六章
午前九時。雲ひとつない快晴だった。
けれど高橋の視界は、朝からどこか霞がかっていた。昨晩、玲奈の演奏を思い出していたせいかもしれない。
あの夜、ステージに立つ彼女は完璧だった。技術も、表現も、集中力も。だがその完璧さが、逆に彼女をどこか別の世界に閉じ込めているようにも見えた。
「ここ、です」
若い助手が指さした部屋は、音大の一角にある防音練習室。芹沢正樹が最後に使っていた部屋だった。
ドアには番号の代わりに、銀のプレートに「MAESTRO」とだけ彫られている。
鍵を受け取り、中に入ると、一瞬で空気が変わった。
密閉された静寂。音を飲み込む壁。窓はなく、電子ピアノと譜面台、椅子がひとつだけ。
部屋の中央に、埃をかぶった黒い譜面台が立っていた。まるで独り舞台の主人公のように。
「遺品は既に遺族へ渡したと聞いていますが?」
高橋が訊ねると、助手は小さく頷いた。
「はい。ただ、この部屋だけは学内の調査が終わるまで封鎖されていたので……誰も手をつけていません。昨夜、別件で資料整理していたら、偶然この鍵が出てきたんです」
ピアノの下に、厚紙のファイルが挟まっていた。高橋が手袋越しに引き抜くと、中には何枚かの譜面が雑然と詰め込まれていた。
古い五線紙。ところどころコーヒーの染みがあり、鉛筆で書かれたメモもあちこちに残っている。
その中の一枚、端がちぎれている譜面に目が留まる。見慣れない記譜法。小節が不自然に飛び、構成も定まらない。旋律が、まるで迷子のように彷徨っていた。
「これ……何かのスケッチでしょうか?」
助手は首を傾げた。
「作曲科の学生が見るには、かなり粗雑ですね。ですが、これは——おそらく未完成の新曲かと」
高橋はそれをファイルに戻し、丁寧に持ち帰るよう指示を出した。
⸻
午後。警視庁のオフィスに戻ると、机の上に分厚い封筒が置かれていた。
「芹沢正樹に関する過去の告訴歴と民事係争履歴」と書かれている。
中身には、一通の古い告発文が含まれていた。文面は匿名で、数年前のものだ。
>「彼は、自らの権威を笠に着て、若い才能を囲い込む。拒めば舞台から降ろされる。受け入れれば、心がすり減るだけ——」
名前も署名もない。だが文章の癖、筆跡の特徴に、かすかな既視感を覚える。
それが何に似ているのか、すぐには言語化できなかった。
⸻
日が傾きかけたころ、玲奈が一人で練習室を出てくるのを偶然見かけた。
黒のロングスカートに、襟の詰まったシャツ。周囲の学生たちとは違い、どこか季節感から浮いている。
「渡辺さん」
声をかけると、玲奈は立ち止まり、驚いたように振り返った。
「——刑事さん?」
「今日はたまたま、です」
言い訳がましい言葉だったとすぐに後悔した。だが彼女は微笑んだ。
「この大学、意外と広いですからね。偶然って、案外あるものです」
淡々とした口調だが、声の奥には疲れが滲んでいた。演奏の後遺症か、あるいは彼女なりの葛藤か。
「ちょっと、散歩でもしませんか。学内、案内してくれますか?」
高橋の申し出に、玲奈は意外そうに眉を上げたあと、小さく頷いた。
⸻
音楽棟の裏手に、小さな噴水のある中庭があった。
ベンチに座りながら、二人はしばらく無言で風に耳を澄ませた。午後五時、鐘の音が遠くで鳴る。
「——あの指揮者、芹沢さんとは、どんな関係だったんですか?」
静かに尋ねると、玲奈は少しだけ視線を落とした。
「個人レッスンを、してもらっていました。先生は……演奏に関して、とても厳しかった。表情を作るな、解釈に逃げるな、って、よく怒鳴られました」
「怖かったですか?」
「怖くは、なかったです。ただ、……たまに、“この人は私を見ていない”って思うことがありました。私の音だけを見ているような……そんな感じ」
玲奈の目が遠くを見つめたまま、淡い色に揺れる。
「音楽って、逃げ場になりますよね。全部、音に閉じ込めれば、何も語らなくて済む。誰にも触れられずにいられる」
その言葉に、高橋は何も返せなかった。
そうだ。彼女は、語らない。
語らないことで、自分を守っている。そして自分は——それを知りながら、彼女に近づこうとしている。
罪の影を疑いながら、心のどこかで、無実であってほしいと願っている。
それが捜査官としてあるまじきことであるとわかっていながら。
「渡辺さん、あなたは——」
言いかけて、言葉が喉に詰まった。
玲奈は高橋の方を見ていなかった。ただ、空に向かって微かに笑っていた。
その横顔に、どこか懐かしさを感じた。
「私、今度弾くんです。あのホールで、芹沢先生の追悼公演を」
「それは……あなたが望んだことですか?」
