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Destination Unknown/精神の旅路  作者: 佐野和哉


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2.ちから

 後悔の潮水で満たされた赤い海

 疑惑で視力を奪われた盲目の鯨

 無意識の海の底は午前三時の夢

 縫われた両目から染み出た涙が

 後悔の海を赤く満たしてしまう

 潰れた両目からあふれ出す涙で

 後悔の海を真っ赤にしてしまえ


 錯覚だと思っていた。絵空事の世界だと思っていた。

 だからこそ、まさか自分がその絵空事の主役になったのでは、と錯覚する。それはもう一つの人生の始まり。そしてこれまでの人生の終わり。


 いつか、沢山いる人間の中から何かの拍子に自分だけが選ばれると思っている。だから、他の人に起こることは錯覚であり絵空事だと言う。平凡な毎日、凡庸な自分を何十年と過ごしてきてもなお、まさか、と思った瞬間にすべては変わる。

 サイレンの正体、惨劇からの招待、六階の窓の中。絶え間ない営みの中で誰かの声が聞こえてくる。たまには血の匂いも悪くない。今日は多い日、血まみれの日。汚物入れで腐る血も、あなたの胃袋で溶ける血も同じもの。


 静岡県の海岸まで車を走らせた。晴れ渡る空と青い海。冬の遠州灘は空っ風がきつい。振り向けば草原の遥か遠く、見知らぬタワーが見える。

 そもそも、なぜここが静岡県だと知っている?

 この日も波が高く、砂浜を通り越して海岸沿いの道路から駐車場の一部にまで押し寄せてきていた。枠が無いにもかかわらず邪魔にならないからいいだろう、とでも言いたげに停められた白いレトロなスポーツカーがさっきから散々波を被っている。これではかなわない、と奥の方に車を停める。

 するとそこは立体駐車場の中。

 延々と四角い螺旋のスロープを上がって駐車してみると、床板と天井と角柱コラムに囲われた海と空が綺麗だった。胸元から取り出した端末を構えて写真を撮ろうとするが、何度やってもブレたり指が入ったりして上手く撮れない。そのうちに景色がだんだんと変わっていった。はじめは海の向こうに街が見えて、次いで高架と観覧車が影になっている。日が暮れてきて、空はどんどん曇っていった。最終的には夕焼けと影絵になった街と紫色の海の写真が撮れた。


 駐車場を出るころにはすっかり夜だった。知らない道路橋のたもとで赤信号に捕まった。まっすぐ橋を渡っていけば水族館がある。だが私は以前にもここに来たことがある。そのときも閉館時刻ぎりぎりで、結局ろくすっぽ見て回ることが出来なかったっけ。

 橋は渡らず街へ出た。どこにでもある感じのドコにでもある店が並ぶ何処にでもある繁華街で、居酒屋とカラオケとエステの入った雑居ビルの輪郭がチカチカしている。どこにでもあるチェーン店の看板ばかりが目に付くが、それらを一体どこで見たのか思い出せない。


 紺色に白く力強い筆文字で「ちから」と書かれた、年季の入った暖簾をくぐる。小さな店のなかは炭やタバコの煙がうっすら立ち込めており賑やかな雰囲気だった。カウンターに腰掛けていた灰色のジャケットに黒い帽子を深々と被った老人が席を詰めてくれた。会釈をして隣に腰掛けるとコートが濡れていることに気が付いた。

 冬の雨は冷たい。席を詰めてくれたお礼にと熱燗を一杯頼んで老人の前へ。老人は立派な山羊髭を生やし、日に焼けた肌に深々と皺が刻まれていた。


 私は砂ずりを塩で二本注文した。店内ではどこかのテレビが騒々しい流行り歌を流しているが、聞いているものはいないようだ。やがて皿の上で湯気を立てる串に刺さった砂ずり。

 店主は不愛想だが味は良かった。

 いい塩梅とはよく言ったもので、塩で焼かれた串の隣に梅肉が添えてある。これを付けて食うとなお美味い。隣の老人にも薦めてみる。さきほどの熱燗がテーブルの上ですっかり冷えていて、老人は死んでいた。私はそれを誰にも悟られまいと席を立ち、洗面所を探した。

 コの字型になった店内の反対側にそれはあった。レジもその前だ。ちょうどいい、適当にトイレに入って適当に出て、そのまま会計を済ませてしまおう。他の客の背中を少しずつ腹で小突きながら進む。


 トイレのドアノブには赤い表示。誰かが入っているようだ。仕方がないので少し待つ。席の方を見るともなしに見る。老人はそのままの格好で固まっている。目の前の酒もオデンもそのまま冷めて、挙句の果てに自らも冷たくなってしまった。

 しかし一体なぜ、いま、よりにもよって。テレビと店内のざわめきがガチャリと回るドアノブの音で一瞬にして遠ざかった。ドアを開けて出てきたのは山羊髭に深々と刻まれた皺。灰色のジャケットに黒い帽子。さっき隣で死んでいたはずの老人だった。


「お前は精神を旅しているな、お前の心はどこへ繋がっていると思うね? わしの心はついさっき力尽きたよ。どこにも繋がってなんかいなかった」

 老人は消えそうなかすれ声でそう言った。

 精神の旅?

 力尽きた心?

 どういうこと……と尋ねようとしたら、もう老人は目の前から消えていた。そして席に座っていたはずの死体も見えなかった。

 すっかり冷えた砂ずりと日本酒を急いで平らげて会計を済ませ逃げるように店の引き戸をガラガラと開けた。


 そこは雪に閉ざされた北の最果て。風と海と氷の街。終着駅は今日も夜だった。

 ホームから見上げた夜空は澄み切った曇り空で、舞い散る雪と、その遥か彼方で瞬く星空が美しかった。

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