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浴室の彼女 前編

作者: なも

「髪」


 ギィ、と古臭く重い鉄扉を開け、僕はアパートの部屋に入る。後ろでバタンと扉の閉まる重い音を聞きながら、僕は部屋の明かりをつける。そこは細長い玄関と廊下、キッチン、その先にベッドとコタツのある狭い部屋。奥に狭苦しい窓。その窓も、部屋干しの洗濯物で上半分をふさがれて、申し訳程度の明るさを部屋に差し入れる。僕は背中を丸めてぼそぼそとコタツに向かい、買ってきたコンビニの袋を投げるように置く。左にUターンするように振り返れば、そこにはまた細長い廊下があり右にトイレと、突き当たりに浴室、その中に洗面台。どこをどう見回しても「狭苦しい」の一言しか出てこないような、僕の日常。

 僕の名前は国分良人。東南大学の二回生。二十歳。名前は読んで字のごとく、「良い人」。ひっくり返して「お人良し」。勉強もスポーツも、何もかも普通か少し下で、要領も全然よくない。もちろんちょっとした遊びや女の子に縁なんてからっきしない。

そう女の子といえば一回だけ勇気を出したことはあった。キャンパスから少し離れた駅の前にある公園。噴水のあるその公園のベンチで、うつむいている女性を見つけた。通りすがりに僕はそっと気付かれないように顔を覗き込んだ。左目の下に少し大きなキズと青いアザを作ってかすかに嗚咽している地味な服を着た若い女性だった。僕は何を思ったのか、立ち止まってハンカチを差し出した。

「ど、どうぞ、大丈夫ですか。」

そう言ってはみたものの、その人は既に自分のハンカチでキズを覆っていて、誰が見ても僕のハンカチなんか必要なかった。

「ありがとう、でも、大丈夫です。」

その人は僕の目を少し見て、恥ずかしそうに、少し申し訳なさそうにキズを隠し、僕のハンカチを断った。よく考えてみればあんなダサい行為はなかった。その時以来、余計なことはしなくなった。そうやって今では立派な目立たないそこらの小市民。

今日も、たった一冊の本を探してあちらこちらの本屋を要領悪く訪ね歩き、結局探すこともできないまま、疲れ果ててコンビニで夕食を買って、今帰宅したところだ。少々レトロで猟奇的な趣もあるが、耽美的な絵柄がお気に入りの地味な作家の漫画だったが、あまり知られていないせいか、どこの本屋にも置いてなかった。ああ、今日はもう本当に疲れた。とっとと飯を食って、風呂入って寝よう。誰に言うでもなく、そう小さくつぶやいて、僕は買ってきたカップラーメンと豚しょうが焼き弁当、ビタミンドリンクをがさごそと袋から取り出し、空いたコンビニ袋にその辺に散らばっているゴミや紙くずを放り込み、ゴミ箱にぐっと押し込んだ。

 美味くもないコンビニ弁当を、ビタミンドリンクで流し込んで、僕は風呂に入った。浴室は廊下の突き当たりに洗面所と一緒にあって、小さいけど一応洗い場もある。古いアパートだからか、シャワーなんて気の効いた物はついていない。水を溜め、ボイラーで沸かす。生来、アトピー性の皮膚炎を多少患っている僕は、毎晩風呂に入らないと翌日がつらい。痒くて仕方なくなるのだ。毎日きちんとお風呂に入って、薬を塗る。それでやっと僕の一日は終わる。そんな僕の一日の締めくくりを演出する浴室。人が一人入ればいっぱいいっぱいの正方形の小さな浴槽。それでも熱い湯に浸かれば疲れもとれた気がするってもんだ。狭い浴槽には、狭い洗い場。僕は身をかがめて頭を洗う。薄暗い照明が、いつかまばたきしそうで、頭を洗っている時はいつも時々ちゃんとついているか確認する。浴室の壁のシミが、何かを訴えかけているような気がして薄気味悪いから僕は極力そっちの方を見ない。わざとらしく鼻歌を歌ってみたり、あの本、どっかにねぇかなぁ、と小声で自分に言ってみたり、あれやこれやと気分を紛らわせながら頭を流す。ザーと流れ、排水口に吸い込まれていくお湯を見つめながら、僕はふと気付いた。

「なんだよ、流れ悪りぃな。」

ズズズー、と音を立てて流したお湯が全て吸い込まれた後、僕は排水口を見つめて、何か違和感を感じた気がした。いや、確かにおかしい。僕の短い髪とは違う、排水口の丸いふちに沿って円になって流れることを拒んでいる髪の毛の束。それは明らかにその場と違う空気を持っていた。僕はその流れない髪をつまみあげて、ギョッとした。

「なにこれ…」

長い。明らかに長い髪の毛だった。その瞬間、僕の手は弾けるようにその髪を排水口に放り投げていた。違う。間違いなく僕の髪じゃない。長い、女の髪。理性でそう考える前に、右腕の神経がその異物を拒んだ。

「うわ、うわぁ」

僕はとっさに洗面器でお湯をすくい、今その異物つまんだ指をあわてて洗い流した。何度も、何度も、洗い流した後、僕は裸のまま洗面台にあるティッシュを何枚も、何枚も引き抜き、排水口のその異物、そう、見覚えのない女の髪をかき集め、丸めて、何重にも何重にもティッシュで包んでゴミ箱に放り込んだ。僕はその手を何かを払い落とす様に何度も何度も洗った。体が芯から冷えていた。

 僕は風呂から上がると早々にベッドに丸まり込んだ。ありえない。僕がこのアパートに女性を入れたことがないことは、僕が一番よく知っていたし、もちろん風呂を貸すような関係があろうはずもない。あれは何だ?あれは何だ?自問自答すればするほど、部屋の薄暗さが僕を襲い、どこからか聞こえてくる何かわからない物音全てが、何者か異世界のものの囁きに聞こえてくる。僕は体の周りと布団に隙間を作らないよう、団子虫のように完璧に丸く固まった。それでも今、その手の中に、あの長い髪の毛が丸まっているような気がして、ゴミ箱から虫のように這い出てくるような気がして、首筋の隙間から女の息がふぅとかかりそうな気がして、僕は震えながらまんじりともせず夜を明かした。


 寝不足の翌朝、僕は動きたくなかった。幸いにも水曜日は一限目を取っていない。二限目もサボろうと思えばサボれる講義だ。昼、太陽が高く上がるまで、僕は動かないつもりだった。しかし、窓から差し込む光が明るくなってくるに連れて、昨晩の恐怖心は陽の光に刺し殺されていくような感じがした。なんのことはない、見間違いかもしれない、なんとなくそんな呪文のようなつぶやきが口から漏れ始めた頃、僕は起き上がる勇気が出始めた。太陽の光とは、かくも心強いものなのか。大丈夫、大丈夫。そんなつぶやきに鼓舞されながら、僕はむくりと起き上がり、部屋を見回した。何も変わらない、いつも通りだ。何を怖がることがある?大丈夫。

 僕はとりあえず布団から目だけを出すように、隙間をあけて部屋の中を見渡した。大丈夫。何も変わらない。おそるおそる布団から這い出た僕は、しばらく腹を空かせたアナグマのようにベッドやコタツの周りをいったりきたりうろうろしていた。そのうち、意を決したように僕は奥の洗面台へと向かった。僕は覗き込むようにして洗面台に少しだけ顔を出した。もちろん、浴室には誰もいない。昨晩、そういえば電気を消さずに出てしまったのだ。昼間だというのに、ぼんやりと光る浴室の照明は、昼間の明るさを逆に吸収して薄暗くする効果があるかのように灯っていた。なにも変わらない。僕は自分に言い聞かせた。何も変わらない。そう、何も変わっていない。湯船のお湯は揺れていない。洗面器や腰掛けも僕が出た時から、なにも動いていない。あの排水口にも髪の毛なんてない。順番に確認する僕の背中に、冷や水を浴びせかけられたような冷たい波が走った。

 そこには、排水口を縁取るように丸く、黒い毛虫のように、円を描いた、長い髪の毛の束があった。



「手首」


 サボるつもりだった二限目に、僕は出ていた。というより、とにかく人のいるところに逃げてきたというのが正解かもしれない。あの髪の毛の束を見た瞬間から、大学の構内まで、僕はどうやってきたのか覚えていない。部屋の鍵を閉めたのかどうかも自信がない。ただもうその場から離れたかった。頭の中を妄想や幻覚のようなものがわいのわいのと言いながら渦巻いていて、僕は何も考えることができないでいた。

 学食で粗末な昼食を取り、三限目を受ける頃になると、やっと頭も少しは冷静にものを考えられるようになってきたようだ。あれは何だったのか?長い髪の毛。多分、女の。身に覚えはない。というより、僕は確かに昨晩風呂の中で、発見した髪の毛を全て集め、ティッシュで包んで捨てたはずだ。風呂を上がる時には、排水口に髪なんてあるはずがない。そのまま布団に包まって怯えた夜をすごした後、排水口に再び髪の毛は発見された。つまり、僕が布団で怯えている間に、誰かがあそこに髪を落としていったことになる。

「んな、バカな、、、カンベンしてくれよぉ。」

僕は頭を抱え、小さくつぶやいた。講義なんか、まったく頭に入らなかった。戻りたくない、あの部屋に。でも、僕には風呂を貸してくれといえる友達も、一晩泊めてくれたりするような知り合いも、全くいなかった。今更ながら、自分の地味さと付き合いの狭さを痛感した。近くに銭湯なんか、ないよな。自分で頭をわしわしと掻き毟りながら、僕はなんとか逃げ道を探していた。でも、行き着くところは「戻らなくてはいけない」なのだ。逃げ続けることはできない。逃げるなら引っ越すしかない。髪の毛があったので、引っ越しますって、いえるか?一笑に付されるのがオチだ。もう、考えても、考えても、その先は出てこない。何か実害があったわけでもない。ここは腹をくくって戻るしかない、そう決めたのは講義も全て終わり、日も暮れかけた帰り道の途中のことだった。

