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三章

夜の音楽ホールは、昼とはまるで別の顔を見せていた。観客の喧騒が消え、舞台も客席も、まるで誰かが息をひそめて身を潜めているかのような、張り詰めた静けさに包まれていた。


 高橋は再び現場に足を運んでいた。


 ホール裏の廊下。芹沢の控室の扉。壁に掛けられた時計は、午後九時四十八分で止まったままになっている。事件が発覚した時刻、その直後の混乱で落下したのだろう。


 控室の中には、昨日のままの花束と、未開封のワインボトル。グラスは一つ、中途半端に注がれたまま。血痕はすでに拭き取られていたが、部屋に漂う違和感は、まだそのままだ。


 高橋はゆっくりと部屋の隅を見回した。机の上の譜面。カレンダー。書きかけのメモ。


 そして、机の隅に置かれた名刺入れ。中には数枚の名刺があり、ひときわ新しい一枚だけが、他と向きを逆に差し込まれていた。


 そこには、「藤堂楽器店 代表 藤堂貴和子」と記されていた。


 藤堂貴和子は、年齢五十代前半。都内で複数の楽器店とリペア工房を展開しているやり手の経営者であり、音楽大学の後援者の一人でもあった。


 彼女との面会は、電話一本であっさりと叶った。

 店の応接室に通された高橋を迎えた彼女は、飾り気のないグレーのジャケット姿で、しかしどこか舞台袖のような存在感を放っていた。


「……芹沢先生の件、私も大変驚いております。長年の知人でしたから」


「昨夜の件について、お聞きしたいことがあります。芹沢氏が死の直前に未送信だったメール、その相手があなたではないかと推測しています」


 高橋がそう切り出すと、貴和子は一瞬だけ目を細めた。


「……あの人、送らなかったのですね。ええ、私です。昨日、彼に“ある件”を依頼していました」


「ある件?」


「娘のことです。私の娘、藤堂柚月が――音大の声楽科に通っていまして」


 初めて出てきた名前だった。


「芹沢氏とは、柚月さんを推薦するような話を?」


「……そうです。推薦というより、いわば“後押し”ですね。オペラの学内公演のソリストに。実力はあります。ただ、それだけでは届かない世界なのも、正直なところ。……親バカだと思われても、彼に手を貸してほしかった。それだけです」


「その件を、断られた?」


 彼女は頷いた。


「“私情が絡みすぎる”と。そう言って、昨日の午後に連絡がありました。でも……私は、そんなことで彼を恨んだりしませんよ。娘だって、それをわかってました」


「念のため伺います。昨夜の演奏会には?」


「出席しました。ですが、演奏が終わってすぐ、別のホールで行われていた会合に向かいました。時間は九時には出ていたはずです」


「誰か、それを証明できる方は?」


「招待者名簿にも、当日の写真にも残っているはずです。お調べいただいて結構です」


 彼女の語り口には、曖昧さがなかった。だが、高橋は違和感を覚えていた。

 柚月という娘の存在。

 その名が、事件関係者の中に一度も出てきていないこと。


「柚月さんには、事情をうかがう必要があるかもしれません。いらっしゃいますか?」


「今日は、稽古で外出しています。明日には戻ると思いますが……何か問題でも?」


 高橋は首を振った。


「いえ、確認です。念のため、というだけです」


 応接室を出た高橋は、そっとため息を漏らした。

 すべてが“親の行動”で片付くなら、それに越したことはない。だが――。


 翌日、音大の構内で、高橋は一人の学生を呼び止めた。

 藤堂柚月。声楽科三年。黒髪を後ろで一つに束ね、姿勢の良さと声の通りだけで他の学生と一線を画していた。


「……母から聞いています。捜査の方ですよね」


 カフェテラスの隅。静かな午後。柚月は熱い紅茶のカップに手を添えた。


「芹沢氏と、個人的なやりとりはありましたか?」


「ありません。正確に言えば、“ないようにしていました”。……あの人、好き嫌いが激しくて、有力な指導者の娘だと知ると、逆に冷たくなるタイプでしたから」


「あなたの母親が、推薦の依頼をしたことを知っていた?」


「はい。でも、私は反対でした。……推薦で道を作っても、舞台に立ったら全部自分で背負うことになる。芹沢先生は、そこまで含めて断ったんだと思います」


 柚月の言葉は、はっきりしていた。演技とも、計算とも違う、傷を知っている人間の口ぶりだった。


「昨夜は、どちらに?」


「リハーサルを見たあと、友人と夜カフェにいました。時間は午後九時から十時半くらいまで。場所も名前も、調べてもらって構いません」


 柚月の目は揺れていなかった。

 だが、高橋の中で、何かが引っかかっていた。


 誰もが、正しく、丁寧に振る舞っている。

 まるで“間違っていない自分”を証明しようとするかのように。


 ――そして、その中に、渡辺玲奈はどこにいるのか。


 警視庁に戻ると、村田が浮かない顔をしていた。


「鑑識からの報告が出ました。芹沢氏のスーツに付着していた繊維の一部、特殊なレース素材が混じっていたそうです」


「レース素材?」


「ええ。男性の服にはまず使われないもの。恐らく、女性の衣服か、それに近い何か」


「まさか……」


 高橋の脳裏に、演奏直後のホール裏に映っていた、あの“白いコート”の女が再びよぎった。


 あれは、渡辺玲奈だったのか?

