表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

七章

 通しリハーサルの日。

 音楽ホールの控室に入ると、空気がぴんと張り詰めていた。


 午前九時を回ったばかりのホールには、演奏家たちの気配が次第に満ちつつあり、廊下には足音と譜面をめくる紙の音、咳払いすらもやけに生々しく響いていた。


 高橋は主催側から“観察”という名目で呼ばれ、袖口に来賓バッジを下げながらステージ裏に入った。監視とは言え、ただの傍観者にすぎない。


 ホール内の照明はやや落とされ、ピアノの前にポツンと一人、渡辺玲奈が座っていた。

 他の演奏者たちはまだ自分の持ち場で調整をしているのだろう、会場内には彼女の存在だけが際立っている。


 玲奈は無言で鍵盤を見つめていた。

 爪先に意識を集めるように、肩は動かず、背筋だけが妙に真っすぐだった。


 高橋は袖に寄りかかりながら、思い出す。

 彼女が中庭で言った、「信じていても、何も変わらない」という言葉。


 演奏前のこの静寂——ある種の祈りにも似た空間が、まるでその言葉の答えを内に秘めているように感じられた。



 リハーサルが始まった。


 曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。

 芹沢が選んだ、そして今回の演奏会の中心となるはずだったプログラムだ。


 だが、指揮者を失った今、代役として立つのは副指揮者の市村信吾。40代後半、真面目で堅実な男だが、演奏者の間では“物足りない”と囁かれている。


 タクトが下りると、音が一気にホールを満たす。

 玲奈の指が鍵盤を駆け、冷たい雨のように旋律を叩き出す。だが、どこか微かに——“よそよそしい”。


 技術は完璧だった。

 ミスタッチもない。テンポも正確。表現も非の打ち所がない。


 けれど、どこか違っていた。あの夜の、あの芹沢の眼差しを受けて、まるで命を削るように奏でられた音が、今はどこにもなかった。


 まるで魂を閉ざしたピアノだった。


 高橋はふと、舞台袖に控えていた音大職員のひとりに声をかけた。


 「副指揮の市村さん、もともと芹沢と仲が悪かったと聞いていますが……」


 職員は一瞬目を泳がせたが、思い切ったように言った。


 「芹沢さん、気に入らない演奏者にはとことん厳しかったですから。玲奈さんの演奏にも、彼はいつも『音が綺麗すぎる』って……皮肉のように言ってました。けれど——」


 「けれど?」


 「……市村さんには、表立っては何も。でも、たまにね、練習が終わったあと廊下で、芹沢さんが何か耳打ちしてたのを見ました。あれは、怒鳴るような話し方じゃなかった。……脅すような、囁きっていうか」


 高橋はその言葉を胸にしまった。

 芹沢は玲奈だけでなく、他の誰かにも“握っていた”秘密があるのかもしれない。



 リハーサルが終わり、控室に戻った高橋は、玲奈の楽屋に呼ばれた。


 ノックして扉を開けると、玲奈が椅子に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 明るい昼の光が彼女の肩を斜めに照らしている。


 「来ると思った」


 玲奈は振り返らずに言った。


 「何か——気になることがあったんですか?」


 「私の音、変でした?」


 「……変じゃない。完璧でした。ただ——」


 「何も感じなかったでしょう」


 玲奈が、ようやくこちらを向いた。

 その表情には笑みがあったが、目は空っぽだった。


 「今日の私は、ただの人形。指だけが動いて、心はどこにもなかった」


 「芹沢を、まだ許していない?」


 「許すも何もない。ただ、終わったの。あの人がいなくなって、もう何も始まらないだけ」


 玲奈は立ち上がると、小さな譜面ファイルを取り出して差し出した。


 「これは?」


 「私のものじゃない。昨日、ピアノ椅子の下に落ちてた。開いて驚いた——あなたも見たほうがいい」


 高橋は慎重に受け取る。

 譜面は破れていて、端に赤いインクで走り書きがあった。


 《死は変奏を許さない》


 譜面自体は芹沢の手癖と一致している。奇妙な構成、符号、そして意味を持たない記号たち。

 そのすべてが、何かの「暗号」のようにしか見えなかった。


 「これ……他に見た人は?」


 「いないと思う。先生がこれをどこに使おうとしてたのかも、知らない。けど、見つけたとき、なんだか寒気がしたの」


 玲奈は震える声で言った。

 その声には、演奏者ではなく、一人の“普通の人間”としての恐れが滲んでいた。



 高橋は譜面を手に、黙って頷いた。

 そして玲奈が背を向けたとき、彼女の指先がわずかに震えているのを見た。


 “本当に彼女は知らないのか? それとも、何かを伏せているのか?”

