↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

短編ホラー

割卵

作者: 壱原 一
掲載日:2026/07/30

子供の頃、父母と安アパートに住んでいた。途中で□が亡くなり、○は仕事で不在がちで、放課後は隣室の先輩住人に夕飯まで世話になっていた。


面倒見が良く穏やかな、独り身の若いアルバイターの人である。


あの人の部屋はがらんとしていて、壁沿いを本棚と絵が埋めていた。本は分厚い布張りで背や表紙に箔押しのある物が殆《ほとん》ど。絵は濃い鉛筆で描かれた白黒の大物ばかりだった。


若《も》しかしたら美術や学術の浪人生か何かだったのかも知れない。実態は今も分からない。


自分は下校すると隣室へ帰り、あの人にほぼ付きっ切りで構って貰っていた。宿題を見て貰って、遊んで貰って、夕ご飯を一緒に作り、食べ、お片付けをして自宅へ戻る。


あの人の作って呉《く》れるご飯は美味しく、屡々(しばしば)○の夕飯とか、翌朝の朝食にと、お裾分けを持たせて呉れさえした。


自宅と同じ間取りの隣室の台所で踏み台に乗って、他愛ない話をしながらあの人の淀《よど》みない調理の手際を覗き込む情景は、両親不在の寂しさが漂《ただよ》う自分の幼少期を、温かな光で照らしている。


*


そうしてあの人と過ごす一方、進級に伴うクラス替えを経て暫くの事。


自分と級友の1人との細《ささ》やかで対等だった筈の摩擦が、周囲の連動により込み入って激化し、単身劣勢に陥《おちい》って、寝ても覚めても気の塞《ふさ》ぐ日が続くようになった。


落ち込むし不安だし腹が立つし、悲しく恨めしく居心地が悪い。頑《がん》として登校し続けたが、心身の反応は如何《いかん》ともし難く、陰気な顰《しか》め面を貼り付けて食が細くなるばかりの自分に、軈《やが》てあの人が妙な事を言った。


――今日は特別な卵を食べよう。


夕飯時、台所の踏み台に乗って隣を仰ぎ、消沈して怠《だる》い目で窺《うかが》うと、あの人は小首を傾《かし》げて此方《こちら》を見下ろしていた。


シンク前の窓の上辺に点《とも》る、流し元灯の白光を受けて、平板に均《なら》された顔面に、辛うじて残った眼窩《がんか》や鼻梁《びりょう》の陰影が、簡略化された似顔絵の如くぼやっと滲《にじ》んでいた。


――これをするつもりはなかったけど、とても見ていられないから特別な卵を食べてほしい。


そう続け、調理台に揃《そろ》えられた用具と食材の中から、白い鶏卵を1つ取る。此方へ向けて差し出し、もう片方の手の人差し指を上部の端へ添えた。


次《つ》いで、


たま ごに めは なを かいた よう


言いながら水平に2本、短い線をなぞり、すぐ下にも2本、同様になぞる。


縦中央の辺りへ垂直に1本、短い線をなぞり、最後にその下へ1本、水平に短い線をなぞる。


卵に目鼻を描いた様《よう》。


両の眉と目と、鼻と口を、卵の表面へ描くように、点々と言葉を区切りながら、6本の線をなぞって見せる。


――**の元気や明るい気持ち、取っちゃう人が居るでしょう。その人の顔を思い浮かべて、此処にうつしてみてごらん。


調理前に洗って拭いた、冷たく湿る薄い手が、するりと此方の手を取って、人差し指を残して覆い、握って、卵の表面へ運ぶ。


――ね。**を大好きだよ。こんな風にさせるの許せない。簡単だから遣《や》ってごらん。


たま ごに めは なを かいた よう


導かれて線をなぞる間、重く鈍《にぶ》った頭に、あの人の優しい声と言葉が、力強く、熱く、ひたひたと沁みた。


「たま、ごに、めは、なを、かいた、よう」


そのうち自分で唱えていて、思い浮かべて、なぞっていた。


お互いだけの問題だったのに、他の子達を味方にするのひどい。


仲直りしたくて謝ったのに、他の子達と目配せをして、真似をしながら笑い合って、無かった事にするのひどい。


お□さんが死んでいるとか、お○さん授業参観に来ないとか、そういう関係ない事を、一々しつこく持ち出すのひどい。


どうしてこんなひどいことするの。あんなに仲良くしてたのに。友達だと思ってたのに。


もう--のこときらい。


白い卵の表面を見詰め、脳裏に級友を思いつつ、あの人の手にひたりと包まれ級友の顔をなぞっていると、縺《もつ》れた感情が解《ほど》けて、さらさら流れる感じがした。


少しずつ息が緩《ゆる》まって、ほっとして肩の力が抜け、段々体が温まり、次第に涙が溢《あふ》れてきた。


ぐすぐす噦《しゃく》りに震えながら、戦慄《わなな》く口で唱え、なぞり、結局5、6度した位で、自分が落ち着き静止すると、あの人は手を離して此方の肩を抱き、「頑張ったね」と宥《なだ》めて呉れた。


そうして卵を引っ込めて、調理台へ向き直り、ガラスボウルを引き寄せる。


縁《ふち》へ音高く卵を当てて、片手で割り開き、落とし入れた。


かんかん


ぱしゃ


くちゃ


白い殻が拉《ひしゃ》げて崩れ、割り開かれた内側から、中身が露出して垂れ落ちる。


余りに淀みなく割られたので、直前まで投影していた物まで割れて仕舞ったように感じられ、思わず手を握りたじろいだ。


あの人は此方へ目配せして、ひっそり忍び笑いを浮かべ、「取られたの、返して貰おうね」と声を潜めて囁いて、そのまま夕ご飯を作った。


卵は菜の花と豚肉の芳《かぐわ》しい炒め物になり、自分は久し振りに空腹で、とても美味しくて、幸せで、お代わりをしたのを覚えている。


美味しくて幸せな感覚だけ、しみじみ鮮やかに覚えていて、他の事は思い出せない。


件《くだん》の級友とは険悪なまま、進級して別のクラスになり、追々進路が分かれて、消息を知る機会も絶えた。


*


その後、子たる自分の親愛と、当人の長い献身に絆《ほだ》され、○があの人と入籍した。


あの人は自らの本や絵を何一つ持たず家へ来て、数年、それなりに暮らしたが、自分が進学で家を出る頃には、○と大分不仲になっていた。


過日○から離婚の報告があり、あの人と縁が切れて、良かったと思っている。


○が橋から落ちて亡くなった。


看板の下敷きになった、□の時と同じ様に、顔が割れて仕舞っているらしい。



終.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。