発端
染谷がこんな状態になったのは、感染が広まってすぐのことだった。大学を卒業した彼は、田舎の実家から上京して新しい生活を始めたばかりだった。アルバイトを2つ掛け持ちして、数年前からの趣味であったパルクールの腕を本格的に磨いていた。地域イベントや小規模な大会に出ては好成績を修め、そのうち大きな大会にも出られるのではないかと胸を弾ませていた時、世界は一変してしまった。
良く晴れた8月の朝だった。染谷がジムへ行くと、仲の良い友人たちが何やら揉めていた。そのただならぬ様子を見て介在に入ろうと近づいた時、急に腕を噛まれた。友人の姿はまるで映画に出てくるゾンビのように変わり果てていたのだ。血走った目。開いた瞳孔。剥き出しになった歯列。変色した皮膚。人間が発する「声」とは思えない奇声……
当時メディアでは新種のウイルスの情報を扱いはじめてはいたものの、皆どこか遠くの出来事のように思っていた。まさか自分の目の前に、ゾンビのごとく狂暴化した感染者が現れて噛みつかれるとは思わなかったのだ。
ジムは瞬く間にパニックに陥った。まず最初に狂暴化した仲間を殴り倒したのは染谷自身だった。噛まれたことによる怒りもあったが、それ以上に恐怖心が強かった。そこから先は何がどうなっているのかまるでわからなくなり、気づいた時には辺りに誰もおらず、1人血に濡れたジムの床に倒れていた。
まず最初に、自分も噛まれてしまった以上狂暴化するに違いないと思った。もしくは感染者として暴れまわった後なのか。考えるほど冷汗が止まらなかった。彼は半ばパニックになりながらシャワー室へ行き、身体についた誰のものかもわからない血を必死に洗い流した。それからジムの引き出しにあったカッターナイフを持ち出すと、シャワー室に籠城した。
震える手でスマートフォンを持ち、必死にSNSで情報を集めたが、集めれば集めるほど絶望感は増していくばかりだった。噛まれてから10分以内に症状が現れるとあったが、この時染谷は噛まれてから2時間以上経っていた。恐る恐る鏡で自分の顔を確認する。特に変化はない。目が少し充血しているように見えたが、これは単に泣きそうになっているだけだった。
SNSの情報はどれだけ信用したら良いのか判断が難しかった。ショッキングな情報が流れては来るものの、それらが生成AIによって作られたのではないかという指摘を見ると、どうもそんな気がしてくる。ラジオも聞いてはみたが、同じ言葉を繰り返すばかりだった。唯一わかっているのは、非常事態だということだけである。
右手にカッターナイフ。左手にスマホを持ち、実家に最後の電話を掛けようとして、やめた。その間ずっと両手は震え、思考はまとまらず、目の奥は熱を持っていた。
「どうする。どうすればいい」
結局自害できないまま、シャワー室で夜を明かした。傷口を消毒して包帯を巻き、顔を洗い、鏡でもう一度自分の姿を確認する。やはり何の変化もない。もしかしたら自分は感染しても症状が出ない無症候性キャリアというものなのかもしれないとぼんやり思った。これは昔見たその手の映画から得た知識だった。症状は出ないが、ウイルス自体は持っているため、作中粘膜接触した非感染者は瞬く間に凶暴な感染者へと変わってしまったのだった。
「俺、生きてていいんだっけ……」
染谷は思った。ウイルスを持っているであろう自分がうろうろしているのはまずいのではないかと。しかし症状が出ないということはウイルスに対する免疫を持っているということで、それはまた何かの役に立つのではないかとも思った。大きな大学病院や感染症研究所にでも行けばいいのではと思ったが、ジムから一歩外に出てみてすぐに現実的ではないと悟った。驚くべきことに、街はたった1日でめちゃくちゃになっていたのだ。上空を旋回するヘリコプターの音がやけにうるさかった。
最初こそ物資の買い占めや奪い合い、避難所への誘導などがあったものの、自体が改善する気配はなく、ライフラインは全面停止し、待っていれば復興するだろうという淡い期待も打ち砕かれてしまった。あたふたしているうちに、どこか現実味のないサバイバル生活が幕を開けた。感染者は怒りと恐怖心に支配され、まるで手負いの猛獣のように暴れまわった。そして生肉を食していなくとも、口内からは常に血がにじみ出ており、赤く染まった唾液を垂らして向かってくる様は絶望そのものだった。
染谷が今の状態に至るまで、色々なことがあった。刺激さえしなければ襲われないと気付き、やっとの思いで研究所まで辿り着くことに成功したが、その頃には施設全体が機能停止状態に陥っており、何の役にも立てなかった。
その後、肌や顔周りを覆える冬場は人助けをし、それができない夏場は自然豊かな場所を拠点にして大人しく過ごした。過酷な毎日であったが、あっという間に季節は巡った。