 それとも、藤堂柚月? あるいは――


 まだ姿を見せていない“第三の女性”の存在。


 いずれにせよ、確実に一歩、中心に近づいている。

 音が重なり、やがて旋律をなすように、

 沈黙の裏で何かが動き始めていた。


その夜、高橋は自宅マンションの狭いダイニングテーブルで、報告書のデータと録音記録を再生していた。


 部屋の窓からは、都会の光がぼんやりと滲んでいる。だが、彼の意識は完全に現場へと戻っていた。


 控室に残された未送信メール。

 机の上に残された、藤堂貴和子の名刺。

 芹沢のスーツに付着していたレース素材の繊維。


 どれも断片にすぎない。だが、音楽の世界において“断片”とは旋律の種だ。

 ほんの一音から、曲は形を成し始める。


「……レース素材。女性の衣服」


 独りごちた高橋の視線が、報告書に走った。


 ――演奏直後の目撃情報、ホール裏で白いコート姿の女性が舞台袖へと急いでいた。


 時間は、事件が起きたとされる直前。

 観客でも、スタッフでもない。不自然な位置にいた“誰か”。


 顔は見えなかった。だが、何かを隠すように背を向けた仕草。

 その影に、何かの感情が滲んでいた――。


 そのとき、机上のスマートフォンが震えた。

 画面には、村田からのメッセージ。


「今朝の監視カメラ映像、別角度のものが上がってきました。演奏会終了直後の裏手通路、例の“白いコート”が映ってます。画像、転送します」


 添付ファイルを開く。

 やや粗いが、暗がりの中に確かに映っていた。

 演奏会終了直後、客席裏の非常扉を抜けてホール裏に回り込む一人の女性――白いコート、長い髪。顔はフードで隠れている。


 そして――そのフードを、カメラがかろうじてとらえた一瞬。

 顎のラインと首筋、そして垂れ下がるイヤリング。


 高橋は思わず、手元の資料に視線を移した。


 演奏者の中に、このタイプのアクセサリーを付けていた者はいない。

 観客にしても、舞台裏を通る権限などあるはずがない。


「……関係者だ」


 思考が一点に集中し始める。

 だが、そこにまたも、別の報せが届いた。


「追加情報。芹沢の死後、彼の個人アカウントに不審なアクセス履歴あり。演奏当日の夜、22時17分。アクセス元は、音大の職員用PC」


 高橋の目が、わずかに細まった。


「音大の職員用……?」


 そこから導かれる仮説は、あまりにも静かに、しかし確かに輪郭を持ち始めていた。


 翌日、高橋は音大を再訪した。


 職員室。非常勤講師、技術スタッフ、舞台係――その中に、前日には気づかなかった一人の名前があった。


 ──渡辺玲奈。


 声楽科の補助講師。週に数回、発声と舞台マナーの指導を行う立場。

 正式な教員ではないため、名簿の末尾に記載され、ほとんど目立たない存在だった。


 高橋の手が止まった。


 彼女の名前は確かに、演奏者名簿にも、職員リストにも載っていなかった。

 だが、ここにいた。


 あの夜、玲奈がホール裏にいたことは、本人も認めていた。

 だが「演奏者の一人にチケットを譲ってもらって観客として観に来た」という説明だった。


 それが事実なら、彼女に職員用PCのアクセス権限があるはずがない。


 ――では、なぜ。


「高橋さん?」


 そのとき、背後から名前を呼ばれた。

 振り返ると、そこにいたのは渡辺玲奈だった。


 黒いジャケットに淡いグレーのブラウス。落ち着いた佇まいの中に、どこか人を寄せつけない冷ややかさがあった。


「こちらへは……また、捜査で?」


「ああ。ちょっと、確認したいことがあって」


 玲奈は、表情を変えなかった。

 ただ、少しだけ視線を横に逸らした。


「質問していいかな。玲奈さん、音大の職員なんですね?」


 彼女の指先が、カバンの留め具を握った。


「……非常勤です。登録はしてますが、普段は名前を表に出さない契約なので」


「事件当夜、音大の職員用PCから芹沢さんの個人アカウントにアクセスがありました。あなたの勤務先の端末からです」


 玲奈のまぶたが、ほんのわずかに動いた。


「……誰かと間違っているんじゃないですか」


「そうかもしれない。ただ、アクセス履歴には使用者のIDが記録されています。あなたのものでした」


 短い沈黙が流れた。


「――ログインしたのは事実です。でも、それは事件とは無関係です」


「なら、なぜそのタイミングで?」


「芹沢さんに頼まれていたデータがあったんです。舞台演出の構成表。それを確認するために。……だけど、開いたら、すでに削除されていました」


 高橋は眉をひそめた。


「削除?」


「ええ。彼、最近パスワードを変えたって言ってたから、古いままじゃ入れなかった。でも、たまたま旧アカウントのまま残ってたから」


 そこまで語った玲奈は、ふっと息をついた。


「私のせいで疑われるのは慣れてます。もう何度も……。けど、高橋さんまで、そんな目で見るんですか?」


 高橋は黙ったまま、彼女の目を見つめた。

 その瞳の奥には、なにか重く沈んだ水のようなものが揺れていた。


 捜査本部に戻った高橋は、村田から一通の報告を受けた。


「……白いコートの女性。録画を拡大した結果、耳元のイヤリングと、襟元のレースが一致しました」


「誰と?」


「藤堂柚月です。母親のSNSに、事件当日と同じ衣装で写ってる画像がありました。確認取れました」


 高橋の手元のメモに、新たな線が引かれた。


 藤堂柚月――舞台裏に現れた“白い影”。

 渡辺玲奈――芹沢のアカウントにアクセスした“見えない指”。

 そして、芹沢の死。


 音も言葉もない空間で、誰かの手が確かに動いていた。


 だがそれは、まだ“演奏の前奏”にすぎない。


 本当の旋律は、これから始まる。


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