五章
音大の学長室は、キャンパスの奥まった建物の最上階にあった。
窓からは、白い校舎の屋根と、遠くに霞む都心のビル群が見渡せる。
部屋の中央に据えられた一枚板の長机は、年季の入ったマホガニー材で、どこか西洋の修道院を思わせる重厚さがあった。
その机の向こう側に、年の頃七十近い学長・堀内正邦が静かに腰掛けていた。
「お忙しい中、申し訳ありません。……警部補殿」
堀内は落ち着いた口調で言いながらも、声にはかすかな震えがあった。
それは年齢ゆえのものか、あるいは――彼自身の内側にある別の動揺か。
高橋は応じるように一礼し、革張りの椅子に腰を下ろした。椅子の沈みが深く、背中が不自然に沈む。
「お話を伺えると助かります。芹沢正樹さんがどのような人物だったか……音大における立場、対人関係、演奏会の直前に何かトラブルはなかったかなど」
堀内は一度、眼鏡を外してハンカチで丁寧にレンズを拭いた。
それは時間を稼ぐような、あるいは言葉を選びかねているような仕草だった。
「彼は……ああ見えて、非常に神経質な男でしたよ。音に関して、いや、音楽というものに関して、妥協が一切ない。妥協しないというのは、一見美徳ですがね、それが周囲との軋轢に直結することもあります」
「具体的に、どのような?」
堀内は眼鏡をかけ直し、机に置かれた白磁のカップを軽く指先で回した。湯気がわずかに揺れた。
「直前の演奏会の選曲も、かなり強引だったようです。教授陣との会議では、バルトークの交響詩を中心に据える案が出ていたのに、彼は突然マーラーの第六を提案した。しかも、それを押し切るかたちで決定させた。反対意見を無視して」
「押し切った……誰が反対を?」
「数人いますが、中心は——副学長の柚月先生です。芹沢君とは、思想的にも個人的にも合わなかったようだ。……ええ、よく対立していました」
柚月弘樹。名前はすでに高橋の調書に記録されている。
音楽理論の大家にして、芹沢が在学していた頃の恩師だった男。だが、恩師といえど関係は険悪だったという噂もある。
「失礼ながら、その“対立”というのは、職務上の意見の違いですか。それとも……」
高橋が言葉を探していると、堀内が先に応じた。
「……個人的な確執。そう見て差し支えありません」
彼の声が、少し低くなった。
「ある時、芹沢君が公開講座で“現代音楽の形式主義はもはや害悪だ”と発言したことがありました。これは柚月先生が長年提唱してきた理論に対する、明確な否定です。学内では、ちょっとした騒ぎになりましたよ」
「公開講座……それは記録が残っていますか?」
「録音はあったはずですが、現在見つかっていません。……不自然でしょう?」
堀内は小さく肩をすくめたが、その表情は冗談のようには見えなかった。
「公開講座に参加していた学生や聴講者の名簿があれば——」
「それも、なぜか紛失しているんです。偶然と言えばそうですが……」
高橋は、メモをとる手を止めた。
事件当夜の現場でも、細かい記録やスコアが抜け落ちていた。
そのとき感じた、説明できない“何か”が、またもここでも顔を出している。
彼は立ち上がりかけたが、ふと堀内に尋ねた。
「芹沢さんと……渡辺玲奈さんの関係について、何かご存知ですか?」
堀内は一瞬、目を細めた。まばたきの間が、ほんのわずかに長い。
「彼女は、彼の“教え子”だった。が……それだけじゃなかったかもしれないね」
「と言いますと?」
「芹沢君は、特定の学生に“私的なレッスン”を行うことがあった。玲奈さんも、何度かその対象だったようです。正規のカリキュラムには含まれない、特別指導というやつです」
「……それは、学内で許可されていた?」
「建前上は、黙認されていました。……ただし、それが“指導”だけだったのかどうか、私には判断がつきかねる」
堀内は淡々とそう言いながらも、声の奥にどこか爪を立てるような鋭さが滲んでいた。
玲奈。
やはり、彼女はこの事件の“外側”にはいない。
高橋は礼を述べて部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼女の横顔を思い出す。
声は落ち着いていた。だが、ほんの一瞬、目の奥に見せた不安。
高橋自身、その不安を“事件の関係者”として見たのか、それとも……“誰かを思う人間”として感じ取ってしまったのか、判断がつかなくなっていた。
階段の踊り場に差し込む午後の光が、床に楽譜のような影を落としていた。
その影を踏みながら、高橋はポケットの中のスマートフォンを取り出し、履歴を遡った。
——玲奈。
あの通話記録。十四秒の、深夜の会話。
何を伝え、何を隠したのか。
指が、無意識に彼女の番号を選ぼうとしていた。
その瞬間、バイブレーションが震えた。着信。