 ギィと重い鉄扉を開けて、僕は重苦しい足取りで部屋に戻った。もう日も暮れて、またあの恐ろしい暗闇が待ちうける夜になっていた。夕食はまったく欲しくはなかったが、それでも夜中に腹が減って出かけるのはイヤだ。そう思った僕は、軽くサンドイッチと野菜ジュースを買って帰った。今はまだ浴室に行く勇気はなかった。まだあの髪の毛を取っていない。いや、もしかしてあれは見間違いだったのかもしれない。何を言っているんだ、ちゃんと見たじゃないか、だから飛び出てきたんだろう?でもしっかり見たわけじゃないし、あれは自分の髪の毛だったのかもしれないし。

無味乾燥のサンドイッチを口に押し込みながら、そんな問答を繰り返し、ようやくやむを得ず浴室に行く勇気を振り絞ることができたのは、もう帰宅してから数時間がたってからだった。遅くなればなるほど恐怖が増すことを自覚していた僕は、明日の痒みを治めるためにも、手っ取り早く、全てを忘れて風呂に入ってしまうことを選んだのだ。僕はもう排水口を見ないことにした。忘れろ、忘れろ。なにもない、なにもなかった、忘れてとっとと風呂に入っちまえ。そう、呪文のようにぶつぶつ唱えながら、目をつぶって烏のごとく素早く風呂を浴び、脱兎のごとく浴室を飛び出した。十分温まってはいなかったが、もうそんなことはどうでもよかった。風呂上りのコンディションを整えて、僕はすぐさま布団にもぐりこんだ。これを繰り返せば、そのうち忘れられる。何事もなかったように、元の生活に戻っているはずだ。そう自分に言い聞かせながら、丸くなった体と布団を、さらに丸く縮こまらせた。なにもない、なにもなかった、なにも、、、


ちゃぽん


僕の目が、真っ暗な布団の中で泳いだ。何?か、聞こえた?


  ちゃぽん  ざー


僕の全身が総毛立った。確かに聞こえた。何の音だ?浴室?誰かいる!そんなバカな!僕は完全に混乱していた。誰もいないはずの部屋に、浴室に誰かいる。いるはずのない浴室から、水音がする。僕は震えて縮こまることしかできなかった。頭の中を昔見たホラー映画の気味悪い女の姿がよぎる。ざばりと髪を振り乱してカクカクと襲い来る女の姿。作り話に惑わされるな!と思えば思うほど、髪をざばりと前に垂らしたおどろおどろしい女の姿が頭を離れない。そうこうしている間にも、その女が浴室からずりずりと這い出してくるのではないかと、そしてこのベッドに手をかけてくるのではないかと、僕の心臓は布団の上からでも、その女にバレてしまうのではないかというほどに早鐘を打った。動くな、動いたら、バレる。ここにいることを知られたら、取り憑かれる!妄想が妄想を呼び、僕の心はあらん限りの力で悲鳴をあげていた。どこかにいってくれ。なにも僕のところじゃなくてもいいじゃないか。消えて、消えてくれ。念じに念じつくしたが、その思いも空しく、また遠くで ちゃぽん と音がした。

 

その瞬間、僕の心臓は急にその速度を落とした。

「確かめよう」

ここで怯えていても何も変わらない。ここに住むことに変わりはない。この風呂に入らないとやっていけない。確かめて、本当に何かいるなら、祈祷してもらうとか、何か方法があるはずだ。ぷつりと心の緊張の糸が切れたような気がしたその時、僕の手は布団から出ていた。そうっと隙間を開けて見るが、何者かが這い出てきた様子はない。あんなのは映画の話だ。あるはずがない。俄然、何か勇気が出てきた僕は布団から這い出し、水音のする浴室へと向かった。電気は消えている。だんだんとまた心臓が速くなってくることを自覚しながら、それでももう後には引けないと自分を叱咤しながら、音を立てないよう、そろり、そろり、と浴室へと近づいていった。その時、再び、


 ちゃぽん


間近で聞こえた水音に、飛び上がらんばかりにビクリと体を浮かせた僕は、思わず足を止めた。もうダメだ、と思う気持ちと、確かめろ、と思う気持ちのせめぎあいの中、氷のように固まった僕はタラタラと冷や汗を流していた。もう、後ずさることも怖かった。後ずされば逆に追ってこられそうでしかたなかったからだ。動けない、でも動かなきゃ、逃げるか、いや見よう、確かめるんだ。鉛のように重くなった右手を震えながら持ち上げ、僕は思い切って浴室の電気をつけた。これで気配が消えてくれることを、少し期待していた。明るくしたら消えてくれるのではないか、実は覗いてみたら何もいなかった、ってなるんじゃないか、そう期待していた。事実、水音は止んだような気がした。気配も消えたのか、麻痺してしまった僕の感覚には分からなかったが、明るくなった分だけ、すこしだけ勇気がとり戻ってきた。

もういない。

もういないに違いない。大丈夫。僕は勝った。それを確かめるために、見る必要がある。ただそれだけだ。僕は、できるだけ、できるだけ音を立てないように、そっと、そうっと、浴室のドアに隙間を開け、中を覗き込んだ。


女の後ろ姿に、僕の全ては凍り付いた。


動けなかった。心臓が早鐘を打ち、冷や汗がタラリと流れる感覚がハッキリとわかった。手足の感覚もあるのに、まったく動くことが出来なかった。僕のアパートの小さな正方形の浴槽に、僕に背を向ける形で、そこに女が浸かっていた。薄暗い浴室の照明に、その女の肩口ほどまでの髪は乱れ、湿り気を帯びてざばりと頭の全てを覆いつくしていた。肌は青白く生気のない薄暗さがその照明の元でも見て取れた。女は首をうなだれ、ただじっとそこに浸かっていた。時たま、右手で湯をすくいゆっくりと左肩にかけた。


 ちゃぽん


僕は全く身動きが出来なかった。今ここを離れれば、女がこちらを振り返り、追ってきそうな気がして仕方なかったからだ。心臓がどこまで警笛を打ち鳴らそうと、冷や汗がどこまで恐怖を呼び起こそうと、僕は、全く動けなかった。今なら気付かれていない。どうすればいい?どうすればいい?自問自答するが、混乱を極めた僕の脳みそは、ただそこで見ていることしか選ばなかった。女は次に左手で湯をすくい、右肩にかけた。その時、僕にははっきりと見えた。


 ちゃぽん


そのパックリと割れた左手首の肉の色が。

そこからドロリ、と鮮血が滴り落ち、風呂の湯を染めた。


パツッ、と浴室の電気が消えた。



 翌朝、僕は浴室の前で目を覚ました。体が冷えきっていた。何が起こったのか一瞬わからなかった。体を起こし、ふと自分の左手を見た瞬間、鮮烈に昨晩の記憶が甦ってきた。水音、女、左手首の肉、鮮血…そうだ、僕はあの後、その場で気を失ってしまったようなのだ。重い体をなんとか起こして、僕はベッドに向かった。今すぐここを逃げ出したかったが、体がいうことをきいてくれなかった。僕はベッドに座り込み、布団を頭からかぶってブルブルと震えることしかできなかった。

 一体、何時間そうしていただろう。窓の光はまだ明るい。乾いた唇を湿らすこともせず、ただ震えながら僕は浴室のある方向を見ていた。あれは何だったんだ。確かにいた。あそこに。僕はどうしていいか全くわからないまま、ただ呆然とベッドの上で布団に包まっていた。時間の感覚がない。僕の部屋には、僕以外の異形の者が住んでいる。僕はどうしたらいいんだろう?取り憑かれる?呪い殺される?ときどき甦る、あのざばりと乱れた髪と、パックリと割れた左手首の肉の色。鮮血。自殺?やめてくれよ。頼むからカンベンしてくれよ。なんでここにいるんだ。僕は君の事なんか知らない。恨まれる覚えもない。助けてくれよ。タスケテ!タスケテ!

