第10話
暑かった日差しは和らぎ、日が暮れると涼しい風が吹く。そんな気持ちのいい日になるはずだった。
いつものように、ユリウスと話をしながら廊下を歩いていた。
ガチャンとガラスの割れる音が聞こえ、振り向くと知らない生徒がカップを落としたようだった。
ただ、それだけ。
それなのに、ドクドクと心臓の音が跳ね上がり、目が離せなくなる。目に入ってくる夕日が痛い。うるさかった虫の声も、風の音も、ユリウスの声さえも聞こえない。
「エリシア!」
強く呼びかけられ腕を掴まれた。
あの日、騎士に取り押さえられたことを思い出して、私は咄嗟に振り払い、驚くユリウスから後ずさる。
「あ……。違う。……違うの。」
ユリウスは何も言っていない。
それなのに、ぐるぐると私の中に声が聞こえた。
『あんたがやったんだろ?』
『犯人はあんただ。』
『大人しくしていろ。』
ガクガクと足が震え、ゾッと凍るように背筋に寒気が走る。耳から心臓が飛び出してきそうな程、大きく鼓動がする。
ガクンと膝から崩れ落ちた私を、ユリウスは咄嗟に支えた。
彼から焦りの感情が伝わるが、体が言うことを聞かない。
「エリシア!どうしたの?」
視界の端が黒く染っていく。荒くなっていく呼吸で彼の声はかき消され、変な汗が全身を包んだ。
「大丈夫!?」
気分の悪さが体内を駆け巡り、地面が回るように視界が歪んでいる。
「エリシア、ごめんね。」
ユリウスはそう声をかけると、私を抱き上げてどこかへ運んでいる。彼の綺麗な顔には汗が伝い、真剣な横顔が見えた。
「ごめんね、もう少しだから。」
呼吸を落ち着けようと思えば思う程、悪い考えが頭の中に浮かんで酷くなっていく。それが分かっているのに、自分の体が自分のものではないみたいに制御が効かないのだ。
女性の声と消毒の独特な匂いに、医務室へ連れてこられたのだと悟った。
ユリウスから引き剥がそうとする手が、騎士の手を思い出させる。分かっている。この人達は違う。分かっているのに怖いのだ。
「ゆっくり息をして。」
「声が聞こえる?」
伸びてくる腕が何か言っているが、分からない。
「嫌だ。嫌だっ!……捨てないで。」
違う。もうあの人たちは私の人生と関係ない。それなのに喉が塞がり、呼吸が乱れる。
必死にユリウスに縋り付く私へ、周りが困惑しているのが分かる。それでもやめられない。
あの冷たい緑の瞳が。
私を嘲笑うオレンジ色が。
「……怖い。怖いの。」
小さく小さく呟いた声は、誰かに聞こえたのだろうか。
すると、ふわっと頭を撫でられる感覚がして、大きく息を吸った。
膝を床について私を抱えたユリウスは、そっと私を支えて頭を撫でる。
「大丈夫だよ。大丈夫。僕がいるからね。」
優しい声にぎゅっとユリウスの服を握った。
ユリウスの私を支える手が強くなるのが分かる。
「ゆっくり息をするんだ。」
撫でる手に合わせるように呼吸を繰り返す。
「はぁ、はっ、……ふっ、……はぁ。」
「うん、いい子だね。大丈夫だよ。そばに居るからね。」
朦朧とする意識の中、ユリウスの優しい声だけが響いていた。私を撫でてくれる大きな手が、抱き寄せられ感じるユリウスの香りが、私を慰めてくれているようで。
安心してしまったのか、気がついたら私はベッドの上で眠ってしまっていた。目を開けると、ぼんやりとしながら体を起こす。
「気がついた?」
「……あ。」
医師である女性に話しかけられ、迷惑をかけてしまったことを思い出した。
「……ご迷惑を、おかけしました。」
私がそう言うと、「大丈夫、大丈夫」と軽く笑っている。
「あの子にお礼を言うといいわよ。」
「あの子?」
私が聞き返すと、カラカラと元気に笑って言った。
「運んできてくれた子よ。恋人かしら?優しい子ね!」
「……え、いや、ちが。」
私が否定するよりも先に医務室のドアが開き、ユリウスが見えたことで言葉に詰まる。
「エリシア!……良かった。もう大丈夫かい?」
私に駆け寄り、どこか異常はないかというように確認している。顔を両手で挟まれ、身動きが取れない。
「こらこら。近いわよ。」
教員に見られていることを思い出したのか、彼の手がパッと離れていく。
「どうする?もう少し休んでいく?」
彼女の言葉に帰ると告げようとすると、ユリウスが「はい」と返事をした。
苦笑した教員は、そのまま「私は会議があるから出るけど、あまり遅くまでいないようにね」とだけ残してドアから出ていった。
静まり返った部屋で、ユリウスはベッドのそばにある椅子にゆっくりと腰をおろす。
「……あ、えっと、ごめんなさい。」
私が小さく言うと、ユリウスは首を傾げる。
「え?なにが?」
「いや、迷惑かけたじゃない。」
きょとんとした彼に視線を落としながら呟く。
いきなりあんな事になって困惑しただろう。それなのに、丁寧に介抱してくれ、優しく言葉をかけてくれた。
「迷惑じゃないよ?エリシアが頼ってくれたのが僕でよかった。」
ユリウスの安心したかのような笑顔を見て、私はなぜだか泣きたくなった。
──そんな優しい彼を信じたい。そう思った。




