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八章

 真夜中、都心の空は雲に覆われていた。街灯の灯りが濁った夜気に滲み、濡れたアスファルトに青白く反射する。


 高橋司は警視庁の一室に一人残り、机上の資料を睨んでいた。

 譜面、証言記録、関係者の経歴、過去のトラブル。どれも断片的で、明確な線に結びつくものがない。

 だが、その断片が“意図的に散らされている”ような違和感だけは確かにあった。


 芹沢一樹の死は、単なる衝動や怨恨に基づくものではない。

 むしろ冷静に仕組まれ、完璧な演奏のように、最初から最後まで調律された何か。

 ——音楽と同じく、この事件にも“作曲者”がいる。


 司は机の上に置かれた封筒を手に取った。

 そこには芹沢の個人ロッカーから押収されたもう一枚の譜面が封入されている。

 紙の隅に、細い万年筆の字でこう書かれていた。


《Molto rubato.(非常に自由に)》


 先に発見された譜面《死は変奏を許さない》とは対照的な指示だった。

 “変奏は許さない”の後に、“自由に”。

 まるで二つの譜面は対になっているかのように、音楽的な意味以上の“物語”を語っていた。



 翌朝、司は音大の附属資料室を訪れた。

 学内には芹沢が寄贈した資料や、過去の演奏会の録音記録が保管されている。


 対応した女性職員は若く、どこか緊張した面持ちで司を資料棚の前に案内した。


 「このあたりが芹沢先生の関連資料です。指揮ノートや録音、手書きのスコアなどがありますが……」


 司は棚を見上げた。埃をかぶったファイル群の隙間から、ふと、一冊の黒革のノートが目についた。

 背表紙に金の文字でこう記されていた。


《Con affetto(愛情を込めて)》


 彼は手袋越しにそのノートを取り出し、慎重にページを捲った。

 そこには演奏会の日付と指揮の構成、各奏者への個人的なコメントが細かく記録されていた。


「Vn. 渡辺玲奈:技巧は非の打ちどころがない。だが——今夜の彼女は何かを隠していた。音が嘘をついている。」


 ページをめくるたびに、司の胸に妙な熱が灯っていく。

 玲奈の名前は、何度も何度も、他の奏者とは異なる文体で記されていた。

 “彼女の音は、私を打ちのめす”

 “もう二度と、あんな演奏には立ち会えない気がする”

 “私のタクトは彼女を自由にし、同時に縛っている”


 芹沢の言葉には、恐ろしいまでの執着が滲んでいた。

 そして同時に、玲奈にとっても彼はただの指揮者ではなかったことを思わせる。



 午後、高橋司は意を決して玲奈に電話をかけた。


 「……もしもし」


 受話器の向こうから聞こえた声は、少し寝起きのように低かった。


 「ああ、すまない。突然——今、大丈夫か?」


 「はい……いいですよ。高橋さん、今どこに?」


 「君の演奏を聴いたホールの近く。少し、話をできないかと思って」


 「……いいですよ。じゃあ、30分後にあの楽器店の前で」



 街の片隅、小さな楽器店の前には、冬の陽が斜めに差し込んでいた。

 玲奈はコートの襟を立て、バイオリンのケースを傍らに置いて立っていた。

 風が髪を揺らし、眉の影が目元を暗くする。


 「ありがとう。急に呼び出して——」


 「いいえ、わかってました。きっと、いつかまた……こうして、何かを問われる時が来るって」


 玲奈はゆっくりと顔を上げ、司の目を正面から見つめた。


 「芹沢さんのこと、話さなきゃいけないですよね」


 司は頷いた。だが、その直前、わずかに目を逸らしそうになった。

 その一瞬に、彼自身も気づいている。


 ——彼女に何かを問うことが、今の自分にとってどれほど痛みを伴うかを。


 「彼の指揮ノートを見た。……そこには君の名前が何度も出てくる。

 彼は、君の演奏に……何か、特別な感情を抱いていたようだ」


 「……ええ。私も、気づいてました。最初から」


 玲奈はそう言って、歩道の縁に腰を下ろした。

 冬の石畳は冷たかったが、彼女は構わず膝を抱え、少し笑った。


 「彼には、音楽以外の何も通じなかった。優しさも、同情も、恋も。

 でも、ある日だけ——彼が私の目を見て、“君の音は美しい”って言ったんです。

 それが、彼の“愛”のすべてだった気がします」


 「……君は、どう思っていた?」


 玲奈は沈黙した。風が吹き、前髪が額を撫でた。


 「怖かった。でも……少しだけ、羨ましかった。あんなふうに何かに没頭できる人間が、私はずっと眩しかった」


 司は、彼女の横顔を見つめた。その横顔は、どこか壊れやすいガラス細工のようだった。

 笑っているようで、泣いているようで、言葉のどこにも“答え”がない。



 その夜、司は録音データを整理していた。


 問題の演奏会前日、リハーサルの記録には、不可解な“空白”が存在した。

 演奏が一時中断され、十数分の無音状態が続いている。

 だが、周囲の関係者は誰もそれを記憶していないという。


 不自然だ。音響エンジニアまで含めて“何もなかった”と口を揃えている。

 録音の欠損か、それとも——編集。


 司は、ある仮説にたどり着いた。


 ——“空白の時間”に、何かが行われたのではないか?