 そうやって頭の中を意味不明の狂気がぐるぐる回り続けた頃、窓の外が暗くなってきていることに気付いた。また夜が来た!なぜ逃げなかったんだ?逃げるって、どこへ?少なくともここじゃないどこかへ!そんなとこないじゃないか。僕にはここしかないんだ。夜が来た。ヨルガキタ!逃げろ、にげろ、にげろにげろにげろ…


 ちゃぽん


ビクン!と僕の体が跳ね馬のように飛び上がった。

来た。あの女が、また来た。もう逃げられない。お前はこうやって朝まで恐怖と戦い続けるしかないんだ。もしや、今晩は女が這い出てくるかもしれない。ずぶ濡れの右手で、血まみれの左手で、お前にしなだれかかってくるかもしれない。逃げなかったお前が悪い、バカなやつだ。自分で自分を嘲り笑うことで、今の恐怖から逃れようとしている。だめだ、僕はもうだめかもしれない。真っ暗な部屋の中、真っ暗な浴室の方から聞こえてくる水音。


 ちゃぽん ざー


音は、粘り気を伴い、鮮血が糸を引く。僕の心は極限まで苛まれていた。逃げたい。逃げられない。出てくるな。出てくるな。布団に包まったまま意味もなく何かを唱える。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」知っているお経をうろ覚えで次から次へとつぶやく。そうでもしていないと、気が狂いそうだったからだ。僕は、目を爛々と見開いたまま、その夜をすごした。

女は這い出てくることはなかった。


 二日目、三日目、四日目、女は毎日現れた。僕は、二日目までは飲まず食わずで布団に包まっていたが、さすがに三日目に、このままでは自滅すると思い立ち、陽の光の明るい昼間、食品を買出しに出かけた。フラフラとした足取りで、目はギラギラとさせ、肌はガサガサ、誰がどう見ても不潔で不健康な廃人にうつったことだろう。それでも僕はかろうじていくつかのパンやサンドイッチ、カップラーメン、飲物などを買って帰った。食事を抜くのは割と慣れていたのだが、風呂に入れないのが皮膚の状態上、苦しかった。痒みは日を追うごとに増し、ひび割れ、潤いをなくしていく。気が狂いそうだった。

僕は大学の講義にも出席せず、ただじっと自分の部屋に閉じこもっていた。朝が来て、昼が来て、少し食事をし、夜、布団に包まって水音を聞き怯える。朝が来て、昼が来て、少し食事をし、夜、布団に包まって水音を聞き怯える。そうして一週間も経った頃、僕の精神は限界に達していた。風呂に入りたい、もう他の事はどうでも良くなってきていた。精神なんてものは、少し狂気が入ったくらいがちょうどいいのかもしれない。僕は、陽の光差し込む真昼間、叫び声をあげて布団をひっぺがした。風呂に入ることにしたのだ。どうなっていようと構わない。ギラギラと血走った目で僕は浴室に向かった。ガッと勢いよく浴室の扉を開ける。湯船を見た瞬間、戦慄が走った。


真っ赤だった。


僕は叫び声をあげて湯に手を突っ込み、栓を抜いた。全ての鮮血を洗い流し、溜まりにたまった排水口の髪の毛を無造作に処分した。浴室中に水をぶっ掛け、何もかもを洗い流すように清めた。全ての掃除が終わった頃、僕は息を切らして崩れ落ちていた。

 僕は十日ぶりの湯に浸かった。痛んだ皮膚にお湯が沁みた。ここに女がいたことは覚えているが、もう、半分どうでも良くなっていた。さっぱりと風呂に入った僕は、その狂気と共に、死者の女と共存することを半分覚悟していたのだと思う。体重は五kgも減っていた。それからというもの、昼間、風呂に入り、夜はベッドで丸まって死者の水音を聞く、そんな日々が続いた。ぼくの心はもう完全に麻痺していた。狂気に支配されていたのかもしれない。



「ハブラシ」


 僕が死者の女と遭遇して、1ヵ月近くが立とうとしていた。そのあいだ、女は這い出てくるでもなく、ただ無言に水音を立てながら湯浴みするだけだった。それが慣れてきた僕は、もう以前ほどの恐怖を感じなくなっていた。いや、狂気が支配していたのかもしれない。僕はベッドでうずくまりながら考えた。女はなぜここに出てくるんだろう?取り憑くでもなく、呪い殺すでもなく、何かを要求するでもなく、ただ僕に恐怖を味合わせているだけの毎日。一体、何が目的なんだ?何をして欲しいんだ?供養して欲しいのか?わからなかった。ただ僕の狂気は、すでに女を同居人として認めているようだ。正気の恐怖は失っていない。でもなぜか僕の狂気は、これでいいと、どっかり胡坐をかいてしまっているのだ。もう、僕にとってそれはどうでも良いことのようにさえ思えてきた。

 僕は、いつものように昼間買い物に出かけた。パン、サンドイッチ、ビタミンドリンク、カップラーメン。その時、ふと僕の視界にあるものが目に入った。それは「ハブラシ」。ああ、そろそろ古くなっていた。買い換えようか。そう思った僕は、ハブラシを手に取った。何故、何故だろう?その時、僕はブルーのハブラシとピンクのハブラシを2本手に取っていたのだ。何のために?僕の正気が問うた。あの女の分さ。僕の狂気が答えた。不思議な感覚だ。何故僕は、僕を恐怖に陥れる死者にそんなものを買っているのだろう?わからない。わからないまま、僕はそれを買い求めていた。

 帰宅した僕は、相変わらずの薄暗い部屋の中、買い物袋をがさごそと漁った。そして、二本のハブラシを取り出すと、浴室の横の洗面台のコップに差した。奇妙なオブジェだった。ここには僕一人しかいない。女の子を招き入れたこともない。なのに、コップにはブルーとピンクのハブラシが二本立っている。何故だ?もう、それが何のためなのか、今の僕には分からなくなっていた。そこには、少なからず僕の想いが篭っていたことを、その時の僕は全く気付かなかった。

 その日の晩も、いつもと変わらなかった。水音は変わらず、そして僕の恐怖も狂気も正気も、全て変わらなかった。変わったことが発見されたのは、翌々日の朝だった。

 天気のいい朝、僕はいつものように陽が高く上ってから洗面台に向かった。お湯を抜き、髪の毛を処理し、歯を磨く。自分のブルーのハブラシを取ろうとした時、ふと隣のピンクのハブラシに手が触れた。

 濡れている?

どういうことだ?誰も使っていないはずだ。おろしたてだぞ?お湯でもかかったのか?不思議に思いながらも、そのまま僕はまた昼間に風呂に入り、布団に包まる夜を迎えた。そして朝を迎え、またハブラシを見る。ピンクのハブラシが濡れている。何故?もしかして、あの死者の女が使ったのか?僕の正気はそこで恐怖を感じるはずだった。しかし、その時は、ぼくの狂気が勝った。あの女がハブラシを?思わずフッと吹き出してしまった僕は、ケタケタと笑いながら、えもしれぬ不思議な感覚に捕らわれていた。


 僕は、その晩布団の中で考えていた。あの死者の女は、何をしにここに来ているんだ?風呂に入りに?まさか、風呂なんかどこにだってある。ここである必要なんてない。じゃあ何故?冷静に考えてみると、その女は自殺だ。左手首のあの肉の色、忘れられない鮮血。リストカットしたに違いない。風呂場でリストカットしたのか?で、今でも風呂場にさまよい出てくる?寂しく一人で死んでいったんだろうな。今でもその寂しさから何かを求めて現れるのかもしれない。それが僕のアパートってのはカンベンしてもらいたいものだ。

それでも、僕はふと一人で風呂場で手首を切って死んでいく女の姿が脳裏に浮かんだ。淋しい、淋しい、と泣きながら死んだのだろうか。そんなの僕には耐え切れない。・・・ふと考えると、僕は随分冷静に思考することが出来るようになったものだ。それが狂気なのか正気なのか、僕にももうわからない。おそらく恐怖に麻痺してしまったのだろう。僕は女の水音にはもうそれほどの恐怖を感じなくなっていた。その間、浴室に行かなければいいだけの話だ。怖くても、じっと布団に包まっていれば、今のところ害はない。

 ただその時、僕は思ってしまった。それでずっとこのままでいいのか?女は何を求めているのか?僕は、こんな環境で一生暮らしていくのか?どうすればいい?なにができる?僕は今、不思議なことにその女を救うことを考えていたのだ。女は、あの死者の女は、何を求めているのか?淋しい?痛い?どうすればここから消えてくれるのか?僕は、無性にあの女にそれを聞いてみたくなった。それは僕の狂気のなせる業だったのかもしれない。後で考えてみれば、とんでもない危険な行為でもあるのだ。でも、もう僕はいても立ってもいられなくなっていた。あの女は、僕のアパートの風呂に入り、僕の準備したハブラシを使っている。それならば、他にも何か準備すれば使ってくれるんじゃないか?何をバカなことを言っているんだ、僕の狂気、いい加減にしろ。


 僕は、翌日近くのホームセンターに行って、ピンク色のバスタオルを買った。なぜかって?あの死者の女に使ってもらうためさ。狂気と言われるならそれでもいい。僕はもう、この環境から脱却したいんだ。正気か狂気か、もう僕にはわからない。ただ、女は僕のアパートにいる。確かに毎日、あそこで水音をたてている。バスタオルで体を拭いて、とっとと出て行ってもらいたいんだ。いつまでも浸かったままじゃ困るんだ。そんな辺鄙なアイデアがこのピンクのバスタオルだった。

 アパートに帰った僕は、早速浴室の脱衣場所にピンクのバスタオルを置いた。ピンクのハブラシにピンクのバスタオル、なんとも場違いなアイテムだった。


 その頃の僕は、水音だけの状態にもう昔ほどの極限の恐怖を抱かなくなってきていた。それでも何日かに一回は、浴室から這いずり出てくる血みどろの女の姿を夢に見て、跳ね起きる程度のことはあった。ただ、もうベッドにもぐりこんで震えていた頃とは違う。浴室に背を向ける形で、コタツに座り、テレビを眺める程度の余裕は出てきた。というより、もう既に精神の糸が一、二本切れてでもいたのかもしれない。

今日も僕は昼間早々に風呂に入り、暗くなってからはコタツでのんびりとテレビを見ていた。能天気なバラエティー番組が僕は嫌いだったが、今のこの空気の中で、そんな下らない笑いの一つもなければ耐えられなかった。今、ちょうど番組が一つ終わり、CM提供のアナウンスが流れていた。ふと時計を見て今が十時であることを確認し、ぼくは視線を自分の手元に落とした。今日も、あまり大した物を食べていない。なんだか手も少し細くなった気がする。ごつごつと、でもそれほど大きくない僕の手は、じっと見ていると小刻みに震えだしそうだった。思わず左の手首に目が行き、またあの時の鮮烈な映像が浮かんできた。まるでその心の動きをどこかで見ていたかのように、僕の後ろで音がした。


