レナ・グレーシル 第3話
カイトが膝をついて崩れる。
「カイト!?」
ハッとしたわたしは、カイトに駆け寄り呼びかける。男の視線が気になり、話を聞いていなかったため、何を話していたか記憶を巡らせる。
すると、俯いていたカイトはわたしを見上げ、緑の瞳を怒りに染める。
「……うるさい!お前のせいだ!」
カイトはわたしの手を振り払い叫び始める。
わたしのせい……?
「お前のせいで……俺は、俺はっ!……なんてことを……。」
全てを思い出したかのような発言に、わたしは呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
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騒ぎを起こしたことでダンスホールから追い出され、両親から謹慎を言い渡された。
その間に淡々と進むカイトとの婚姻準備に、次第に鬱々としてくる。
気が狂ったような彼と、婚姻を望む家はないだろう。わたしはもう、カイトと一緒になるしか道は無い。
記憶が戻ったカイトと、穏やかに過ごすことなど叶わない。また、わたしの幸せは彼女に邪魔をされた。
思った通り、カイトとの婚姻話は駆け足でまとめられ、領地へ押し込めるように荷物と共に送られた。
カイトは、婚姻式の最中も領地に向かう馬車の中でも、ブツブツと何かを呟いていた。陰鬱とした雰囲気は他者を怖がらせ、祝福という空気ではなかった。
わたしはただカイトの横に立ち、記憶があることを悟られないようにするので必死だった。
領地の屋敷に着いてからも、カイトとの交流はなく、彼はひたすらに執務室へ籠っていた。
使用人は、そんなわたしたちに必要以上に関わることはなく、屋敷全体の空気が澱んでいるようだった。
つまらない日々の中、時間だけはたくさんあった。
その間、静かに考えていた。
結局、わたしは彼女になにひとつ勝てない。
あれほど執着していたカイトにすら、もう価値は感じない。
──ああ、きっと、わたしはエリシアが羨ましかったのね。
人々の中心で明るく笑っていた彼女。
能力をおごることなく発揮し、感謝されていた彼女。
わたしの理想を全て詰め込んだような彼女の、持っているものが欲しかった。
今更こんなことがわかったところで、この虚しさは無くならない。もう何もする気が起きないのだ。
ふと、廊下からザワザワとした空気を感じて立ち上がる。重厚な扉に手をかけようとした時。
ガチャ、と開いた向こうからカイトの顔が見えた。
「……カイト。」
つい、呟いてしまった言葉に返事は無い。
「出ていけ。これが荷物だ。」
差し出される手紙とトランクケース。
無表情なカイトを見上げても、何も読み取れない。
……出ていけ?いきなり、なんなのだろう。
言い方にも内容にも不快に思うが、夫人としての仕事をしていないわたしは、そう言われても仕方ないと思える。
むっ、と顔を顰め、早く受け取れというように荷物を示され、わたしは慌てて手を伸ばした。
手紙は両親からのもので、何かあったのかと中を確認する。
「お前の実家から催促だ。早く帰れ。……なんで俺がこんな目に。」
「……は?……なによ、それ。」
鋭くわたしを睨むカイトに言い返す。
エリシアに振られたのは自分のせいじゃない。どうして、わたしが悪いように言われるの?
「自業自得じゃないの?あんな醜く縋って。そんな男、わたしもお断りだもの。」
鼻で笑って呆れたようにそう言うと、バチンッ、と鋭い音が耳を貫いた。床に手をついて倒れると、頬がジンジンと痛み、カイトに殴られたことを理解する。
熱を持ち始めた頬を押えて、顔を上げた。
「うるさいうるさいうるさいっ!お前に何がわかるっ!?俺の人生をめちゃくちゃにしやがって!」
目線の先にはもう好きだった男の欠片もない。
ただ、暴力をふるい不幸を嘆くだけの、哀れな存在となった者だ。
頬の痛みから生理的な涙が溢れ落ちる。
こんなやつの前で泣きたくなどなかったが、堪えることが出来なかった。
歯を食いしばったわたしの腕を乱暴に掴み、荷物と共に引き摺られる。
「ちょっとっ……!離してっ!」
抵抗するも、力でかなうはずもなく、わたしは無理やり馬車に押し込められた。
「……っ!痛っ!」
「出せ。」
荷物を投げつけられ、受け止めきれず頭にあたる。しかし、それすらもカイトは気にした様子はない。
馬車の扉が閉まると、ガタガタと揺れ走り出す。
先程、背中を押されたせいでバランスを崩し、受身をとった時に足を挫いたようだ。ズキズキと痛む足を押さえると、猛烈に掻き毟りたくなるほどの衝動に駆られる。
「……ぁぁぁあああっ……!なんっなのよっ!」
簡素な馬車の中で怒りにまかせて叫ぶが、止まる気配はない。悔しくてトランクケースを殴るが、わたしの手の方が赤くなってしまう。
それでも、構わなかった。
とにかく、何かで発散しなければ不快で不快でしょうがなかった。
しばらく蹲ったままそうしていた。
疲れてきたわたしは、手を止めて荒い呼吸を落ち着ける。
すると、馬車の速度が緩やかになり停止する。
ドアを開けた御者は、わたしを馬車から引きずり出すと、何食わぬ顔で言い放つ。
「ここまでです。」
「え?……待って!こんなところで……?」
辺り一面に木が生い茂り、どう見ても人など住んでいる気配は無い。それなのに目の前の彼は、わたしをここに置いていこうとしている。
馬車から荷物を取り、呆然とするわたしの横に落とすと、「では」と背を向けた。
「ねぇ!待ってよ!」
「……ご命令ですので。」
無表情でそう言った彼は、そのまま素早く馬車で帰っていった。
どこかも分からない森で、わたしはしばらく頬と足の痛みに呻いていることしか出来なかった。