2.1
その男の子は時々、マンションの東階段の踊り場に一人でいた。
そこの階段はちょうど人が住んでいない部屋の多いエリアで、昼間でもあまり人が通らない。4階という高さだから住人はエレベーターを使うし階段を通る人間はほとんどいない。
そんな人気のない場所で、その子はそこで一人きりでいた。
なにもするわけでもなくぽつんと一人で階段に腰かけていた。それはまるで小さな野良猫が自分のテリトリーを必死に守っているようにも見えた。
気付いていた、その子がそこにいるとき何かしらあったということを。
誰にも傷を見せようとしないその子を守らなければいけないと思っていた。
後に、それはただの傲慢なだけの考えだったと気付くとも知らないで。
本当に、本当に私は。
――――馬鹿じゃないの。
懐かしいボーイソプラノが耳元で聞こえた気がした。
「真琴、あんた春樹君って覚えてる?」
朝ご飯時、母の言葉に私は盛大に味噌汁を吹いた。
目の前にいた母親にその飛沫が飛んだらしい。
「ちょ、止めてよ!汚いわねっ。おとーさん、真琴が母親に牛乳吹きかけて反抗するんだけど」
「こら真琴、年頃の娘がそんな真似をするんじゃない」
いい年した母を隣にぺっとりくっつけて真面目な顔をしている眼鏡をかけた父。
親父さん…貴方も顎に米粒ついてるんだけど。と思ったら母はそれを手で取って食べた。
うわぁあああ、朝からすごい嫌なもの見てしまったんだけど。
「…ごめんなさい。ちょっと驚いただけだから」
謝るから、そんなグロい光景を目の前で展開するのは止めて下さい。
自分にそっくりなオバサンが、あら、と色めいた顔をした。
「真琴のことだから忘れてると思ってたのに、やっぱりあんなに仲良かったからね~。しかもあんなに可愛かったし。今頃、とんでもない美少年になってるんじゃないかしらぁ」
地味な印象の隣の父が手元の焼きシャケをつつきながら、男は顔じゃないぞ、と負け惜しみを言っていた。
はは…なってますとも、すごい美男子に。
学校のアイドル的な存在で、ちなみに私の彼氏だなんて死んでも言えない。
確実に父は泡を吹いて失神するだろうし母はきっと大騒ぎするだろうし面倒な事になるのは目に見えている。
「で、春樹がなんだって」
「そうそう。それでね、知り合いに聞いたんだけど春樹君って今この県に住んでるらしいのよ」
がり、箸を噛んでしまった。
今このタイミングでそういう情報が出てくるのか。そういうのは私が高校に入学願書を出す前に知りたかった。
「高校もきっとこっちの高校でしょ、あんたの学校に行ってたりしないの」
「…いないと思うよ。いたらちゃんと言ってるって」
手汗をしっとりかきつつ冷静を保とうと心がけながら答える。入学式に母が時間間違えて遅れて本当によかった。春樹の答辞を目にしなくてよかった。他の保護者とも特に交流はないようなので多分春樹の情報は回ってきていないのだろう。うん、大丈夫だよね…?
「そうか、残念だな。学校同じならまた仲良くできたのにな。でも、春樹君がどんな感じになってるのか見たいなぁ」
父がぽつりと漏らす。父は子供好きで、昔よく私と春樹を構ってくれた。思い出しているのだろうか、ぼんやりと醤油差しを見つめていた。
「そうよね、引っ越したのは春樹君の御両親別れたのが理由らしいから心配よね」
「……ふーん、そうなんだ」
私は布巾でテーブルを拭きながら相槌を打った。
逆に今まで別れてなかったのが不思議なんだけど、という言葉は敢えてださない。
「随分前から別居はしていたみたいだけど。春樹君はお父さんに付いていくことになったらしいわ」
そこで母は少し苦い顔になった。
「あのお父さんがまともに春樹君の面倒を見るとは思えないんだけどね」
「大丈夫でしょ。もう子供じゃないんだし、あの春樹なんだし」
頭は良いし美男子だし無駄に処世術上手いし、多少両親がアレでも春樹は成功した人生を歩むだろう。
私には何の関係もないお話だ、そんなの。
「で、何なの」
「何なのって…」
何故かイライラしてしまう。母は眉根を寄せて訝しげな表情をしていた。
分かってる、母がこの話題を出したのに深い意味はないことに。
昔可愛がっていた男の子の話を聞いて、つい昔いつも一緒にいた私に話を振ったのだ。
「ごめん、何でもない。…ごちそうさま」
私は食べ終えた皿を重ねて席を立った。
そして早々に階段を上がって自分の部屋に向かう。
なんかダメだな、春樹の名前に過敏になっているのかな。
■■■■
高校の校門の前の信号機に捕まった。
思わず舌打ち。ここの信号は無暗に長いからだ。
別に遅刻しそうな訳でもないが、無駄に待たされるのは好きじゃない。
私は車両用信号機が黄色になったのを見て脚を伸ばした。
「待った」
肩に手を置かれて思わず立ち止まってしまう。
すぐ目の前の車道を車が横切った。
「よく前を見ないと危ないよ」
振り返るとそこには黒縁眼鏡をかけた男子生徒がいた。
色素が薄いのか目の色と髪の毛が茶色だ。校則違反だから染めてはいないだろう。ついでに色白で髪は男性にしては長く伸ばしていているようで項のあたりで括っているので中性的な容姿に見えた。良く見ると目元に泣き黒子があった。
「ありがとう…ございます」
車に轢かれそうなところを助けてくれたのだ。取りあえずお礼を言っておこう。
ただ、相手の学年が分からなくてどんな言葉遣いにするか迷ったけれど。
そんな私の様子に目の前の男子はクスクスと笑った。
「敬語はいいよ、同学年なんだし。島崎真琴さん」
「え…」
なんで私の名前を知っているの。
私はこの人を知らない。会ったこともないし会話した記憶もない。
学校の有名人である春樹の彼女だからか?
私の名前も顔もすでに校内に知れ渡っているのだろうか?
よっぽど困惑した顔をしていたのだろう、彼は蟀谷のあたりを軽く掻いた。
「ごめん、ごめん。申し遅れました僕は新聞部の篠原 純といいます。以後お見知りおきを」
新聞部?
そう言えば、この高校の校内新聞は結構有名だ。週二のペースで発行されていて、内容も学生が作ったにしては充実している。学校のホームページにも掲載されていて、もはや学校名物である。
「はぁ、どうも…」
差し出された右手は見るだけになってしまった。
この人異様にフレンドリーだ。
「突然だけど島崎さん、新聞部のインタビューに答えてくれたりしないかな?新垣君との事についてなんだけど」
新聞部と聞いてそういう事になるのは頭のどこかで分かっていたのかもしれない。
校内新聞では頻繁に春樹のトピックが掲載されていたから。春樹のことが書いてあるとやはり反響が大きいのだろう。
とはいえ、私の答えはすぐに出ていた。
「嫌です」
私はそう答えて、今度は青信号で横断歩道を篠原君から逃げるように渡った。