 ちゃぽん


 来た。その手首の持ち主が。いやな雰囲気の時に現れる。僕の後ろに長く続く真っ暗な廊下、そして突き当たりの浴室。遠近感を失って長く長く伸びるように遠ざかったり、急に近くに感じたり、僕の後ろでその恐怖の場所は僕の心をもてあそんでいた。水音は止まない。女は帰らない。ちゃぽん、ちゃぽん、と何度か湯浴みの音が聞こえた後、沈黙が訪れた。気配はある。だが、無音の闇の中にそれは漂うように揺れているだけだ。しばらくの沈黙の後、


 ざー


 大きく水の流れる音に、僕は驚いて身をすくめた。ギシ、ギシ、と何かが動く音がする。僕は直感した。女が湯船から出たのだ。僕の心臓がだんだんと速くなりはじめ、暗闇の微妙な動きをぴりぴりと感じ取っていた。じわりと脇の下に汗が滲み、わき腹へと垂れる。ギシ、ギシ、とまた小さな音がする。僕の心臓はそのちいさな歪みも見逃さない。ドキリ、ドキリ、と鐘を打ち、それがだんだんと警告のように早くなっていく。また少し、沈黙が訪れた。が、心臓の鐘は決しておさまることなく、ドク、ドクと警告を放っていた。静けさがまた暗闇に吸い込まれていく。僕の後ろで伸び縮みする暗闇の廊下。息が少し荒くなってくるのがわかったが、自分でももうどうにもならない。動くこともできない。沈黙に、暗闇に、押さえつけられたように動けない。わずかに指先がぴくりと動くのを感じた瞬間、


 がた  がた  がた


浴室の扉が開く音がした。僕は総毛立ち、肩をググッと上に持ち上げて身をすくめた。

 後ろに、いる。

確かに気配を感じた。なにかが後ろにいる。僕の心はそれを見てはいけないと叫んでいた。狂ってしまうぞ、見るな!

そう叫ぶ僕の心と裏腹に、僕の体は少しずつ左回りにずれ始めていた。指がピクピクと痙攣する。だめだと叫ぶ心を表すように指の痙攣が酷くなる。なのに体は左回りに振り返ろうとしているのだ。何を確かめようとしている!振り返るな、恐怖で心が壊れるぞ!良人!足先がしびれる。両手両足の指が痙攣を起こしたようにびくびくと震える。それでも僕は振り返らざるを得なかった。僕の体は、このままの姿勢で夜を越すのを絶対に拒否したのだ。

「う、う、うあああ!」

突然僕は絶叫して、一気に後ろを振り返った。見てはいけないものを、見るなと引きずる心を断ち切るように、叫び声と共に跳ねるように後ろを振り向いた。

何もいないことを祈っていた。そんな僕の期待は、あっけなく崩れ去った。


左手首の肉の色だけが、暗闇の中でもはっきり分かった。どろり、とまた鮮血が流れ落ちた。女はそこに立っていた。暗闇の中で確かに見えたものは、ざばりと乱れた髪、顔を覆いつくすその湿った髪。うなだれた首は真っすぐ下を見るように大きく曲がっているように見えた。青白い肩から二の腕がうっすらと見えた。体にはバスタオルを巻き、その左手首からはポタリ、ポタりと鮮血を流し続けていた。

 僕は、大きく口を開けたまま、叫ぶことも出来ず凍り付いていた。指先の震えはおさまっていた、というよりもう感覚そのものがなくなっていたのかもしれない。恐怖で恐慌状態になった僕の頭は、逃げること、叫ぶこと、助けを求めること、それを含めた全ての「考える」という行動を拒否し、停止していた。

 女の首が左にカクリ、と傾いた。まるで直角に90度曲がったかのように、カクリ、と。コキ、と音がしたようにさえ感じた。ついで女の右腕が、カク、カク、と人形のように前に伸ばされる。少しずつ上がるその右手は、恐らくその後僕を指し示し、僕を求めるのではないかと、必ずそうするのではないかと思わせるように。カク、カク、とゆっくり上に上げられていた。しかし、その手首はだらりと下に向けて垂れたまま、力なく揺れ、何かを求める手にはならなかった。

ゴキ!と音がして、いや、実際にはしなかったのかもしれないが、僕にはそれが聞こえた気がした。女の右足ががくりと折れた。バランスを失った人形のように女は右に傾き、その後ドン!と廊下の壁に右肩を打ち付けた。そしてそのまま、ぐらりと揺れたかと思ったときには、女は僕のほうに向かって倒れ掛かってきていた。僕は悲鳴を上げる暇もなく、わずかに身じろぎをしただけだった。女は勢いを増し、こちらに倒れこんでくる。僕には届かない、そんな距離ではあったが、僕はわずかにのけぞってそれを避けようとした。多分、心は。女は、そのまま床に倒れこみ、僕にはその濡れ乱れた髪の毛だけが間近に見えた気がした。ドスンと音がする、はずが違っていた。女は床に倒れこんだ瞬間、


 ばしゃっ!


跳ねるように大きな水音をたてて、女は弾けた。まさに水が地を打ち弾けとぶように。その水飛沫は僕にもかかった気がした。唖然となった僕の目の前に、女の姿はなかった。そこに残ったのは、濡れた床、飛沫のとんだ壁、そして、びしょ濡れのピンクのバスタオルだけだった。


そこに女はいた。その事実を僕の心は受け入れようとしなかったが、床に滴った数滴の血痕で、いやでも納得せざるを得なかった。濡れたバスタオルを洗濯機で回しながら、僕はぼんやりと考えていた。怖い、怖いには違いないが、女は何も危害を加えていない。僕に何かを訴えかけようとするように、その右手を伸ばし近づこうとしたように見えた。なによりこのバスタオルがそのことを裏付けているような気がした。

使っている。ハブラシも、バスタオルも。幽霊が?そんな変な話があるか?しかし現にハブラシは濡れ、バスタオルにいたっては女の体に巻かれていたことを証拠付けるようにびしょ濡れのまま床に落ちていた。女は何がしたいのか?冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせ、僕は考え始めた。どうも風呂に浸かりに来ているだけではないような気がする。それならば出てくる必要がない。何故、出てきたのか?せめて美人の幽霊ならよかったのに、ああも気味の悪いんじゃぁな、と思った自分の頬を思い切り張り倒した。僕は何を考えているんだ。これは身の危険かもしれないというのに。呪い殺されるか、取り憑かれるか。逃げるか?祓うか?祈るか?僕はどうしたものかと、ただ冷静に思案していた。そんな自分が、妙に滑稽に思えてもきた。何をしたかったのか、何故出てきたのか。女が、バスタオル一枚で。普通なら、それはしねぇよなぁ、とひとりごちた。男の前にバスタオル一枚じゃ、、、


パジャマ、いるな。


僕は、自分で自分が可笑しくて仕方なかった。あまりにもばかばかしくて、ツッコむ気にもなれなかった。パジャマ?幽霊に?アホじゃねぇの?そう言って自分の頬を何度か張り倒した後、大きなため息をついて、僕は洗濯機から離れた、ベッドに座り込んだ。


その夜、部屋干しのバスタオルは乾かないまま、窓際に干してあった。それを知っているかのように、何故か、女は現れなかった。


次の日、乾いたピンクのバスタオルを僕はまた、元の位置に置いた。何故だかはわからない。僕の心理状態は、その時点ではもう計り知れないくらい狂気に偏っていたのかもしれない。その狂気は、もう一つの狂った考えを実行に移していた。僕は、服を無造作に放り込んだタンスを漁り、その中から使い古しの紺色のトレーナーと、モスグリーンのスウェットを引っ張り出した。綺麗にたたんで、僕はそれをバスタオルの横に置いた。何をしているのか、自分でももう分からなくなっていた。


その日の晩、果たして女は現れた。まるで僕がバスタオルを置いたことを知っているかのように。


ちゃぽん


いつもの水音がしている間に、僕は行動を起こした。何故だか今日は体が動いた。本来なら恐怖にすくんで動かなくなるはずの体は、何かを待っているかのようにいとも軽々と動いてくれた。心臓の早鐘は変わらない。恐怖はある。しかし、僕は何か恐怖だけではない好奇心のようなものに突き動かされて、そろりそろりと浴室に近づいた。そこは真っ暗な闇。僕の心臓はさらに早く打ち鳴らされた。


ちゃぽん


その音を確認するように聞いた後、僕は震える声でこう言った。

「…パ、パジャマ、あ、ありますから、どう、ぞ…」

最後の「ぞ」は聞き取れないほどの小さな声になっていた。一拍ほど置いて、


 ばしゃっ


一つ大きな水音がしたかと思ったときには、耳が痛くなるような沈黙だけが訪れていた。ツーン、と耳に沈黙が鳴りひびく。

女の気配は消えていた。



「パジャマ」


昨日の自分に僕は驚いていた。幽霊に声をかける?何を考えていたんだろうか。狂っていたとしか思えない。しかもパジャマを準備したから着ろ、と?あまりに荒唐無稽な考えと行動に、自分でもいささか呆れかけていた。よくもまぁそんな考えに行き着いたものだ。お前は取り殺されたいのか?そう、ぼくの正気は問いかけていた。そんなことわかってる。自分でもなんでそうしたのか分からないんだ!僕は僕に怒鳴る。そうやって自問自答を何度繰り返してみたところで、変わらず夜はやってくる。明るいうちに風呂に入ろう。もう、排水口の髪の毛も気にならなくなっていた。浴槽に浸かりながら、自分のバスタオルの横に置かれたピンクのバスタオルと、紺のトレーナー、モスグリーンのスウェットをぼんやりと眺めながら、それによって僕は僕の生活に奇妙な変化が進行していることにやっと気付いたのである。