——「柚月弘樹」と、表示されていた。
柚月弘樹は、教員棟の三階、一番奥の研究室にいた。
午後の陽光がブラインドの隙間から差し込み、デスクの上に楽譜の切れ端のような光を落としている。
高橋がドアをノックすると、「どうぞ」とすぐに声が返った。
声は低く、喉の奥で押し殺すように出てくる。癖のある抑揚だった。
部屋の中は整然としていた。書棚には音楽理論書が隙間なく並び、いずれも古びた背表紙が時の重みを語っていた。
「警察の方ですね。学長から連絡がありました」
柚月は椅子に座ったまま、指先で丸眼鏡の位置を直した。
眼差しには冷たさはないが、沈着な無関心が宿っている。自らを“研究室の住人”とでも定義しているような佇まいだった。
「芹沢正樹さんとの関係について、少し伺えればと」
高橋が丁寧に切り出すと、柚月は頷いた。ただ、そこにわずかな逡巡があった。
「私は彼の師でした。だが、それはずいぶん昔の話です。今では……“戦友”と呼ぶのが妥当でしょうか。お互い、譲れぬものを持ちすぎていました」
「思想的な対立があったと伺っています」
「ええ、ありました。私は形式美を重んじる。芹沢は感情の即興を信じていた。……音楽はどちらにも応えるが、同時にどちらにも厳しい。だから我々は、互いに譲らなかった」
淡々と語る声。
だがその間、柚月は机上の鉛筆をずっと指先で転がし続けていた。そこに微かな苛立ちが滲んでいるようにも見える。
「その対立は、職務に影響を?」
「影響がなかったとは言えません。特に選曲に関しては、彼の独断に不快を覚える者も多かった。……私も、その一人です」
高橋は、意図的に間を空けた後、話題を切り替えた。
「芹沢さんと、渡辺玲奈さんとの関係については?」
鉛筆が止まる。
「——なるほど。その名前が出ますか」
柚月は天井を見上げ、しばし無言のままだった。
そしてやがて、長いため息とともに視線を戻す。
「私は、彼女が才能を持っていることは認めています。ピアノの技巧、音の選び方、解釈の大胆さ。すべて一級品です。ただ……彼女には、時折、奇妙な“感情の空白”を感じさせられた」
「空白、ですか?」
「ある種の音楽家が持つ、言葉では説明できない“深度”のことです。彼女は音楽に没入する。しかし、その没入の奥に……感情ではなく、虚無があるように思えた。まるで、そこに『穴』が空いているような」
高橋は、玲奈の演奏を聴いたときの感覚を思い出していた。
彼女の音には確かに、強さがあった。ただしそれは、表現というよりも——訴えか、あるいは悲鳴のようだった。
「彼女と芹沢氏の間に、個人的な関係があった可能性は?」
「そういう噂はありました。芹沢が個人レッスンを行っていたのは事実ですし、それが音楽だけで終わっていたかどうかは……誰にもわかりません。だが、少なくとも、彼は彼女の“何か”に執着していたように思います」
「執着、ですか」
柚月は書棚から、一枚の紙を取り出した。それは古い演奏会のプログラムだった。
「三年前、玲奈が初めてソリストとして演奏したリストのピアノ協奏曲。そのとき、芹沢が指揮をした。その写真が——ここにある」
高橋は受け取り、写真を覗き込んだ。
舞台袖で、玲奈が譜面台に目を落とし、芹沢がその横で見守っている。
二人の距離は近すぎず、遠すぎず。だが……芹沢の目の奥に、何か強い色が宿っていた。敬意や称賛ではない。もっと、私的で濃密なもの。
「この写真は、学内では出回っていないはずです。私は、この構図が妙に記憶に残っていて……後からスタッフに頼んで個人的に取り寄せたのです」
高橋は一礼し、写真を丁重に返した。
「参考になりました」
「……彼女が犯人だとは、私には思えませんよ」
柚月の声が背中にかけられた。
振り返ると、彼は少しだけ口元を歪めていた。それは笑みではなく、皮肉にも近い。
「彼女は、何かを隠している。しかしそれは、罪ではなく……たぶん、“痛み”だ。音楽家が隠し持つ痛みは、時に狂気より深い」
研究室を出ると、夕暮れが近づいていた。
構内に流れる風が、低く唸るように音を立てる。
玲奈の“空白”。芹沢の“執着”。そして、消えた記録と失われた証言。
高橋の中で、ある仮説が浮かんでは消え、また形を変えて戻ってきていた。
だがその輪郭をはっきりと捉えようとするたびに、そこには、玲奈の横顔が浮かび上がってくる。
ふと、足が止まる。
彼女は——何を思って、舞台に立ち続けているのだろう。
あの夜、ステージを見つめていたあの瞳の奥には、何が宿っていた?
「……あの人は、音楽を守ろうとしていたのか。それとも——何かを壊そうとしていたのか」
無意識に、つぶやいていた。
そしてその答えは、彼女の過去と、あの夜の“記憶の音階”の中にしかないのだと、高橋は理解していた。