「ええ。でもたぶん……誰も、私の“本当の演奏”を聴いたことはないと思います。先生も——まだ、聴いていなかったんじゃないかな」
「その演奏で、何かを終わらせるつもりですか?」
玲奈は何も答えなかった。
代わりに、小さく笑っただけだった。その笑みは、言葉より多くのことを語っていた。
警視庁の会議室。窓の外は夕闇に染まり、天井の蛍光灯だけが白々とした明かりを落としていた。
高橋は、広げた譜面の束を前に、目を細めていた。
その向かいに座っているのは、音楽理論講師の郡司靖人——大学で作曲理論を教える中年の教授だ。眼鏡の奥に知性の光を宿しながら、どこか神経質そうな口元をしている。
「これは……明らかに“調性”の崩壊を意識していますね。バルトークや後期シェーンベルク、あるいはクセナキスに似た記譜法です。構造自体が演奏者に自由を与える、“未完成の構成音楽”といえるでしょう」
郡司は譜面を丁寧に指でなぞりながら話した。
「そして注目すべきは——この下部に走る鉛筆の書き込みです。『第五変奏に至らず死す』。これは……異様な文です」
高橋は書き込みの文を読み返した。
『第五変奏に至らず死す』。
この譜面は、変奏形式の途中で終わっている。つまり、未完成。しかもそれが「死」と結びついている。
「作曲したのは、芹沢本人でしょうか?」
郡司は一瞬言葉を飲み込んだように黙ったが、すぐに答えた。
「おそらく、本人ではないかと。ただし、あまりにも“実験的すぎる”。これは実際に演奏することを前提にしていない——どこか、象徴的な意図を含んでいます」
高橋は頷きながら、ふと気になっていた別の点を切り出す。
「もしこの譜面を、芹沢が演奏者に与えていたとしたら?」
郡司はやや顔をしかめた。
「演奏者に? ……いえ、こんな不完全な譜面、現場では使い物になりません。ただし、もし“誰かにだけ”見せていたのだとしたら……」
言葉が濁った。
高橋の脳裏に、玲奈の演奏姿が浮かんだ。あの夜の、息を呑むような集中と、静けさの中に漂っていた“狂気”のような何か。
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捜査資料室に戻ると、部下がひとつの報告書を持ってきた。
「告発文の筆跡、照合が取れました」
白い封筒の中から、一枚の紙が滑り出る。それは、以前に玲奈が高橋に提出した演奏計画書。手書きだった。
告発文との筆跡は、部分的に一致していた。
正確には、「書かれた癖が極めて近い」とされた。
高橋は何も言わずに、ゆっくりと紙を折りたたむ。
もし玲奈が告発者ならば——彼女は芹沢の“裏側”を、すでに知っていたのかもしれない。
そしてそれでも彼の下で演奏し続けていた。何のために? 演奏の機会のため? 復讐の機会のため?
それとも——愛していたから?
⸻
その夜、高橋は再び大学の中庭を訪れた。人影はなく、木々のざわめきだけが耳に届く。ベンチに座ると、遠くからゆっくりと足音が近づいてくる。
玲奈だった。まるで、この場所が約束されたかのように。
「刑事さん……またここで?」
「偶然、です。あなたこそ」
彼女は少しだけ笑った。
「私、最近よくここに来ます。演奏の前って、緊張するんです。風の音を聴いてると、少しだけ、心が楽になるから」
高橋は沈黙したまま、彼女の横に座った。どちらからともなく、距離は前よりも近くなっていた。
「玲奈さん——」
名前を呼んだ瞬間、彼女の肩が微かに震えた。
「あなたは……芹沢の何を、知っていたんですか?」
玲奈は視線をそらさなかった。むしろ、高橋の目をまっすぐに見て答えた。
「全部です。だから、私は逃げられませんでした。演奏の機会をもらって、批判もされて、叱られて、でも……彼の音楽が嫌いじゃなかった。歪んでいたけど、心の底に何かがあると信じたくて」
「信じていたんですね」
「ええ。……でも信じたからって、何も変わらないってこともある」
夜風が吹き、玲奈の髪が頬をかすめた。
高橋はふと、自分の右手が無意識に拳を握っていたことに気づいた。
罪を疑うべき相手を前にして、心が逸れる。警察官として致命的な欠陥——だが、もう否定できなかった。
彼女が無実であってほしいと思っている。根拠もなく、願っている。
⸻
玲奈が立ち上がった。
「明日、通しリハーサルがあります。来ますか?」
「……仕事でなければ、ね」
「ふふっ、じゃあ、仕事で呼びます」
そう言って、彼女は歩き出した。
去り際、高橋のほうを一度も振り返らなかった。けれど、その背中には——
何かを終わらせようとしている人間の静けさがあった。
高橋はその場に取り残されたまま、夜空を見上げた。
美しく透き通っている夜空に浮かぶ星は街灯の灯りで見つけることができなかった