僕は、幽霊と同居している。


その晩は、いつもより少し冷え込む夜だった。僕は半纏を着こんで、コタツで丸まっていた。あいも変わらず下らないバラエティー番組を眺めながら、ふつふつとわいてくる奇妙な恐怖と馬鹿げた笑いを戦わせていた。はあ、と大きなため息をついた瞬間、女は現れた。


ちゃぽん


来た。僕は両の拳を合わせ、握り締めていた。何を祈っているのか、僕自身にも分からなかったが、速く立ち去ってくれとか、もう出てこないでくれ、に混じって、何か違う奇妙な言葉にできない祈りも混じっていることに、僕はうすうす気付いていた。何度かの水音の後、ざー、と大きな音がした。前の時と同じだ。そう思ったとき、間違いなく女は出てくる、と思った。どこにそんな確信があったわけでもない。ただ、なぜかそう思った。女はまた、がた、と浴室の扉を開けて出てくるに違いない、そう僕は確信していた。僕は恐怖と同時に、不思議な緊張感を感じていた。まるで射精の直前のような痺れる感じ。なにか、思った通りのことが起きているような、ゾクゾクしたこの感覚。僕は両の拳をぐっと強く握り締めた。


がた、 がた、 がた、


気配を感じる。僕の後ろの暗闇に、また先日と同じ戦慄を伴った気配を感じる。しかし、何故か今日の僕は降り向けなかった。前回は振り向きたくないのに振り向いてしまった。なのに、今回は振り向きたいのに振り向けない。僕は拳を握ったまま、じっとそこに座り続けていた。


カクン


奇妙な音が響いた。女が首を曲げた音だ。僕にはそれが目に見えるように分かった。次は手を伸ばす、近づいてくる。カタ、カタと奇妙な音がする。またバランスを崩して倒れるのか?それなら水音がするはずだ。ガクッ、ガクッとまた奇妙な音がしたが、水音はしなかった。ガクッという音と同時に、ぺちゃっ、という水が床を打つ音がした。


ガクッ    ぺちゃっ    ガクッ    ぺちゃっ


僕の背筋に冷たいものが走った。近づいてくる!明らかに女はこっちに来ている!僕は振り返ることが出来なかった。今振り返ったが最後、目の前に血走った女の目がありそうで、もう、二度と振り向くことはできそうになかった。汗を一緒に握り締めた拳と、肩を震わせながらぼくは固まっていた。目だけが左右激しく動いている。来る。来る!後ろから?右から?左から?僕は冷や汗の塊になって、後ろから響く不気味な音を聞いていた。ぺちゃっ、という音がやや左に聞こえた。左からだ!僕の目は精一杯左に寄せられ、これから襲わんとする恐怖への準備をしていた。左肩がすうと寒くなった気がした。僕の左横に、ぺちゃっ、と音がした。精一杯左に寄せた目の隅に女の足が映った。真横にいる!僕は息を殺して、ごくりとつばを飲み込んだ。どうあっても逃げられない。もうからだは全く動いてくれそうにない。今ここで何があっても、僕にはもう何の対処もできない。戦慄と絶望感とがごちゃ混ぜになったような感覚で、目を見開いている僕の横で、


カクッ


と音がした。僕の首はその時、ほんの少しだけ左に動いた。

女がしゃがんでいた。僕の真横に。僕はかすれた悲鳴のような呻きのような声を上げた。女は、ざばりと垂らした濡れ髪を少し動かして、首をカクッと真っすぐ起こした。


コレハ、イヤ


その瞬間、僕の意識はすうっと地に沈み込んでいくように消えていった。


僕は気を失ったようだが、すぐに気がついた。時計がまだ十二時を指していない。あれから二時間も経ってはいない。ふるふるとあたまを振って、僕は最後の瞬間を思い出し、安堵のため息をついた。取り殺されたわけではないようだ。しかし、真横に存在したあの感覚はまだ覚えている。ひんやりとしたあの、おぞましい感覚。大きくため息をついて僕はからだを動かしてみた。動く。大丈夫。そして、目を一回強く閉じ、また大きく見開いてから、僕は自分の左横を見た。

そこには、あの時と同じように濡れた床、びしょ濡れのバスタオル、そして、左袖に真っ赤な血の染みをつけた、びしょ濡れのトレーナーとスウェットが、そこにあたかも着ていたまんま抜け落ちたように脱ぎ捨てられていた。


僕はまた、洗濯機の前にいた。バスタオルを洗うためだ。洗剤を入れ、柔軟材を入れた後、ごうんごうんと回る洗濯機に手を掛け、またうつろに僕はなんとはなしに考えていた。トレーナーとスウェットを洗う気になれなかった僕は、そのままゴミ箱に捨ててしまった。もともと着古したボロい服だ。惜しいわけではない。それより、確かに僕は最後に聞いた。その言葉はまだしっかりと覚えている。「これは、いや」?何が?確かにバスタオル一枚よりはマシだったはずだが、僕のこんなこ汚い服はお気に召さなかったということか?なんだか少し腹立たしく思えてきた僕は、

「なんだってんだよっ!」

と洗濯機を蹴飛ばして、ベッドにもぐりこんだ。


その日、僕は大型ショッピングモールの寝具売り場にいた。今までこんな売り場になど一度も来た事がない僕は、どこに何があるのか分からずに面食らっていた。ひとしきりウロついた挙句、近くの店員に尋ねることにした。

「あの、、、パジャマとかって、どこにありますか」

店員は満面の笑顔で、

「パジャマですね?こちらでございます。」

と、僕を案内してくれた。

「こちらが男性用、こちらが女性用、あとこちらがペアパジャマのコーナーとなっております。」

僕は、ありがとうございますと小さく頭を下げて、その店員が元の場所に戻っていくのを見届けてから、かくれるように女性用のパジャマのコーナーに滑り込んだ。何か妙に恥ずかしかった。頭を下げ、目立たないように、いくつかのパジャマをぱらぱらとめくってはみたものの、自分自身ですら、何故こんなところで女物のパジャマを選んでいるのか不思議に思うくらいだから、ちゃんと選べるわけもない。もう、どうにでもなれ!とばかりに一通りパジャマをめくった僕は、可愛らしいクマの模様が入った黄色いパジャマを一枚選んだ。そそくさとそれを丸めて、レジへと向かう。

「これ、お願いします」

気恥ずかしそうに差し出すのが、余計に恥ずかしいと分かっていながら、僕は堂々とは振舞えなかった。

「はい、こちらですね。パジャマ一点。九千八百五十円でございます。贈り物ですか?」

え、と僕は答えに詰まってしまった。

「え、え、えと、いえ、自宅で使います…」

その不自然な返答に、僕は冷や汗を流しながら、どう取り繕ったものかあたふたとしていた。しかし、そんな僕を尻目に、店員は何事もなかったようにレジ操作をし、再び僕に尋ねた。

「サイズの方はMサイズでよろしいですか?」

「え、あ、はい、そ、それで。」

わざわざそんなこと聞かないでくれと、僕は心の中でつぶやいたが、店員はそんなことはどこ吹く風とばかりにテキパキと会計、梱包を済ませ、僕にビニール袋とお釣りを手渡した。

「ありがとうございました」

ビニール袋に詰められたその黄色い「贈り物」を手に、僕はそそくさとレジを後にした。僕は、それからもう一枚ピンク色のバスタオルを買い足して、いつものように美味くもないコンビニの食事を買って帰った。

絶対僕はヘンだ。一体何をしているのかわからない。水音の度にビクビクと怯え、すぐそばまで出てこられた挙句には失神してしまうほどに、そして誰が見てもやつれたと分かるほどに心神を消耗させていながら、一体何のためにこんな大金を出しているのだろう?自分で自分に困り果てて、行き場をなくしたこの脳みそは、どうも最近考えることを放棄し始めたような気さえする。

一体なんの戯れかわからないが、僕はまたあの不気味な会合を試みようとしている。重い鉄扉の閉まる音を背に、僕は買い物を全てベッドに放り投げた。大きくため息をついて、座り込みひとしきり頭を掻き毟った後、僕は立ち上がった。その後はまるでロボットにでもなったかのように、ギクシャクと買ってきた黄色いパジャマの値札を外し、綺麗にたたみ直してから、新しいバスタオルと一緒に浴室に置いた。自問自答は、今はやめた。ばかばかしいにも程がある。もう放っとけ。そう僕の正気が言い放った。


その晩、僕の狂気にとってはワクワクの夜だったに違いない。果たして女は来るのか。買ったパジャマを着るのか。イヤなんて言わねぇよな、そう僕の狂気がケタケタと笑う。そんな僕の狂気とは裏腹に、僕は相変わらずじっとコタツに座って拳を握り締めていた。恐怖がなくなったわけではない。怖い。いつ、あの血まみれの手で僕を呪い殺すのか、あの乱れた濡れ髪の隙間から、いつ血の涙を流した恐ろしい瞳が覗くのか、僕はやはり恐怖に怯えていた。しかし、それも少しずつ慣れてきていないとは言い難い。確かに女は危害を加えてはいない。存在自体の恐怖とさえ戦い抜ければ、何も怖くないはずだと言う僕の正気のおかげで、過剰な恐怖は既になりを潜めていた。