 たとえば、譜面の差し替え。あるいは、毒物の仕込み。

 そしてそれは、ステージのすぐ傍でなければできない工作。


 その場にいられるのは、演奏者、スタッフ、関係者——

 そして、舞台袖で“沈黙していた”ピアニスト。



 高橋司は、無意識に自分の胸に手を置いた。

 鼓動が少しだけ早い。体ではなく、心が反応している。


 彼は気づいていた。


 彼女に対して、もう“疑う”という視点だけでは見られない自分に。


 それは恋か、哀しみか、あるいは救済への希求か——


夜が深まるにつれ、街の音が遠ざかっていく。

 車のエンジン音も、人の足音も、まるで誰かがボリュームを絞ったかのように薄れていった。


 高橋司は、マンションのエントランス前で立ち止まった。

 玲奈の住む部屋はこの上にある。訪ねるべきか、やめるべきか。その境目を、靴音ひとつで揺れていた。


 自分がこのドアの前にいる理由を、心のどこかで理解していた。

 犯人を追うため。それは確かにそうだ。だがそれだけではない。


 彼女の目の奥にある“何か”に、もう一度触れたいという願望があった。

 そして、その奥にもし真実が眠っているのだとすれば、

 自分は——それを暴く者として、どこまで残酷でいられるのか。


 インターフォンに指を伸ばしかけた時、ドアが開いた。

 そこにいたのは渡辺玲奈だった。


 「……来ると思ってました」


 彼女の声は静かだった。温度も抑揚もなく、ただ事実を述べるように。

 だが、その目は確かに揺れていた。どこか遠い嵐を閉じ込めたような瞳。


 「入って、話してくれませんか? そろそろ、全部」



 部屋は驚くほど整っていた。

 小さな観葉植物と、無数の楽譜と、床に直置きされたカップのコースター。

 生活の音は最小限に抑えられているが、孤独の匂いは強く漂っていた。


 「お茶、淹れますね」


 玲奈はキッチンに立ち、電気ケトルに水を注ぎながら尋ねた。


 「警察としての質問なら、今ここで受けてもいいですよ。覚悟は、してるつもりですから」


 司は、彼女の背中を見つめた。すらりとした肩の線。白いワイシャツの襟元に、細い首筋が覗いている。


 そこに触れたくなるほどに、脆く、美しかった。


 「覚悟、か……」


 司は静かにソファに腰を下ろした。


 「君は、何かを知っている。でも、まだ言っていない。それは……誰かを守ろうとしているからか?」


 玲奈はポットから湯を注ぎ、二つのカップを運んできた。

 そして、司の向かいに座ると、ふっと笑った。


 「高橋さんは……私を信じてますか?」


 問いかけの声は、どこか試すようだった。

 司はその瞬間、嘘をつこうとは思わなかった。

 むしろ、真実を隠す方が苦しかった。


 「……信じたい。できれば、ずっと」


 玲奈は目を伏せて、紅茶の表面を見つめた。

 そして、一拍置いて口を開いた。


 「私、芹沢さんに……何度も告白されてました」


 静寂が、カップの縁をなぞるように空気を支配した。


 「最初は敬意でした。でも、だんだん、違うものに変わっていった。

 彼の“愛”は、支配に近かった。音に対しても、人に対しても。

 私は演奏の中で自由でいたかった。でも、彼の指揮の下では……自分が誰かの人形になったようで」


 司は手元のカップに目を落とした。茶の香りが鼻を抜ける。

 玲奈の声が続いた。


 「ある日、私は言ってしまったんです。“あなたの下ではもう演奏できない”って。

 彼は、最初は笑っていました。『冗談だろう』って。

 でも、その夜……私の家の前に来ていた。誰にも言わなかったけど、一度だけ、ドアを叩かれたんです。ずっと、何時間も」


 彼女の手が微かに震えているのに、司は気づいた。

 そしてその震えが、記憶の中の恐怖から来ていることも。


 「演奏会の日、私は……彼に最後の言葉を言いました。『これで終わりにしてください』って。

 でも彼は、それを“拒絶”と受け取った。だから……あの夜、何かが起きるとは思ってました。でも……まさか、死ぬなんて」


 「君は、彼の死に関わっていない?」


 司の声は低く、抑えていた。それでも、問いは明確だった。


 玲奈は黙ったまま、テーブルの下で手を握り締めていた。

 長い沈黙のあと、かすかに首を横に振った。


 「私は、やっていません。でも——あの夜、ある人が芹沢さんと話しているのを見ました。

 楽屋裏で。演奏が終わった直後。あの人、言ってたんです……“これ以上は許さない”って」


 「誰だ?」


 「ピアノの朝比奈さんです」



 名前を聞いた瞬間、いくつかの断片が頭の中で結びついた。

 録音データの“空白時間”、誰にも語られなかった朝比奈の不在、そして舞台裏での沈黙。


 そして——朝比奈もまた、かつて芹沢と“関係”があったと噂されていた人物だった。


 複数の執着、交錯する愛と憎しみ。

 音楽ホールという密室で、それぞれの感情が臨界点に達していたのだ。



 部屋を出ると、冷たい夜風が司の頬を打った。

 階段を下りながら、彼はポケットの中で拳を握った。


 ——彼女は、やっていない。


 そう確信している自分と、警察官としての理性がせめぎ合っていた。

 どちらかを信じれば、どちらかを裏切る。

 その板挟みの中で、彼は歩を止めた。


 空を見上げると、雲間から月が覗いていた。

 薄い光が、都市の夜をうっすらと照らしている。


 高橋司は思った。


 ——あの目を、疑うことができなければ。

 自分はもう、刑事ではいられないのかもしれない。


 それでも。

 それでも、彼女を見送った時の横顔が、今も胸に焼き付いて離れない。


 まるで誰かの旋律が、ずっと心の奥底で鳴り止まずにいるようだった。


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