4.5
春樹の視線を受け止めるのは、それは恐ろしかったがガクブルしながらも私は耐えた。
ただし、それは固まって反らすことができなかったとも言う。
「来てって言ってるんだけど」
その声から明らかに苛つきの色が濃いのが分かる。
手を引く力もおおよそ女子に対してにしてはひどく強い(いつもだが)。
ただ、ここで春樹の要求通りにしてはいけないというのはわかっていた。
目立つのは嫌だが、春樹と二人きりになる方が嫌だ。あまりにも恐すぎる。この怒り方からいってボコボコに殴り殺される気しかしない。
だから、全身全霊でその抗った。
足を踏ん張り持ってかれる手を自分の方に引き寄せて、思いっきり勢いをつけて手を振り払った。
それから右足を後ろに持っていきいつでも逃げられる体制になる。
今まで殆ど無抵抗だった私がそうするとは思っていなかったらしく、強い力がかかっていた割には簡単に外れた。
「…何のつもり?」
静かに聞かれた言葉は重く、やはり怒りをたたえている。
ひそめられた眉間に、沸き上がる恐怖心を噛み殺し私は口を開いた。
声が震えないこと、どもらないことが最重要項目だ。
「今日は用事があるんで無理です」
ちらりと横目で栞の方を見る。
栞とは目が合わなかったが、春樹には伝わったと思う。そして伝わったなら大人しく退散してくれる事を切に願う。
「だめだ」
しかし即答だった。
「それよりもこっちの方が重要だ」
まるで正論を言ってるみたいに堂々と言い放つ。
いつもの私なら、いけてもこの辺で折れてしまうだろう。結局、春樹に服従して抵抗するのを諦めてしまう。
しかし、今はそれが絶対できない状況下にある。
「それは新垣君が決めることじゃない」
負けちゃだめだ、と自分に言い聞かせてそう返した。私が言ってることの方が正しいはずだ。
周りに人がいるのに、誰も一言も話さない。それはそうだ、こんな雰囲気の中で声が発せられるわけがないか。
彼らは私達を見てどう思うだろう。
やっぱり春樹との付き合いは続いていると思うんだろうか。
そして、栞たちはまた私を無視するようになり須藤にいびられだすのかもしれない。
そう思うと尚更、折れてはいけないと思う。
「俺よりも他を優先するの、真琴は」
前のように名字で呼んだりしない。
それは暗に、お前のことを知っているんだと思い知らすためなのか。
そして、その言い方。
私がいつも春樹を優先しているような言い方だ。
私がこのまま粘るっても周囲が察していらない気を利かせて退散するのを狙っているのかもしれない。
悔しいけれど、なにか言わなければ本当にそれが現実になりそうだ。
胃がキリキリと痛み、口の中に苦汁があふれる。
「優先するよ、だって」
床に視線を向けて、一回奥歯を強く噛んだ。
春樹に今までされた仕打ちを思い出す。
大勢の前でキスをされて公開処刑。
石川さんたちに虐められたのを守ってくれるどころか、馬鹿にして嘲った。
靴を屋上から落とされた。
いつも捕まれる手首はついに痣ができた。
特に何もしてないのに毎日のように浴びせられる暴言。
「だいっ嫌いだ…あんたなんか」
馬鹿みたいに幼稚な言い方。
恨みと怒りでいっぱいの頭ではそんな語彙しか出てこない。
「もう、関わりたくない。近付きたくもない。これ以上あんたに…」
吐きそうになるのをぐっと押さえて言葉を紡ぐ。
「付き合ってられない」
私の声は、いつもよりずっと低くて小さくてもしかしたら聞こえていなかったかもしれない。
だとしたら相当格好悪い。今更言い直すこともできないし。
いつまで待っても春樹からの反応がない。何も言わない。奇妙な沈黙を守っている。
考えてみれば私が何をほざこうが、春樹には知ったこっちゃないことではないか。
今まで春樹が私の要求をを聞き入れたことがあったろうか。むしろ私が嫌がることを進んでやっていた。
そもそも嫌いと言われて引き下がるような人間なら最初からこんな扱いをするわけがない。何なら無視して、自分の思うまま引きずり回したっていい。
逃げた方が良いだろうか、と頭を上げて春樹の方を見る。
そして、瞬時に見なきゃ良かったと公開する。
「あ…」
思わず、声を上げてしまった。
どうして。
全く分からない。
混乱して、うまく頭が働かない。
私が春樹を嫌いなように、春樹だって私が嫌いなんだろう。
ろくに何も言わないで転校した下僕のような幼馴染みが嫌いだったんだろう。
何事もはっきりしなくて曖昧にごまかすように生きてる、卑屈なだけの私が。
だから、そんな私の言葉ひとつになんでそんな顔をする?
目の前の春樹は、眉を寄せて長い睫毛は伏せられて影ができ目は瞬きをせず、そして薄い唇を何かを堪えるように噛みしめていた。
今にも泣きだしそうな顔に見えた。
春樹の傷付いたような顔なんて見たくなかった。
胸がざわざわして落ち着かない。
どうしたらいいか分からない迷子になってしまう。
とにかく、一刻もこの場にいたくなかった。
この場で声を出すのは苦痛だが、背に腹は変えられない。
「栞、行こう」
「でも…」
新垣春樹をこのままにしていいのか、と栞の目が言っている。もしくは責めている。
「もういいから」
言って、ひとり駆け出すように歩きだす。
脳裏に浮かんでくるさっきの春樹の顔をかきけしながら、階段を降りて玄関にたどり着き乱暴に靴箱を開けた。
はぁ、と熱く重すぎる息を吐く。
「……なんで…」
ぐしゃぐしゃに頭を掻いた。そんなことをしても気が紛れるわけもなく、ただ胸に確かに質量をもつ嫌なものが蠢いているままだった。
吐き出した二酸化炭素の音は、誰の耳にも入らずに空中に拡散していった。




