神的ダメージは相当なものになるだろう。普通に学校側に証拠を渡したら退学モノだろうし、それをしないどころか個人的復讐をしないとか。どんな聖人君子だよ。
「まぁ…でも、私も多少は悪いし」
「へぇ?」
「なんていうか私、もっとちゃんと人と付き合なきゃいけないかもしれない。その人がどういう人なのか少しは分かろうとしなきゃだめだ。適当にごまかすんじゃなくて…ああ、えーと、ごめん。何言ってるか分からないでしょ。うん、もういいや」
いやいや、勝手に自己完結しないでくれる?こっちが分からないと思ったならもう少し詳しく説明してくれてもいいじゃない。
ってゆーか、こんな無防備に僕にフラフラ寄ってきていいと思ってるの。
この子完全に忘れてるんじゃない?僕が島崎ちゃんにキスしたの。
頬っぺただったから?
そんなにインパクトなかった?
こっちはどれだけ…いいや、やめとこう。なんか空しくなってきた。
「あのさ、しま…」
「何やってんの、お前ら」
話す内容も全然決まってないで口を開いたら、唸るような低い声が響いた。
そして、思った通りの人物が現れて僕たちの前に立ち塞がる。
ちょっと微笑めば簡単に誰でも籠絡できそうな美形の男が、機嫌が最高に悪そうな顔のまま島崎ちゃんを引き寄せた。
「…春樹」
あ、名前。ぼんやり気付く。
島崎ちゃんはいつからか彼を名前で呼ぶようになっていた。
そうだ、ちょうど島崎ちゃんが襲われかけた時くらいからかな。
「どうしたの新垣君まで。わざわざ夏休みに学校なんかきて」
「…補習だ」
これまた威嚇でもするみたいにきつく睨まれて、僕は肩をすくめた。
「新垣君が補習ねぇ。君はそんなに勉強に困ってそうには見えないけどね。ああ、大丈夫。ちゃんと新垣君が勉強家だってしってるから。決して島崎ちゃんに付き纏ってストーカーみたいで気持ち悪いとか思ってないから」
「し、篠原!ちょっと…」
額に青筋立てそうな新垣君を押さえようとして島崎ちゃんがその手を取った。するとどうだろう、今にも僕に殴りかかろうとしていた彼は動きを停めた。
「そろそろ、授業始まりそうだし教室いきませんか?ここも暑いし篠原も部活あるみたいだし」
その言葉に新垣君は、一回舌打ちしてからそれからすぐ踵を返して歩き出す。島崎ちゃんを引きずるようにして。
その姿は完全に飼い主と飼い犬の散歩風景。
だけど、気のせいだろうか。以前よりも島崎ちゃんが抵抗していないように見えた。
なんとなく二人が馴染んでいっているように感じる。
「やっぱ口にしとけばよかった」
あの時のキス。
こんなに除け者扱いされる位なら。こんな胸に重いものを抱えて彼女達を見送る羽目になるのなら。
キスしてよ、と言ったのは困惑した島崎ちゃんの顔が見たかったからだ。彼女の困って困ってどうしようもないという顔が見れて満足できたはずだった。
いつもの僕なら何もしなかったはずだった。
あの時、どうも僕はおかしかった。
こんなに無防備に僕のために捧げられているなら、どうしたっていいじゃないかと思ってしまった。それでも彼女の意志を無視してそんなことはしてはいけないと分かっていたから頬に留めた。それでも決して褒められたものじゃないが。
たった一瞬触れた彼女の頬は少し温く、柔らかかった。
ずっと触れられたらどんなにいいだろうとうっかり思ってしまうほどそれは心地よかった。
汗が目の中に入って目が染みた。眼鏡を外して目を擦る。
眼鏡を外した視界は眩しくぼやけている。
茹だる暑さがただひたすら不快だった。
身も心も鬱陶しいもの塊だ、今の僕は。
だから僕は夏が嫌いだ。