僕の恐怖は僕がコントロールしてみせる。悲壮な決意とまったく逆の方向に、ケタケタと面白がっている僕の狂気が存在する。良い呼び方をすれば、それは「好奇心」と言うものなのかも知れないが、この圧迫してくる恐怖に対して考えるにつけても、それはただの狂気に思えて仕方ない。怖くない、怖くない、と呪文のように唱え始めたその矢先、


ちゃぽん


やはり女は現れた。ここまではもう慣れっこだ。そう思いながらも、心臓の早鐘は大差なく打ち続けている。同じだ。昨日と同じだ。この後、何度か水音が響いて、それから一つ大きな水音の後、女は出てくるに違いない。同じだ。害はないはずだ。怖くない。怖くない。時間が随分長く感じた。ちゃぽん、という水音が今日はやけに多く感じた。じらすのはよしてくれ、心臓が持たない。ブツブツとワケのわからない独り言を言いながら、僕は女が次にどのような行動を取るのか、予想し続けた。もうすぐ出るか、まだか。まだか。

ざー、と大きな水音。いよいよ来るぞ。僕の狂気が囃し立てた。大丈夫、何も怖くない。害意はない。僕の正気がなだめた。そこから永遠に近いような長い長い時間を僕は待ったような気がする。来るのか。来るのか。心の中の独り言がいつしか声になって外にもれ出ていることに、はっと僕が気付いた頃、


 がた   がた   がた


女が浴室を出てきた。この後は、カクンとかぺちゃっとか、不気味な音を聞き続けなくてはいけないはずだ。と、そう思った僕の真横に黄色い影が映った。僕は思わず悲鳴のような掠れ声をあげて、飛びあがった。いつの間にか女が真横に立っていたのである。

「うあ、うぁ、え、あ、、、」

僕は声にならないうめきを上げながら、ジリジリと右に体をずらした。女は濡れた乱れ髪でその顔を隠したまま、大きくうなだれて、まるで何かを待っているかのようにそこに立っていた。僕の狂気が歓喜した。僕の正気が落ち着けと叫んだ。その時僕の口から、とんでもない言葉が搾り出されたのである。

「…そ、そこに、ど、どうぞ…そこに…」

僕は、コタツの僕の隣の席を指差していた。女はカクンと首を傾けて、ゆっくりと足を踏み出した。座るつもりなのだ!なんてこと!僕は自分で指し示しておいて、なにをとんでもないことを!と悔やんだ。しかし、もう遅い。女は、僕のコタツの左隣の席に置かれた、来客用の、そうまだ誰も使ったことのない座椅子に、カクン、カクンとぎこちない音なき音を立てながら、近づいた。座椅子の上に立つと、ずりずり、と滑り落ちるように、そして、自分の膝を抱いて乱れ髪に顔を全て隠して座り込んだ。目の前にいるものは何なんだ?ざばりと濡れて乱れた髪、生気のない肌、左袖を染める鮮血…

その時になって、僕は初めて女が僕の買った黄色いパジャマを着ていることに気がついた。恐怖と戦慄は、すぅと波が引くように僕の中から消えていった。なくなったわけじゃない。でも少なくとも、僕の恐怖はこの時確実に減少した。

しばらくの沈黙があった。その間に僕は彼女がまたバシャッと消えてしまうのではないかと思って、見つめ続けていた。目が離せなかったと言ってもいいかもしれない。身じろぎもせず、僕と、幽霊の彼女は座り続けていた。僕は、もごもごと言った。

「そ、そのパジャマ、に、似合ってますね、、、」

もちろん何の反応もなかったが、怒らせてはいないように感じた。

「そ、そんなんで、いいかなぁと、思って、ですね、ちょっと、買って、みたん、です、、、えへ、えへへ、、、」

僕は何だか卑屈な笑みを浮かべた。反応はなかった。そのまま二人(?)はじっと座っていた。次第に僕は何か反応が欲しくなってしまった。

「お、お気に、召しませんでしたか、、、?」

あまりにへりくだり過ぎて不自然な卑屈さを滲ませながら、僕は召使いのように彼女に問いかけた。予想通り、何の反応もなく、沈黙は続いた。なにか地面の下から響き出るような、


うぅ…  うぅぅ…


といったうめき声のようなものが時折耳を掠めた。僕は恐怖を感じはしていたものの、それが彼女の声なのか、風の音なのか、もう考えないようにしていた。

と、その時、彼女の首が小さく左右に動いた。それは「いいえ、そんなことありません」という意思表示なのか、それとも頭が揺れただけなのか、判断に迷うほどの小さなものだったが、僕はそれを善良に解釈することに決めた。

「あ、ああ、そう。よ、よかったぁ、、、」

そう言ったまま、再びそこには沈黙が訪れた。長い長い沈黙。しかし、そこに以前のような恐怖はない。僕は、なんだかそこに本当に一人の女性がいるような気がしていた。恐ろしく不気味な出で立ちではあるが、まったく害意はないようだ。僕は何かしゃべりかけたくて仕方なくなってきた。

「う、うちのお風呂、せ、せまいでしょ。ご、ごめんなさいね。ほ、本当はもっと広いといいんだけど、シャ、シャワーもないし、ふ、不便ですよね、あは、あはは、、、」

僕は一体何を話しかけているんだ。相手は幽霊だ。それは間違いない。しかも素顔の見えない、まるで何処かのホラー映画にでも出てきそうな怨霊にしか見えない。それでも僕に恐怖はなかった。ないといえば嘘になるが、震えていたって声が出る分だけまだマシだ。

「さ、寒くないですか。パジャマ、薄かったかな、、、濡れてるし、あ、左袖のシミ、、、」

そう僕が言った瞬間、彼女はビクンと右手を震わせ、カクカクとゆっくり左手首を隠すように重ねた。そして、哀しそうにぐぐっとうつむいたかと思うと、その姿はうっすらと透明感を感じさせつつ、すうっと消えてしまった。

「あっ、、、」

僕は少し手を伸ばしたが、それ以上は動かなかった。

彼女が消えた後には、わずかに濡れた座椅子とぐっしょりと濡れた黄色いパジャマだけが残されていた。



「コーヒー」


狭い窓から、僕は部屋干しの洗濯物の合い間を縫って、座椅子を運んでいた。ぐっしょり、というほどではないにしても、湿った座椅子をそのままにしておくのは、あまりにも気が引けたからだ。幸いにも今日は天気がいい。少しベランダに干しておけば乾くだろう。背中にごうごうと洗濯物の回る音を聞きながら、僕は無造作に座椅子をベランダに立てかけた。ぼんやりと眺める座椅子には、ほんの少し水の染みたような跡が残っていた。昨晩、ここに確かに座っていた。今、洗濯機で回っているあの黄色いパジャマを着て、彼女はうずくまって、僕の詰まり詰まりの言葉を聞いていた。いやな波動は特になかった。呪い殺すとか、取り憑くとか、そういったこととはやや無縁な感覚で僕は彼女に話しかけていた。ただ今は、あの時左手首の血の染みについて、言葉にすべきではなかったと後悔していた。明らかに彼女は、あのキズを隠して消えて行った。そう、僕には見えた。触れなければなんだったのだと、自分に思わず問うてしまいそうになるが、僕は彼女にもう少し話しかけたかったのではないかと思う。幽霊に?そう、幽霊に。黄色いパジャマが、僕の何かを心の中から取り除いたのではないかと思うくらい、あの瞬間から、怖気が走るような恐怖は薄らいだ。それは間違いない。僕のトレーナーとスウェットじゃない、あの黄色いパジャマを着て、彼女は近づいてきてくれたのだ。なにがどうあれ、そこに悪意や害意は存在しないはずだと、僕は思うようになっていた。黄色いパジャマは乾くだろうか。今晩も、彼女はやってくるのだろうか。

その夜、ちゃぽん、といつもの水音が聞こえるまで、僕は何故かテレビもつけずにコタツで丸まっていた。聞こえた瞬間、僕は何事もなかったかのようにテレビをつけた。恐怖はそれほどなかった。バスタオルは置いた。乾いたパジャマもしっかりおいてある。ここ一ヶ月間、僕を恐怖に陥れた存在を、何故かほんの少し心待ちにしている僕がいることに、妙な違和感と、それでいいという妙な安心感が交互に襲っていた。

彼女は、また来る。なにか奇妙な気持ちの交差する長い時間、僕はテレビを見ているふりをしていた。何をやっているかなんて、頭に入っちゃいなかった。ざー、と音がし、しばらくして、がた、がた、と彼女が浴室を出る音だけを聞き逃さないよう、テレビのボリュームをこっそりと少し下げた。そこにいることはわかっていた。僕の後ろの暗闇に、彼女はまた立っているのだろう。恐怖がないとはいえないが、僕はそれでもどんな状況になっても悲鳴なんかあげない、そんな気になっていた。


カク   ぺちゃっ


前回、いつの間にか真横に立っていた時とはうって変わって、ゆっくりと、ゆっくりと、彼女は近づいてくるようだった。僕の心の準備は出来ていた。心臓は早かったが、さほど苦にはならなかった。そのうち、真横で黄色いパジャマのすそが視界に入ったとき、僕はまた奇妙な安堵感を感じていた。

「ど、どうぞ…」

そういって僕は、昨晩と同じように僕の左隣の座椅子を手で、まるでエスコートでもするように流れるように指し示した。

彼女は、昨晩と全く同じような動作で、座椅子に近づき、ずりずりとずり落ちるような座り方で、うつむいたまま膝を抱えた。何も変わらない。濡れた乱れ髪も、青白い肌も、左手首の血の染みも。