 疑念と同時に、抑えきれない感情が胸に広がる。


 彼女のために、この事件を終わらせたい——

 そう願っている自分が、確かにここにいる。


控室を出た高橋は、すぐにホールの事務局を通じて音楽学の専門家に譜面のコピーを送った。

 《死は変奏を許さない》という言葉が刻まれたその紙切れには、ただの譜面以上の“意図”が潜んでいるとしか思えなかった。


 ただの走り書きとは思えない。芹沢一樹という人物は、常に音楽の内と外に“意味”を込める男だった。

 そして、言葉にできない感情や警告を、譜面に封じることを好んでいた。



 昼過ぎ、高橋は副指揮者・市村信吾の控室を訪ねた。


 「突然すみません、少しだけお時間をいただけますか」


 市村は譜面台に指をかけたまま、緩慢に顔を上げた。黒縁の眼鏡の奥、目だけがやけに鋭く光っていた。


 「警察の方ですか。……ええ、構いませんよ。リハーサルがあまりにも酷かったもので、今は落胆の最中です」


 「芹沢さんと、普段どのような関係だったのか。改めて伺っても?」


 「同じ舞台に立っていた、という点では……同志だったと言えるかもしれません。ただし、私にとって彼は常に“壁”でしたよ。高すぎる、越えられない壁」


 声には皮肉とも諦めともつかぬ響きがあったが、それ以上は語ろうとしない。


 「芹沢さんが亡くなる前、何か異変に気づいたことは?」


 「異変、ですか」


 市村は口元に手を添え、考えるふりをした。


 「……そうですね、あれは三日前の夜、最後の全体練習のあと。彼は一人、ステージに残っていました。真っ暗なホールの中で、なぜか誰もいない方向に向かって話しかけていた」


 「話しかけていた?」


 「ええ、相手の姿は見えませんでした。ですが、彼の声には確かに怒りが含まれていた。口論の相手がいたとすれば……誰かが、黙って近づき、そして去っていったのかもしれません」


 「相手が誰か、見当は?」


 「さあ。思い当たる人間が多すぎて、特定できませんね」


 市村は苦笑しながら言ったが、その目には奇妙な怜悧さが宿っていた。



 ホールのロビーに戻ると、玲奈が一人、ロッカーの前に立っていた。

 すれ違う演奏者の誰にも目を向けず、ゆっくりとマフラーを首に巻いていた。


 「渡辺さん」


 声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。


 「……もう聞きました? 譜面のこと」


 「分析結果はまだですが、少なくとも、芹沢さんが“誰か”に向けて書いた可能性は高い。君にではなく、他の誰かに——」


 玲奈の目がわずかに揺れた。


 「彼は、敵が多かったですからね。あんなに人の心を無視するような指導をしていたら……」


 「でも、君は嫌いじゃなかった。彼の音楽を、」


 高橋が言葉を選びかけたその瞬間、玲奈がかぶせるように言った。


 「……“音楽”だけは、ね。あの人の人間性は最悪だった。でも、あの人のタクトに合わせて弾いているときだけ、私は私じゃなくなる。音だけの世界に沈んで、自由になれる気がした」


 高橋はその言葉に、どこか自身の感情の原型のようなものを見た。

 彼女は、感情を“断ち切って”鍵盤にのせる。

 音に身を投じ、記憶を水面のように揺らしている。


 だからこそ、事件後のリハーサルでは——あの“自由”が消えていたのだ。



 事務所に戻る途中、高橋は音大時代の芹沢に詳しい関係者の証言を確認した。

 その中で、芹沢が何年も前から“裏帳簿”のようなものを持ち、演奏者の弱みや過去の出来事を記録していたという話が浮上した。


 脅しの材料か? それとも保険か?

 譜面に残された奇妙な言葉も、その一環かもしれない。


 《死は変奏を許さない》


 この言葉が意味するものは、単なる“死の不可逆性”ではない。

 「誰かの死」には、決して変奏——つまり“改ざん”や“偽装”は通じないという警告ではないのか。


 ならば、この死は「変奏」されたもの、つまり誰かが“意図して改変した死”だということになる。



 その夜。

 帰路の途中、高橋は玲奈の名を携帯電話の画面に見つめながら、通話ボタンを押さずにいた。


 彼女に聞かなければならないことがある。だが、同時に——

 今、声を聞けば、追及の言葉を選び損ねてしまいそうだった。


 気づいている。

 彼女に向ける視線が、すでに職務のそれだけではないことを。


 呼吸の間に、風が抜ける。


 夜の歩道には、譜面の余白のような静けさが降りていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