九章
月曜の朝。音大付属ホールの屋外掲示板に貼られた予定表が、朝露に濡れている。
高橋司は、校舎裏手の職員通用口でIDを提示し、守衛に軽く会釈して構内へと足を踏み入れた。
この大学には事件当日、関係者が集まっていた。今も在籍中の者もいれば、卒業後もこの施設に出入りしている者もいる。
そして今日——司が会おうとしているのは、そのどちらでもある存在だった。
朝比奈 結花。
ピアニストとしての実力は折り紙付きで、昨年の卒業公演でもソロを務めた才媛。
現在は大学院生として研究室に籍を置きつつ、音大主催の演奏会にも参加している。
司は音楽棟のロビーを抜け、ガラス張りの廊下を歩く。壁越しに見えるレッスン室では、学生たちが個人練習をしている。ピアノの断片的な旋律が廊下にまで漏れてくる。
彼女の研究室は、その奥の突き当たり——静まり返った一角にある。
ノックの音が、微かに反響した。
「どうぞ」
中から返ってきたのは、控えめながらも澄んだ声だった。
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部屋に入ると、譜面台の横に一人の女性がいた。
黒のハイネックに、タイトなグレーのスカート。
髪は肩より少し下で切り揃えられており、化粧は薄いが、どこか強さを感じさせる顔立ちだった。
朝比奈結花は、高橋を見るなり軽く頭を下げた。
「刑事さん……でしたよね。前にもお会いしましたけど」
「高橋司です。捜査の一環として、改めてお話を伺いたくて。
芹沢さんの件で、当日あなたが最後に彼と会った可能性があると聞いています」
朝比奈はほとんど表情を動かさず、椅子に腰かけた。
その動作はゆっくりで、まるで舞台の上の一幕のように、無駄がなかった。
「最後に会った……というのは、どういう意味ですか?」
「証言があるんです。演奏会の終演直後、楽屋の裏手であなたが芹沢さんと口論していたと」
朝比奈は眉をわずかにひそめたが、それ以上は何も語らなかった。
司はその沈黙を見逃さなかった。
「朝比奈さん。あなたは芹沢さんに、何を言いました?」
部屋の中の空気が変わった。
冷たいものが、床から這い上がってくるような感覚。
彼女は、譜面台に置かれた一枚の楽譜に目を落とした。
それから、静かに答えた。
「“これ以上は許さない”——たしかに、そう言いました」
「それは、どういう意味で?」
「私の後輩に、彼は手を出そうとしていた。正確には、もう既に……彼女は何度も断っていたのに、食い下がられた。演奏のたびに、二人きりになれる機会を演出されていたと聞いています」
「それは、渡辺玲奈さんのことですか?」
その名が出た瞬間、朝比奈の瞳が初めて大きく揺れた。
「……彼女が言ったんですか?」
「彼女は、あなたを名指しで証言しました。ただ、あなたを“犯人だ”とは言っていません。
あくまで、芹沢さんとあなたの間に何らかの“最後の対話”があったと」
朝比奈は長く息を吐いた。
「玲奈は、嘘はつけない子です。だからこそ……私は彼女を守りたかった」
「あなたは、芹沢さんの元恋人だったという話もある」
「ええ。もう随分前のことですけど。でも、あの人は……忘れないんです。
“かつて自分に従った者”を。所有物のように記憶する。
玲奈があの人の“好み”だと気づいたとき、背筋が凍りました」
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沈黙が二人の間に広がった。
司は、言葉を選ぶように口を開いた。
「事件当日の夜。あなたは演奏後、どこに?」
「私は……」
朝比奈の言葉が、そこで止まった。
「……一度、ホールを出ました。でもすぐ戻ってきた。空気が必要だったから。
でも、戻ってきたときにはもう、芹沢さんはいませんでした。楽屋も、廊下も」
「誰か、見ていた人は?」
「いません。私が出たときも、戻ったときも、あの一角は無人でした」
司は眉を寄せた。
つまり、彼女には“完璧な空白時間”があるということ。
——もし朝比奈が犯人なら、ここが犯行可能なタイミングになる。
だが、彼女の口ぶりに嘘は見られない。そう思わせるほど、冷静で整っていた。
「あなたは、誰かを庇っていますか?」
司の問いに、朝比奈は静かに目を伏せた。
指先が震えていた。だが、その震えを彼女自身が見せることはなかった。
「庇っていません。ただ、信じているだけです。
……彼女は、そんなことをする人じゃない。
私は彼女の音を、間近で聴いてきたからわかります。あんな純粋な旋律を奏でる人が、人を殺すなんてこと、絶対にありえない」
「玲奈さんのことですね」
朝比奈は、微かに頷いた。
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研究室を出た後、司は階段を降りながら、胸の内に鉛のような重みを感じていた。
朝比奈は間違いなく何かを知っている。
だがそれは、自分が刑事であるという肩書きだけでは届かない場所にあった。
“信じているからこそ、語らない”。
その強さは、時として最も厄介な“沈黙”を生む。
そしてその沈黙が、真実を隠してしまうとき——
それでも、信じることができるのか。
警察という立場を超えて、一人の人間として。
司の脳裏に浮かんだのは、昨夜の玲奈の姿だった。
——私を、信じてますか?
