七章
通しリハーサルの日。
音楽ホールの控室に入ると、空気がぴんと張り詰めていた。
午前九時を回ったばかりのホールには、演奏家たちの気配が次第に満ちつつあり、廊下には足音と譜面をめくる紙の音、咳払いすらもやけに生々しく響いていた。
高橋は主催側から“観察”という名目で呼ばれ、袖口に来賓バッジを下げながらステージ裏に入った。監視とは言え、ただの傍観者にすぎない。
ホール内の照明はやや落とされ、ピアノの前にポツンと一人、渡辺玲奈が座っていた。
他の演奏者たちはまだ自分の持ち場で調整をしているのだろう、会場内には彼女の存在だけが際立っている。
玲奈は無言で鍵盤を見つめていた。
爪先に意識を集めるように、肩は動かず、背筋だけが妙に真っすぐだった。
高橋は袖に寄りかかりながら、思い出す。
彼女が中庭で言った、「信じていても、何も変わらない」という言葉。
演奏前のこの静寂——ある種の祈りにも似た空間が、まるでその言葉の答えを内に秘めているように感じられた。
⸻
リハーサルが始まった。
曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
芹沢が選んだ、そして今回の演奏会の中心となるはずだったプログラムだ。
だが、指揮者を失った今、代役として立つのは副指揮者の市村信吾。40代後半、真面目で堅実な男だが、演奏者の間では“物足りない”と囁かれている。
タクトが下りると、音が一気にホールを満たす。
玲奈の指が鍵盤を駆け、冷たい雨のように旋律を叩き出す。だが、どこか微かに——“よそよそしい”。
技術は完璧だった。
ミスタッチもない。テンポも正確。表現も非の打ち所がない。
けれど、どこか違っていた。あの夜の、あの芹沢の眼差しを受けて、まるで命を削るように奏でられた音が、今はどこにもなかった。
まるで魂を閉ざしたピアノだった。
高橋はふと、舞台袖に控えていた音大職員のひとりに声をかけた。
「副指揮の市村さん、もともと芹沢と仲が悪かったと聞いていますが……」
職員は一瞬目を泳がせたが、思い切ったように言った。
「芹沢さん、気に入らない演奏者にはとことん厳しかったですから。玲奈さんの演奏にも、彼はいつも『音が綺麗すぎる』って……皮肉のように言ってました。けれど——」
「けれど?」
「……市村さんには、表立っては何も。でも、たまにね、練習が終わったあと廊下で、芹沢さんが何か耳打ちしてたのを見ました。あれは、怒鳴るような話し方じゃなかった。……脅すような、囁きっていうか」
高橋はその言葉を胸にしまった。
芹沢は玲奈だけでなく、他の誰かにも“握っていた”秘密があるのかもしれない。
⸻
リハーサルが終わり、控室に戻った高橋は、玲奈の楽屋に呼ばれた。
ノックして扉を開けると、玲奈が椅子に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。
明るい昼の光が彼女の肩を斜めに照らしている。
「来ると思った」
玲奈は振り返らずに言った。
「何か——気になることがあったんですか?」
「私の音、変でした?」
「……変じゃない。完璧でした。ただ——」
「何も感じなかったでしょう」
玲奈が、ようやくこちらを向いた。
その表情には笑みがあったが、目は空っぽだった。
「今日の私は、ただの人形。指だけが動いて、心はどこにもなかった」
「芹沢を、まだ許していない?」
「許すも何もない。ただ、終わったの。あの人がいなくなって、もう何も始まらないだけ」
玲奈は立ち上がると、小さな譜面ファイルを取り出して差し出した。
「これは?」
「私のものじゃない。昨日、ピアノ椅子の下に落ちてた。開いて驚いた——あなたも見たほうがいい」
高橋は慎重に受け取る。
譜面は破れていて、端に赤いインクで走り書きがあった。
《死は変奏を許さない》
譜面自体は芹沢の手癖と一致している。奇妙な構成、符号、そして意味を持たない記号たち。
そのすべてが、何かの「暗号」のようにしか見えなかった。
「これ……他に見た人は?」
「いないと思う。先生がこれをどこに使おうとしてたのかも、知らない。けど、見つけたとき、なんだか寒気がしたの」
玲奈は震える声で言った。
その声には、演奏者ではなく、一人の“普通の人間”としての恐れが滲んでいた。
⸻
高橋は譜面を手に、黙って頷いた。
そして玲奈が背を向けたとき、彼女の指先がわずかに震えているのを見た。
“本当に彼女は知らないのか? それとも、何かを伏せているのか?”
