二章
翌日――。
朝の光は、東京の街をぬるいガラスのように覆っていた。空は晴れていたが、昨夜の事件を思い出すたび、空気にはどこか湿り気のようなものが混じっているように感じられた。
高橋司は、警視庁の捜査一課のデスクにいた。事件発生からおよそ十時間。早朝にも関わらず、ホール関係者への事情聴取や監視映像の確認、そしてメディア対応のための会議が矢継ぎ早に進んでいた。
彼の目の前には、一枚のプリントアウトが置かれている。
昨夜、芹沢陸の控室から発見された、あの破れたメモの指紋鑑定結果だった。
指紋の主――渡辺玲奈。
それは、偶然か、それとも必然か。
もちろん、控室に出入りした関係者の多くが、どこかしらに接触していても不思議ではない。だが、あの紙片の内容は、どこか“個人的”な感情のにおいを含んでいた。
こなかったら、おわりにする。
高橋は眉間に指を当てて目を閉じた。
短い文の奥にある揺らぎに、自分でも説明できない種類のざわめきを覚えていた。
「高橋さん、いいですか?」
若手刑事の村田が書類の束を抱えて近づいてくる。
「山科プロモーターから追加資料が届きました。演奏者の出欠記録と、直前のリハーサルでの出来事をまとめたものです。それと……昨夜の件、ちょっと気になる証言がありまして」
「何だ?」
「伊藤遥さんという第二バイオリンの奏者が、事件前の休憩時間に、芹沢陸と何か激しく口論していたという話です。目撃者が二人。どちらも同じ内容を証言しています」
伊藤遥――芹沢の配置変更で第一パートから外された女性奏者。
年齢は三十代前半。実力はあるが、芹沢の好みから外れたと見られていた。
「その伊藤は今どこに?」
「今朝から音楽大学の練習室に入ってるとのことです。連絡は取れましたが、今日は休みたいと……」
「連絡先、もらえるか?」
「はい、こちらに」
高橋は受け取ったメモをポケットに滑り込ませた。そして、村田が手にしていたもう一枚の書類に目を落とす。それは、昨夜の演奏者控室の配置図と出入り記録だった。
「……渡辺玲奈は?」
「はい。演奏後、楽屋で着替えて、そのままスタッフと軽く会話。その後、一人でVIP控室のほうに向かっています。『先生に挨拶したい』と口にしていたようです」
「なるほど」
玲奈が控室に入ったのは、遺体発見の数分前。
つまり――事件発覚のきっかけを作った存在でもある。
高橋はふと、昨夜の玲奈の横顔を思い出した。
血の気が引いた唇、指先の震え。それは演技には見えなかった。
だが、冷静に考えれば、“彼女だけがあの部屋を訪れた証人”でもある。
「村田、午後に渡辺玲奈の自宅に行く。任意でいい。少し話を聞こう」
「了解しました」
捜査本部には、緊張とは違う静けさが満ちていた。
何かが始まろうとしている――そんな、舞台の幕が上がるような予感。
高橋は書類を胸に挟み、立ち上がった。
*
午後一時半。都内・杉並区。
駅から徒歩十数分、静かな住宅街にあるマンション。その一室が渡辺玲奈の自宅だった。古くはあるが丁寧に手入れされていて、白いカーテンが微かに風に揺れている。
「すみません、警視庁の高橋です。昨日の件で、少しお話を……」
インターホンの返答は一瞬の間を置いてから返ってきた。
「……どうぞ」
ドアが開くと、玲奈が現れた。昨夜の華やかな舞台衣装とは打って変わって、今日はシンプルな白いシャツに淡いグレーのカーディガン。目の下にはわずかに疲労の影があったが、声は落ち着いていた。
「わざわざ、ありがとうございます。中へどうぞ」
高橋は、緊張しないように心がけながら部屋に入った。
室内は清潔で整然としていた。壁に飾られた写真の一枚に、彼女がヴァイオリンを抱えて笑っている姿があった。
「昨日は……お辛かったですね」
「はい。でも、芹沢先生がああいう形で亡くなるなんて、今でも信じられません」
玲奈はソファに座り、手のひらでマグカップを包むようにして持っていた。カモミールの香りが、室内にほんのりと漂っていた。
「先生とは……個人的な関係があったのですか?」
高橋の問いに、玲奈はほんの一瞬だけ視線をそらした。
「いいえ。そういうのでは……ありません。ただ……先生には、恩があります。私をこの舞台に引き上げてくださったのは先生ですから」
「他に、芹沢さんとトラブルがあった奏者を知っていますか?」
「それは……」
玲奈は言葉を選ぶように、少し沈黙した。
その唇がようやく動いたとき、彼女の声は少し低くなっていた。
「伊藤遥さんが……悔しがっていたのを、見ました。第一ヴァイオリンの席を外されて。演奏直前、楽屋で泣いていたっていう話も……私が聞いたのは、偶然です」
「ありがとうございます。あと……一点だけ」
高橋は、ジャケットの内ポケットから、あの破れたメモのコピーを取り出した。
それを玲奈の前にそっと置く。
「この紙、控室で見つかりました。あなたの指紋が検出されています。心当たりはありますか?」
玲奈は、視線を下に落とした。
それは――わずかに震える瞳だった。
けれど、やがて彼女はゆっくりと、そして静かに口を開いた。
「……はい。これは、私が書いたものです」
高橋の胸の奥で、何かがわずかに軋む音を立てた。
「どういう意味で?」
