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四章

 音大の南棟、通称「第二練習棟」は、昼間でもひんやりとした空気が漂っている。

 コンクリート剥き出しの無機質な廊下には、ピアノや弦楽器のかすかな音が断続的に響いては消える。


 午後三時過ぎ。

 高橋は藤堂柚月との再面談のため、彼女が利用しているという声楽練習室へ向かっていた。


 この棟にはセキュリティがなく、自由に出入りできる。だがそれゆえに、事件当日、演奏者や関係者が入り乱れていた時間帯に「誰がどこにいたか」が曖昧になっているという。


 薄暗い廊下の奥、鉄製のドアの一つが、微かに開いていた。


 近づくと、中から発声練習の声が漏れてくる。

 それは誰かに向けて歌っているというより、自分自身を律するような、ひとつひとつの音に祈るような歌声だった。


 「……柚月さん」


 ノックの後、静かに声をかけると、扉の向こうで息を整える気配があった。


「……どうぞ」


 入室を促す声は乾いていた。

 中には一台のグランドピアノ、壁際に譜面台、窓のない部屋に白熱灯がぽつんと灯っている。


 柚月はピアノに背を向ける形で立っていた。

 演奏会の夜とは違い、今日は黒のタートルネックにジーンズ。

 年相応の学生らしさが戻っていたが、頬の陰には疲労の色が濃く滲んでいる。


「調子はどうですか」


「よくないです。……演奏中に人が死んだのは、初めてなので」


 柚月は自嘲気味に笑ったが、その口元はすぐに引き結ばれた。


「今日は、何を話しに?」


「あなたが演奏直後、ホール裏で目撃された件についてです」


 柚月の目が、わずかに鋭さを増す。


「目撃、されてましたか。……そうでしょうね。あんなに急いで走ったの、初めてだったから」


「どこへ向かっていましたか?」


「芹沢先生に、楽譜を返しに。……直接、手渡したかったんです」


「でも、あなたがそこに着いたときには、芹沢さんはもう……」


「はい。……楽屋のドアが開いていて、中に入ったら倒れていました。手の下に、血が流れていて」


 柚月は目を伏せ、吐息を呑み込んだ。


「怖くて、逃げました。……誰かが入ってきたら、私が疑われるって、すぐに思って。でも私じゃない。違うんです、信じてください」


 その声は震えていた。

 嘘をついているとも、本当を言っているとも断定できない微妙な揺らぎがあった。


 高橋は少し視線を落とし、机の上に置かれた一冊のスコアに目を止めた。


「これは……今回の演奏曲の?」


「はい。私が使っていた譜面です」


 ページを捲ると、赤いインクで書き込みがされていた。

 リズムや強弱記号、そして指揮者の意図を書き写したメモ。


 そのうちの一箇所に、鉛筆で小さな“×”印が書き込まれていた。


「この印、何を意味していますか?」


「そこだけ、演奏指示が急に変わったんです。前日の夜に、先生からLINEで伝えられて。楽譜の差し替えは間に合わないから、各自で直せって」


「……全員が、この変更を受け取っていたと?」


「それは……わかりません。先生が伝えたのは私と……あと二人くらいだったと思います。口頭で伝えるって言ってたので」


「その変更内容は、指揮者にとって重要だった?」


 柚月はしばし黙ってから、ゆっくりと頷いた。


「はい。舞台構成の“流れ”が変わってしまうほどには。……でも、私にはよくわからないんです。あの変更、どうして必要だったのか」


 高橋の中に、ひとつの違和感が芽生える。


 ――演奏会の直前、複数の演奏者にだけ伝えられた楽譜の変更。

 その情報が不完全なまま本番を迎えたとすれば、それは混乱を招く“意図的な罠”にもなりうる。


 そして、それが芹沢自身によるものではなく、何者かが仕組んだものであれば――。


 「もうひとつ、聞かせてください」


「はい……」


「あなたは、芹沢さんと私的な交際を?」


 柚月の表情が、氷のように凍った。


「……どうして、そんなことを?」


「彼のスマートフォンの画像フォルダに、あなたの写真が多数残されていました」


 柚月は、しばらく口を開けなかった。


「……ええ。付き合ってました。でも、誰にも言ってません。特に、母には」


「貴和子さんに?」


「ええ。あの人は、私の人生を“完璧な舞台”としてしか見ていないから。恋愛なんて、台本にないことは許されないんです」


 彼女の声はかすかに震えていた。

 まるで、音階の隙間に忍び込んだ雑音のように、そこには抑えきれない怒りと恐れが混在していた。


「芹沢先生は、逃がそうとしてくれました。……でも、その矢先に」


 涙はこぼれなかった。

 ただ、その沈黙の中で、柚月という人物が初めて“生きている娘”として高橋の前に立った気がした。


 と、そのとき。


 練習室の扉が、コン、コンと軽くノックされた。

 現れたのは、事務スタッフの女性だった。


「すみません、警部補さん。お客さまです」


「客?」


「はい。控え室のほうに……渡辺玲奈さんと名乗る方が」


 高橋の背中を、冷たいものがすっと走った。


 なぜ今、彼女がここに?