疑念と同時に、抑えきれない感情が胸に広がる。
彼女のために、この事件を終わらせたい——
そう願っている自分が、確かにここにいる。
控室を出た高橋は、すぐにホールの事務局を通じて音楽学の専門家に譜面のコピーを送った。
《死は変奏を許さない》という言葉が刻まれたその紙切れには、ただの譜面以上の“意図”が潜んでいるとしか思えなかった。
ただの走り書きとは思えない。芹沢一樹という人物は、常に音楽の内と外に“意味”を込める男だった。
そして、言葉にできない感情や警告を、譜面に封じることを好んでいた。
⸻
昼過ぎ、高橋は副指揮者・市村信吾の控室を訪ねた。
「突然すみません、少しだけお時間をいただけますか」
市村は譜面台に指をかけたまま、緩慢に顔を上げた。黒縁の眼鏡の奥、目だけがやけに鋭く光っていた。
「警察の方ですか。……ええ、構いませんよ。リハーサルがあまりにも酷かったもので、今は落胆の最中です」
「芹沢さんと、普段どのような関係だったのか。改めて伺っても?」
「同じ舞台に立っていた、という点では……同志だったと言えるかもしれません。ただし、私にとって彼は常に“壁”でしたよ。高すぎる、越えられない壁」
声には皮肉とも諦めともつかぬ響きがあったが、それ以上は語ろうとしない。
「芹沢さんが亡くなる前、何か異変に気づいたことは?」
「異変、ですか」
市村は口元に手を添え、考えるふりをした。
「……そうですね、あれは三日前の夜、最後の全体練習のあと。彼は一人、ステージに残っていました。真っ暗なホールの中で、なぜか誰もいない方向に向かって話しかけていた」
「話しかけていた?」
「ええ、相手の姿は見えませんでした。ですが、彼の声には確かに怒りが含まれていた。口論の相手がいたとすれば……誰かが、黙って近づき、そして去っていったのかもしれません」
「相手が誰か、見当は?」
「さあ。思い当たる人間が多すぎて、特定できませんね」
市村は苦笑しながら言ったが、その目には奇妙な怜悧さが宿っていた。
⸻
ホールのロビーに戻ると、玲奈が一人、ロッカーの前に立っていた。
すれ違う演奏者の誰にも目を向けず、ゆっくりとマフラーを首に巻いていた。
「渡辺さん」
声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。
「……もう聞きました? 譜面のこと」
「分析結果はまだですが、少なくとも、芹沢さんが“誰か”に向けて書いた可能性は高い。君にではなく、他の誰かに——」
玲奈の目がわずかに揺れた。
「彼は、敵が多かったですからね。あんなに人の心を無視するような指導をしていたら……」
「でも、君は嫌いじゃなかった。彼の音楽を、」
高橋が言葉を選びかけたその瞬間、玲奈がかぶせるように言った。
「……“音楽”だけは、ね。あの人の人間性は最悪だった。でも、あの人のタクトに合わせて弾いているときだけ、私は私じゃなくなる。音だけの世界に沈んで、自由になれる気がした」
高橋はその言葉に、どこか自身の感情の原型のようなものを見た。
彼女は、感情を“断ち切って”鍵盤にのせる。
音に身を投じ、記憶を水面のように揺らしている。
だからこそ、事件後のリハーサルでは——あの“自由”が消えていたのだ。
⸻
事務所に戻る途中、高橋は音大時代の芹沢に詳しい関係者の証言を確認した。
その中で、芹沢が何年も前から“裏帳簿”のようなものを持ち、演奏者の弱みや過去の出来事を記録していたという話が浮上した。
脅しの材料か? それとも保険か?
譜面に残された奇妙な言葉も、その一環かもしれない。
《死は変奏を許さない》
この言葉が意味するものは、単なる“死の不可逆性”ではない。
「誰かの死」には、決して変奏——つまり“改ざん”や“偽装”は通じないという警告ではないのか。
ならば、この死は「変奏」されたもの、つまり誰かが“意図して改変した死”だということになる。
⸻
その夜。
帰路の途中、高橋は玲奈の名を携帯電話の画面に見つめながら、通話ボタンを押さずにいた。
彼女に聞かなければならないことがある。だが、同時に——
今、声を聞けば、追及の言葉を選び損ねてしまいそうだった。
気づいている。
彼女に向ける視線が、すでに職務のそれだけではないことを。
呼吸の間に、風が抜ける。
夜の歩道には、譜面の余白のような静けさが降りていた。