「芹沢先生に――舞台のことで、お願いしていたんです。でも、私の言葉が通じなくて……そのとき、どうしても気持ちが収まらなくて、あの紙に書いてしまいました。出すつもりもなかったのに……破って、捨てたんです」
感情が高ぶったときの、若さ故の衝動。
そう言われれば、つじつまは合う。だが――。
「こなかったら、おわりにする」
その言葉には、何かもっと深い、別の意味があったのではないか――。
高橋の思考の奥で、何かが鈍く引っかかった。
渡辺玲奈。
その表情は、嘘をついているようには見えなかった。
けれど――真実を語っているとも、断言できなかった。
伊藤遥の姿は、午後三時過ぎ、音楽大学の敷地内にあった個人練習室で見つかった。曇りガラス越しに漏れていたヴァイオリンの音が、扉を開いた途端、ぷつりと途絶える。
「……取材の方ですか?」
振り返った彼女は、第一印象で「気が強い女性」だとわかる目をしていた。化粧は控えめで、眉はまっすぐに描かれている。練習用の黒いシャツとスラックス。だが、服の隙間から覗く白い指先には、演奏によって刻まれたタコと、神経質なほど整えられた爪があった。
「警視庁の高橋です。昨日の事件について、少しだけお時間を」
「……わかりました。ここでは落ち着きませんし、ロビーでよければ」
練習室の外に出た伊藤は、楽器ケースを肩にかけたまま、キャンパス内の中庭に面したロビーの一角に腰を下ろした。窓から差す午後の日差しが、壁にゆっくりと影を落としていく。
「昨日の演奏会、芹沢氏と何かあったと聞きました」
高橋がそう切り出すと、伊藤はため息をひとつ漏らした。
「“あった”というより、“ある”んです。ずっと、ね。彼の指導方法に納得している人なんて、そう多くはありませんよ」
「具体的には?」
「個人攻撃。えこひいき。実力主義の名を借りた、感情的な降格。私は、今回の演奏会で第二パートに下げられました。正直言って、屈辱でした。でも、それを表立って言えば、次は出演すらできなくなる」
伊藤の目には、怒りよりも疲れが浮かんでいた。何かを何度も噛み殺した人間だけが持つ、あの乾いた諦めのような表情だった。
「芹沢氏とは……昨日の演奏前、口論になったそうですね」
「……ええ。私が、『これで最後の演奏になります』って言ったら、彼、笑ったんですよ。皮肉な顔で。“君が決めることじゃない”って」
声の抑揚にわずかな怒りが混じる。
「じゃあ、あなたは彼を恨んでいた?」
沈黙。
「……はい。恨んでました。だけど、殺意なんて……。演奏家として認められなかった悔しさはあっても、殺すほどじゃない」
伊藤は言い終えると、拳を膝の上で握った。
「私ね、高橋さん。音を、人に“選ばれるもの”にしたくなかったんです。だけどあの人は違った。才能があっても、自分の気分ひとつで押しつぶせるって、本気で思ってた」
「最後に彼と会ったのは?」
「昨日のリハーサルのとき。演奏前にひとこと言っただけ。『見ててください』って。それが、最後です」
高橋はメモをとる手を止め、伊藤の目を見た。
「昨日の夜、控室周辺には行きませんでしたか?」
「……いいえ。演奏が終わって、そのまま着替えて帰りました。誰かと話す気にもなれなかった」
疑わしい――というより、“理由がある”だけで、証拠は何もない。
高橋は一礼し、その場を後にした。
•
捜査本部に戻ったのは、夕方五時過ぎ。事件発生から一日が経とうとしていた。
村田が、監視カメラの新たな映像を持ってきていた。
「ホール裏口の映像、時刻は事件発覚直前の午後九時四十五分です。ほら、ここ」
モニターには、白いコートを羽織った女性の後ろ姿が映っていた。肩までの髪、ヒールのある靴――その動きに、どこか見覚えがあった。
「これは……渡辺玲奈?」
「まだ断定できません。顔は映ってませんから。ただ、特徴が似ていて……このあとすぐに、玲奈さんは控室を開けて発見者になります」
高橋は映像を巻き戻し、再度確認する。背中に小さなバッグ。動きに無駄がなく、場所を知っている者の歩き方。
だが、決定的なものは映っていなかった。
そのとき――村田が口を開く。
「もう一つ気になる点がありました。芹沢氏のスマホの履歴に、未送信のメッセージが残っていたんです」
「未送信?」
「はい。内容はこうです」
村田が読み上げた。
『明日の件、やはり断ろうと思う。あまりにも私情が絡みすぎている。申し訳ないが……』
そこで、文面は切れていた。
「誰宛かは?」
「不明です。宛先の記録が削除されていました。復元も試みていますが……」
私情。断ろうとしていた何か。それは、渡辺玲奈と関係があるのか――。
あるいは、別の“誰か”の影がそこにあるのか。
高橋は椅子にもたれ、深く息を吐いた。
事件の中心にあるのは、“音楽”だけではない。
その裏で交差する、感情と欲望、そして“選ばれる”ことへの執着。
誰かが、それを断ち切るように手を下した。
それは復讐か、嫉妬か、それとも――愛だったのか。
彼の思考の中に、ふとひとりの女性の顔が浮かぶ。
あの、柔らかな声と、静かに揺れた目。
渡辺玲奈。
その名が浮かぶたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
警部補としての自分と、男としての自分――。
どちらかが間違っていて、どちらかが正しいのか。
まだ、それはわからなかった。