そんなことを考えながら足を動かす。


 第二練習棟の控え室は、防音仕様の閉ざされた小部屋だった。

 事務員に案内されて足を踏み入れると、狭いソファに腰かけた渡辺玲奈が顔を上げた。


 その瞬間、胸の奥に、何かが静かに触れた。


 「お邪魔でしたか?」

 玲奈の声は、相変わらず落ち着いていた。だが、わずかに頬がこわばっていた。


 「いいえ。……どうしてここに?」


 「少し、話したくて。お忙しいのはわかってるんですけど」


 その言い回しに、無理を押し殺すような強さを感じた。

 彼女は白いシャツに薄いベージュのトレンチコート、足元には細身のヒール。

 演奏会当夜の煌びやかさとは違う、柔らかな街の気配を身にまとっていた。


 高橋は向かいの椅子に腰を下ろした。


 「話というのは?」


 玲奈は一度息を吸い、視線を合わせた。


 「……音大のこと、少し気になって。ここで何かあったんじゃないかって」


 「“何か”というのは」


 「たとえば、芹沢さんが誰かと揉めていたとか。私は関係者じゃないけど、あの夜、彼がどこか苛立っていたように見えたから」


 高橋は口を閉じたまま、彼女の表情を観察した。


 玲奈の目は、正面を見据えているのに、わずかにどこか遠くを眺めているようだった。


 「……あなたがここに来たのは、それだけの理由ですか?」


 沈黙が流れた。


 玲奈は一瞬だけ視線を逸らし、それから小さく笑った。


 「刑事さんって、本当に鋭いですね」


 「勘、です。あなたが本当は、もっと大事なことを言いに来たような気がしたので」


 玲奈は膝の上で指を組み、その結び目を見つめた。


 「……一つだけ、聞きたいことがあって」


 「どうぞ」


 「私のこと……まだ疑っていますか?」


 その問いは、壁に釘を打ち込むような重みを持っていた。

 高橋は、即答できなかった。


 アリバイは成立している。だが、彼女の行動には不可解な点がいくつも残っている。

 彼女自身が何かを伏せているような感触が、対話の中で何度もあった。


 それでも――


 「……“疑っている”というのは、たぶん違います」


 玲奈が目を細めた。


 「違う?」


 「あなたのことを、ただ“容疑者”として見るには、少し難しい。……もっと知る必要があると思っています。あらゆる意味で」


 ほんの一瞬、玲奈の目が揺れた。

 表情は変わらない。だがその揺らぎは、彼女自身の中にも、何かしらの“迷い”があることを物語っていた。


 「……ありがとう、ございます」


 玲奈は立ち上がった。


 「今日は、来てよかったです。……会えて、少し安心しました」


 高橋は応えられず、ただ軽く頭を下げた。


 彼女が部屋を出ていったあと、静けさが残った。

 その静けさの中で、高橋は自分の心に、小さな違和感を覚えていた。


 ――どうして、「会えて安心した」などと、彼女は言ったのか。

 それは、事件に関係ない言葉だ。まるで、何か別の文脈で彼を見ているような。


 そして、彼自身もまた。

 彼女に対して「知る必要がある」と言ったあの言葉は、本当に捜査官としての立場から出たものだったのか。


 どこか、違う感情が混ざっていた気がする。


 高橋は手帳を開き、芹沢のスマートフォンから得た情報のメモを確認した。

 そのなかには、玲奈の名前とともに記録された、過去の通話履歴がいくつもあった。


 最後の通話は、事件の二日前――

 深夜一時過ぎ。玲奈から芹沢への着信。


 そして、通話時間は……わずか十四秒。


 何を言ったのか。なぜその時間に。

 疑問は深まるばかりだった。


 そのとき、ドアがノックされた。


 今度は、学長室からの呼び出しだった。

 芹沢の死に関して、音大側から一度きちんと話がしたいという。


 高橋は立ち上がり、渡辺玲奈の残り香がまだ薄く漂う部屋をあとにした。


 まるで、そこに彼女の影が残っているかのような感覚を、胸の奥に引きずりながら。


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