あの言葉は、ただの問いではなかった。
どこか、自分自身への“預けられた希望”のように感じられたのだ。
足を止めると、窓の外に陽が差し込んでいた。
夏が近づいている。
事件も、そしてこの想いも——結末に向かって、ゆっくりと動き始めていた。
夜のキャンパスは昼とは別人のように静まり返っていた。人工の照明が地面に幾つもの影を落とし、風が生垣をわずかに揺らしている。高橋司は、渡辺玲奈が通う音楽大学の裏手にある小道に足を踏み入れていた。取調室では引き出せなかった“沈黙の証言”を、彼は現場に赴くことで探ろうとしていた。
玲奈の部屋には当然のごとく監視がつけられている。尾行ではなく、静かな観察。彼女の生活に不審な点がないかを確認するためだ。だが、今夜、司が見に来たのは別の目的だ。玲奈とともに在籍していたある教授の研究室に、未確認の資料が残っているという匿名の通報が入った。
それは、おそらく誰かが「伝えたがっている」。口では語らずとも、何かを“沈黙”のまま証言しようとしているのだ。
校舎の扉は施錠されていたが、事前に管理課から許可を得ていたため、鍵はすでに警務室で借りていた。司はためらわずに鍵を差し込む。重い音とともに扉が開き、ひんやりとした空気が顔を撫でた。
階段を上り、3階の研究室へ。扉の前で一度足を止め、深く息を吸う。中は真っ暗だが、廊下の非常灯が室内にわずかな明かりを漏らしていた。備え付けの資料棚に目をやると、開いたままのファイルが一冊、机の上に置かれている。
それは、玲奈が指揮者・香坂雅人の元で演奏した最後のコンチェルトに関する評価資料だった。教授が個人的に記したメモも含まれている。
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《渡辺玲奈の演奏は、技術面で申し分がないが、“何か”が足りない。それは恐らく、自身の中にある真実への誠実さだ。》
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この一文に、高橋の背筋がわずかに震えた。
“自身の中の真実への誠実さ”。
それはまるで、玲奈の心の中にある何かが、演奏という形でにじみ出ていることを意味していた。
「香坂の評価じゃない……教授自身の言葉か」
ふと机の引き出しを開けると、破りかけの手紙の断片が見つかる。走り書きのような筆跡で、こう記されていた。
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《香坂との個人レッスンの件、あの子には……もう限界かもしれない。》
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限界。なぜその言葉が選ばれたのか。
レッスンと限界。そこにあるのは、ただの指導ではなく、何かを押し付けられていた痕跡かもしれない。
司の脳裏に浮かぶのは、玲奈のあの目だ。取調べ中、あえて言葉を省き、無表情でこちらを見返していた瞳。その奥に、まだ誰にも見せていないものが沈んでいた。
香坂との関係は単なる師弟関係ではなかった。いや、そうではなければ、玲奈のあの沈黙は説明がつかない。彼女が語らないのは、何かを隠しているからではなく、語るに足る言葉を持ち得なかったからではないか。
だが——それは真実を覆い隠すことではない。
事実は変わらない。
彼女が犯人である可能性を、否応なく裏づけてゆくものたちが、こうして少しずつ、高橋の足元に積もっていく。
ふと、スマートフォンが震えた。管理課からの連絡かと思って画面を見ると、玲奈からのメッセージだった。
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《今夜、少しだけ、お話できますか》
《あのホールの舞台裏で——一人で行きます》
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司は一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に囚われた。
なぜその場所を選んだのか。
あの殺人が起きた、舞台裏。
自ら火に飛び込むような言葉に、彼女の覚悟が滲んでいた。
そのとき、司は悟った。
玲奈は、これから“語る”つもりなのだ。
自分の言葉で、真実を。
静かに研究室を出る。
彼女が最後に選んだ舞台へ——司は歩き出した。