僕は今度は、ゆっくりと、噛み締めるように、どもらないように、落ち着いて彼女に話しかけた。

「パジャマ、気にいってもらえたんですね。よかった。」

少し引きつった、ぎこちない、それでも一応笑顔といえるはずの表情で僕は語りかけた。彼女は何も答えなかった。それきり、また沈黙が訪れた。また小さなうめき声のような音が、地の底から響いてくる。耐え切れず、僕はまた昨晩と同じような会話を繰り返した。

「さ、寒くないですか。パジャマ一枚なんて。ぼ、僕なんか、こう、半纏まで着込んじゃって、寒いなぁ、って…」

引きつった愛想笑いを浮かべて僕はしゃべり続けた。

「こ、ここね、建物が古いでしょ。窓なんかも二重構造じゃないですし、壁も薄くて冬は寒いんです。コタツは必需品で、これないと僕なんかもう凍え死んじゃいますよ。は、入らないんですか、コタツ。温かいですよ。」

と僕は彼女の方に少し手を伸ばした。その瞬間、彼女はぴくりと右手を震わせながら引っ込めたような気がした。何だか立場が逆だ。僕が幽霊に恐怖しているんじゃない。まるで幽霊が、僕に怯えているみたいだ。その仕草を見て僕はゆっくりと手を引っ込めた。

「あ、安心してください。僕は、あなたに何もしません。だ、だから、あなたも僕に何もしないでくださいね。」

それは端的に「呪い殺すな」と言っているようなもので、失礼といえば失礼な言い方だと僕ははっと言い直した。

「い、いや、そんな、ヘンな意味じゃないんです。ごめんなさい…」

彼女はざばりとした髪で顔を覆い隠したまま、ぴくりとも動こうとしなかった。また、そのうちすぐに消えてしまいそうな儚さもあった。僕は、何故だかもう少し彼女と話をしてみたかった。いや、僕が一方的に話しかけているに過ぎないのではあるけれど、それでも僕は何故か会話が成立しているような気になっていた。じわりと、僕の左側から寒さが染みてくるような気がした。

「さ、寒いですよね。そ、そうだ!コーヒー、なんて、飲みませんか…?温かいの。いや、僕が飲みたいだけなんで、ついでですけど、気にしないでください。い、入れましょうかね、コーヒー。嫌じゃなければですけど…」

そういって僕は、彼女の反応を見ずに立ち上がった。彼女は、うつむいたままだった、と思う。キッチンにお湯を沸かしに行く。水道の蛇口をひねり、少し多めに水を入れたヤカンを火にかけた。その間に、彼女が消えてしまうんじゃないかと思って、僕はちらちらとコタツの方を覗き見た。彼女は全く動く気配がなかった。お湯の沸く間、僕は元の席に戻ろうか、それともこのままここにいようか、と右に左にうろうろしていた。お客さんなら、放っておくのは失礼だよな。でも、幽霊だよ?怖いよ。僕の心の中は、そこにいる存在が何であるかをはっきりと確定できないままになっていた。お湯の沸く音にはっと気がつき、僕は慌てて火を止めた。いつも飲んでいるインスタントコーヒー。僕はいつもコーヒーに牛乳を少し、だけなのだが、さて彼女の分はどうしたらいいのかわからない。お砂糖とミルクは、なんて間抜けな質問をしに戻る気になれなかった僕は、とりあえずありあわせのカップにコーヒーと砂糖を少し、それから牛乳を少し、といった無難なあたりでまとめることにした。

僕は、自分のコーヒーと、もう一つあまり使わない少し可愛い感じのするカップを持って席に戻った。彼女は身じろぎ一つしていなかった。コトンと自分のカップを置いた後、彼女の前に恐る恐るカップを差し出した。

「あの、、、どうぞ。お口に合うかどうかわかりませんけど、、、」

そうっとカップを彼女の前に置いた。とりあえず僕は自分の定位置に座り、温かそうな湯気を立てるコーヒーカップを手に取り、ずずっと一口すすった。なんだか少し気分が楽になった気がした。コーヒーブレイクって言うけど、本当だな、などともやもやと考えながら、僕は彼女の方をチラリと見た。カップに手を伸ばす気配はない。僕は二口、三口とコーヒーをすすり、あぁと一つため息をついてカップを置いた。自分ひとりがそうやって「ブレイク」しているのが少し申し訳ない気がした。

「えと、、、ごめんなさい。コーヒー、嫌いでしたか…?勝手に入れちゃったりして、失礼だったかな…ごめんなさい。い、いらなかったらそのままにして置いてくださいね。あとでちゃっと片付けちゃいますから、、、気にしないで、、、すみません、、、」

なんだか僕は謝ってばかりだ。思わず頭をわしわしと掻き毟って、僕はバツが悪そうな表情をしたのだと思う。一度うつむいて、もう一度彼女を見た。じわりと染み出たような赤い染みが左袖に浮いていた。

その時、彼女の髪が少しだけ揺れた。左右に少しだけ。ギシギシと音がしたかのようにぎこちない動きだったが、明らかにそれは「いいえ」のサインだった。ゆっくりと二回、首を左右に振った後、彼女の右手がぴくりと動いた。それにあわせて左腕も少しだけ上がってきた。どちらの腕からも軋み音が聞こえてきそうな、人形のような動きではあったが、明らかに両腕を上げようとしていた。その両腕は、ゆっくり、ゆっくりとコタツのテーブルの上に伸びて行き、僕の置いたコーヒーカップの端を少しだけ触った。温度を確かめるように、少し、少しだけカップをさわった彼女は、そのあとゆっくりと取っ手に右手を伸ばした。カップに左手を添える。

ぽたり、と彼女の左袖口から鮮血が滴り落ちた。少しのぞいたその腕は、やはりいつか見たようなパックリと割れた傷跡があり、肉の色と鮮赤色とが入り混じった色をしていた。僕の背筋は少し寒気を覚えたが、それよりもカップを取った彼女が、この後どうするのか、そちらの方が気がかりで恐怖は隅に追いやってしまえた。

彼女は、ゆっくりとカップを持ち上げ、そのざばりと覆いかぶさった髪の毛の、正確には口のあるほうなのだろうが、手前に近づけていった。顔前を覆った髪の毛を少しカップで掻き分けるように、口元に(見えはしなかったが)カップを添え、少しだけ傾けた。すする音も、飲み込む音も聞こえなかったが、僕は彼女が僕の差し出したコーヒーを飲んでくれたことに、奇妙な興奮を覚えていた。その興奮からか、少し急かすような口調で僕は聴いてしまった。

「美味しいですか…?熱くなかったですか…?」

彼女は、飲む仕草をピタリと止めた。しまった、と僕は思ったが、そのあと彼女はゆっくり、ゆっくりと、小さく、しかし確実に頷いた。僕は、大きく息を吐いて、背もたれに倒れこんだ。何だろう、この安堵感は?

それからも彼女は、ゆっくりだが少しずつコーヒーを口に運んだ。その仕草は、時折カクカクと人形のようになったり、とてもゆっくりになったりはするが、それでもそれは普通の人が普通にコーヒーを飲んでいるのと、まったく変わらなかった。そのことに僕はなにかよくわからない安心感を感じつつ見守っていた。

彼女は、コトンとカップをテーブルに戻した。まだ飲みきってはいないようだった。

「温まりました…?やっぱり冬の夜はコーヒーですよね。」

僕は何故か普通に話しかけていた。

「…あ、そういえば名前も言ってませんでしたよね…?僕、国分良人っていいます。国を分ける良い人、って書いて国分良人。名前の通り、良い人ですよ、ははは、なんて…。逆かな、ひっくり返して「お人良し」、の方がしっくり来るかもしれません。ただの小心者のお人良しです…。はは…」

僕はそう、自虐的な自己紹介を始めて、頭をぽりぽりとかいた。僕は今、幽霊に自己紹介をしている。とんでもなくシュールな光景だ。はたからみたら誰が見てもコイツはアホだと思うだろう。でも僕は必死だった。そして、不思議となんだか楽しくもあった。今、心の隅で気付いたのだ。僕は、淋しかったのだと。



「名前」


それから僕は、あれやこれやと意味のないことを話し続けた。彼女は、じっと動かなかったが、時折沈黙の合い間にあのゆっくりとした動作でコーヒーを口に運んだ。僕は調子に乗って益々しゃべり続けた。

「大学の二回生なんです。ホントは講義にもっと出なくちゃいけないんですけど、最近全然行けてなくて、、、えと、、、」

風呂場の幽霊事件があるからなどとは、口が裂けても言ってはいけないと僕は分かっていた。

「さ、寒いでしょ?冬は苦手なんです。あはは、だらしないですよね。なもんで、布団に丸まったきり出られないんです。お人良しで真面目だけがとりえの僕から、真面目を取ったら、ただの間抜けなお人良し、ですよね、、、」

そこまでまくし立てるようにしゃべった僕は、はっと気付いたように付け加えた。

「あ、ご、ごめんなさい、僕、気も遣わずに僕ばっかりしゃべるだけしゃべって、、、ダメですね、、、すみません…」

彼女がしゃべることはないと、僕は分かっていた。でも、なんだか普通の人としゃべっているようにしてあげた方がいいんじゃないかと、そんな気がした僕は、無意識に彼女が幽霊であることを忘れようとしていた。もしかすると、そう、彼女も淋しいのかもしれない、そう思ったからだ。淋しくてここにいるんだとしたら、話しかけてあげたほうがいいのかもしれない、それは漠然とした想いだったし、ただ単に僕の淋しさを移し変えていただけかもしれない。それでも、僕にはしゃべることしか出来なかった。少しの沈黙の間、僕はこれを聴いてもいいものかどうか、迷っていた。聴くと、また彼女が消えてしまいそうな気がして仕方なかったのだ。悩んで、悩んで、それでも、僕はやっぱりその衝動を抑え切れなかった。

