第2話
研究室で薬草を刻みながら、私は鼻歌を口ずさんでいた。
新しい組み合わせが閃いて、つい夢中になっていたからだ。
そのとき、不意に「ガシャッ」と音が響いた。
視線を向けると、隣の机で薬瓶が床に落ち、派手に砕け散っていた。
「ご、ごめん!手が滑った!」
慌てて拾い集める後輩を見て、私は苦笑する。
「大丈夫、大丈夫。怪我はない? 服にかからなかった?」
「う、うん……。」
何気なく視線を戻した時、胸がざわついた。
──私の調合していた瓶のラベルが、ほんの少し斜めになっている。
気のせいだろうか?
いや、今までも何度かこんな小さな違和感はあった。
ペン先が潰れていたり、ノートの位置が変わっていたり。
「……。」
指先で瓶を握り直すと、少し冷たい汗が滲んでいるのに気づく。
「エリシア?どうしたの?」
声をかけてきた友人に、「なんでもないよ」と笑って返す。
けれど、胸の奥でははっきりとした不安が芽生え始めていた。
****
ある日の研究室。
私は薬草をすり潰したボウルを机に置き、ノートに配合を書き込んでいた。
「エリシアー!教授が呼んでるよー。」
「はーい、今行くー。」
研究室の入口から私を呼ぶ声がして手を止めた。
魔法理論学の教授から、頼まれていた資料があったのだと思い出した私は、整理したノートを手に教授の部屋へ向かった。
「──やっぱり、君の理論は面白い。」
笑いながら楽しげに話をする教授に、私も「光栄です」と微笑んだ。
部屋に入るなり、私の書いた論文を読んでそう褒めてくれた。この瞬間が堪らなく嬉しいと思う。
教授との有意義な時間を終え、研究室へ戻る。
「ただい──」
誰もいない研究室に入り、息を呑んだ。
床に散らばる薬草と紙束。
作業途中のボウルは、勝手に転がるようなものではないのに、その中身が床に撒かれるように散らかっている。
明らかにおかしい。
窓も開いていなければ、強い風も吹いていない。
──人為的だ。
「エリシア?何してるの?……あら、零しちゃったの?」
背後から聞こえた軽快な声に振り向くと、不思議そうな顔をした友人たち。
違う。この人たちじゃない。
疑いたくはないのに、目の前の現実に急速に頭は冷えていく。
「大丈夫?エリシア。」
近くにいた友人が覗き込んでくる。
私は小さく笑って、壊れた薬草を片づけた。
「うん、大丈夫。……気にしないで。」
けれど胸の奥では、冷たい不信感が芽を広げていく。
──誰が、なんのために。
****
緑豊かな夏が過ぎ、秋が来て、冬になる。
私は、参っていた。
あれ以来続けられる研究成果の廃棄。
誰も見ていないうちに全ての瓶が粉々に砕け、レシピを書いた鍵付きのノートは、ぐしゃぐしゃになって掃除棚のバケツの中から見つかった。
片付けの際に、怪我をしたからと作った軟膏でさえ、目を離した隙にゴミ箱に捨てられていた。
そんなことが何度も何度も続いた。
誰に相談しても「気のせいでしょ」、「気にしすぎだよ」と取り合って貰えない。
カイトにも相談するか迷ったが、彼にまでそんなことを言われたら、私は壊れてしまいそうで何も言えなかった。
「大丈夫か?」「休めているか?」と相変わらず無表情で聞いてくるカイトに、「大丈夫」と笑うのが精一杯だった。
私は疲れていた。
研究室の仲間を疑うこともしたくなかった。
そんなある日。
また、ほんの少し目を離しただけだった。
眠気がしたために、コーヒーを淹れて戻ってきた、ほんの数分の間。
私が作ったはずの薬は、見た目は似ている、全く違う何かになっていた。
微かに香る薬品の匂いから嗅ぎなれない甘い匂いがした。魔法薬から感じる魔力は、微量だが私のものではない誰かの気配を感じた。
私が自分で作ったものを見間違えるはずがない。
丁寧に、試作に試作を重ねているのだ。自分の大事な研究を間違える?そんなことあるはずがない。
叫び出しそうだった。
気が狂ってしまいそうだった。
気が付けば、ガシャーンと大きな音を立てて足元に瓶が転がっていた。自分で床に叩きつけたのだと、理解するのに時間がかかった。
「なにしてるの?」
肩に手を置いて問いかけてくる人たちに、怖くなった。何食わぬ顔をしながら、このようなことが出来る人たちに、初めて怒りのようなものが湧いた。
「うるさい!!」
私はその場から逃げることしか出来なかった。
荒れ狂う感情を吐き出す場所が私にはなかった。
次の日から、私への視線が可哀想なものを見る目へと、変わったことに気づいた。
きっと頭がおかしいのだと、気が狂っているのだとそう思われていた。
けれども、そう思われても何も感じないほどに私は狂っていた。
「……ふふっ、あは、はははっ。」
突然笑い出した私へ、不気味なものを見るような視線が飛んでくる。
そんな彼らに笑いが止まらなかった。
私を貶めてまで何がしたいのだと、そんなに私が憎いのだと、そう思うと乾いた笑いばかりが口から漏れた。
「エリシア・ウッドバーン!貴殿を毒薬生成の容疑で確保させてもらう。」
そうして示された証拠は、あの時床に叩きつけた粉々の瓶。
嵌められた。そう思った時には遅かった。
突然研究室へ押しかけた騎士服を着た男たちに、私は城の牢へと連行された。
腕を掴まれる中、みんなが私から目を逸らし悲しげな顔をしていた。
一人、オレンジ色の瞳とかち合った。いつも優しげな瞳が、その時だけは何故か冷たく感じて、私は何も言えなくなった。
連れていかれる道中、何度も「私では無い」と言い張ったが、「言い訳は後で聞く」と取り合ってくれない。
貴族用の檻に閉じ込められ、念の為にと軽い魔力封じの枷をつけられる。大半の魔力を封じられ、私は牢の中で、生活魔法くらいしか使うことが出来なくなった。
なぜ、私がこんな目に遭わなければいけなかったのだ。
何が悪かったのだ。
考えれば考えるほど、掻きむしりたくなるような不快感が体の内側を支配する。
この時の私は、後に起こる絶望がこれよりも深いものだと思ってもみなかった。