「えと、、、しゃべったり、ってできますか…?あの、、、名前とか…」

その瞬間、彼女の濡れた乱れ髪の間から、ぎょろりと目がのぞいたような気がして、ぼくは思わずビクリとのけぞった。その目は、白く濁って焦点の合わない、そう、本当に例えれば「死んだ魚の目」のように見えた。ぼくはぶるっと震えて、一瞬固まった。

「あの!ごめんなさい、、、そんなつもりはなかったんです。別に、構いませんよ、そう、全然! ごめんなさい、本当に、ごめんなさい!」

やっぱり聴いてはいけなかったんだ。そう後悔した時は遅かった。彼女の姿はうっすらと透明感を見せ始め、そして音もなく消えていってしまった。あとには前と同じように湿った座椅子、びしょ濡れの黄色いパジャマ、そしてそのお腹の辺りに、カップ半分ばかりの量のコーヒーのような茶色いシミ。

「あぁ、、、やっちまった…」

僕は後悔したが、それでも随分落ち着いて長い時間一緒にいれたものだと、自分の勇気を賞賛しもした。飲みさしのコーヒーカップには半分ほどのコーヒーが残っていた。まるで残りの半分は、パジャマの上にこぼしたように。


今日も彼女は来るだろうか。そんなことを考えながら、僕はまたショッピングモールの寝具売り場にいた。今日は朝から曇り空で、時折小雨の混じった風の吹く寒い日だった。洗濯が追いつかないのだ。バスタオルもパジャマも乾かない。今晩、彼女が来るとしたら、またあの「これは、いや」のトレーナーとスウェットを出すことになる。出費は非常に痛いが、僕はそれでもいいと思っていた。それは結局狂気なんかではなく、ただの「淋しさ」なんだと気付くまでには、もう少し時間がかかった。

少しなれた足取りで女物のパジャマコーナーに滑り込んだ僕は、早速パジャマを選び始めた。今度はピンクにしよう。バスタオルもピンクだし、小さな花柄をあしらった上品なピンクのパジャマにしよう。そうつぶやきながら、僕は一枚一枚丁寧に見ながら選んだ。ちょうどいい感じの商品に出会ったとき、思わず僕はヨシッと小さな声でガッツポーズをしていた。サイズもM、大丈夫。

いそいそとパジャマを持ってレジに並ぶ。今回も前と同じ店員が、僕の商品を受け取ってレジを打ち始めた。

「はい、こちらですね。パジャマ一点。八千九百八十円でございます。贈り物ですか?」

「いえ、自宅用です。」

僕は堂々と言った。目的がハッキリしていると、人はこうも変わるものかと思う。店員は慣れた仕草でレジ操作をし、再び僕に尋ねた。

「サイズの方はMサイズでおよろしいですか?」

「はい、大丈夫です。」

変わらずテキパキと操作し、梱包した店員は僕にお釣りと商品を渡した。

「ありがとうございました。」

僕は少し颯爽と、レジを後にした。


今夜の彼女の影は確かにピンクだった。ちゃんと着てくれている。そう思っただけで、僕はなんだか少し幸せな気持ちになってしまった。相手は幽霊だというのに。いつものように彼女は膝を抱えて座り込んだ。ピンクのパジャマで。僕は精一杯の勇気を振り絞って言った。

「パジャマ、ピンクも似合ってますよ。」

僕は少し照れを隠すように、お湯を沸かしにキッチンへと逃げた。キッチンから少し大きな声で彼女に話しかけた。

「コーヒーでいいですか?って言ってもそれしかないんだけど…」

苦笑いをして僕はコーヒーを二つ準備した。なんだろう、この感覚。不思議だ。僕は完全に狂ってしまったとしか思えない。それでも僕はよかった。この薄気味悪い来客をもてなすことが今僕に出来ることなのだ。

コーヒーを差し出した後の僕は、また他愛もないことをじゃべるだけの間抜けな「お人良し」になっていた。また僕ばっかりしゃべって、ごめんね、といいつつも、それしか方法がないのだ。時折、ぎょろりとのぞいたあの白い濁った目を思い出して、言葉が止まることはあったが、それでも僕はしゃべるしかなかった。大学に友達もいない、一緒に飲んだり笑ったりする友人もいない。大学に入ってからの一年半、僕はこんなにしゃべったことはなかった。口下手なのはわかっていた。それでも一生懸命しゃべることしか、僕にはできなかった。

はぁ、と息をついて背もたれにもたれかかり、コーヒーを一口すすった時だった。


 み   ず   ・・・


    み    ず    ぎ   ・・・


地の底から這い出るような低い音で、何かが聞こえた。それが彼女がしゃべっている声だと気付くまでに少し時間がかかった。僕は彼女を見つめた。うなだれた頭が少し上がったような気がした。


 み   ず   ぎ  ・・・


「なに?何か言いましたか?」


 ぎ   ょ   う   も   ど


    み  ず  ぎ  ・・・


「?ぎょうもど、みずぎ?」

それが何を示すものか、僕はしばらく考えた。と、ふとピンと頭に何かが光った。

「名前?名前なんですね?ぎょうもど みずぎ?」

低くくぐもった声をそのまま聞くとそうなるが、僕はそのノイズを少し差し引いた呼び名を必死で考えた。ぎょうもど、ぎょうもと、きょうもと、きょうもと!きょうもとだ。

「きょうもと、ですね?きょうもと。」

少し間をおいて、彼女はゆっくりと頷いた。やった、と僕は思った。きょうもと、次は、みずぎ。みずぎ、みずき。これはもうすんなり出てきた。

「みずき、きょうもと みずき!きょうもと みずきさんなんですね?」

彼女の頭が、つながった、と訴えんばかりに少し上に上がり、今までの中で一番大きく頷いた。僕は興奮を抑え切れなかった。彼女の名前が分かった!

「きょうもと みずきさん。きょうもとのきょうは、京都の京?もとは本?」

彼女はゆっくりとうなずいた。

「京本、京本さん。みずきは、、、美しい月、ですか?」

彼女は小さく左右に頭を振った。

「じゃあ、、、瑞々しい、、、希望の希?」

彼女の反応がない。頷くでもなく、首を振るでもなく。僕は考えた。片方は合っているのかもしれない。

「えと、、、じゃあ瑞々しい、樹木の樹?」

彼女は再び大きく頷いた。京本瑞樹!わかった、彼女の名前!

「京本瑞樹さん、なんですね?そうか、京本瑞樹さん。名前、分かってよかった!ありがとうございます!教えてくれて!」

僕の声を無視するように、彼女がコーヒーをゆっくりとすすった。

「瑞樹さん、瑞々しい樹、綺麗な名前です。いい名前ですね。すごく綺麗ないい名前ですよ。瑞樹さんかぁ。」

僕は興奮を抑えきれず、いつまでもそうやって噛み締めていた。彼女の表情は全くわからない。ゆっくりとコーヒーをすする手がわずかに震えている。どろり、と左手首からまた鮮血が滴った。


「良人なんてダッサい名前でしょ。それより瑞樹さんってすごいイイですよ。」

僕は子どものように調子に乗ってはしゃいでいた。もうそれで、今日吹っ飛んでいった一万円もの出費なんかどうでも良くなっていた。調子にのりついでのように、僕は余計なことを聴き始めた。

「瑞樹さんって、どこら辺に住んでたんですか?近くですか?」

本当ならここで追加の質問はタブーだ。欲張ってはいけない。名前が聞けただけで第一段階はクリアと思うべきだ。しかし、今の僕はそんな思いはどこかに吹き飛んでいた。思えばそれが功を奏したのか、彼女も機嫌が良くなっていたのか、そのあたりはわからないが、驚いたことに彼女は僕の質問に答えてきたのだ。


い   ず   み   ま   ぢ


「いずみまぢ、いずみまち、和泉町ですね?近いじゃないですか。そうかぁ、そんな近くに住んでたんですね。できたら生きてる間に会いたかったなぁ。」

そう言ってしまって、また僕はしまった!やってしまった!と思った。消えてしまうかもしれない。これは本当のタブーだったに違いない。

しかし、彼女は消えなかった。むしろ僕ともっと話をしたがっているかのように、またゆっくりとコーヒーを一口すすった。

「ご、ごめんなさい、悪いことを言ってしまった。本当にごめん、ごめんなさい。」

僕は心から彼女に謝った。真剣な顔をして、大きく頭を下げた僕に、彼女はゆっくりと左右に首を振った。「いいの」そう言っているかのような、ゆるやかな動きだった。


(後編につづく)

初めての投稿で、あとがきなんてかける身分じゃ、到底ございません。

読んでいただけた方、本当にありがとうございました。

思いついたままを、ただただ書き綴った拙い作品です。さぞ、読みづらく、また未熟な部分も山積だったことでしょう。

が、自分以外の方に読んでいただいただけで、気持ちとしては光栄です。

国分良人は、臆病な、地味な、卑屈な、弱い、そこらにいるような僕みたいな存在です。

ですが、つらい思いをたくさんしてきた分、人の立場に立って考えることに関しては人並み以上に心遣える青年です。

どうか、良人の勇気に少しだけでも賞賛を送ってあげてください。

僕にもそんな勇気があればと、思いながら書いた作品です。

ありがとうございました。


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