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十章

夜の高級音楽ホール<レグルス・ホール>は、やはり昼間の華やかさを完全に隠し去り、冷たく澄んだ闇に包まれていた。外からは静かに風が吹き抜け、ガラス張りの巨大なロビーには月明かりが映り込んでいる。高橋司はゆっくりと舞台裏へ向かった。彼の胸の奥には、複雑な感情が渦巻いていた。


ここで待ち合わせをしたのは渡辺玲奈。彼女は殺人容疑者のひとりでありながら、早々にアリバイ証明で釈放されていた。しかし、その沈黙は何かを秘めていた。司は玲奈のことを考えるたびに、その無垢な表情の裏にどんな暗闇があるのかを探っていた。


「……玲奈さん、ここで話す意味がわかるのか?」と彼は心の中で自問した。恋心がわずかに胸を締めつける。だが警察官としての責任は、それを許さなかった。


舞台裏の暗がりは静寂に包まれ、わずかな照明が埃を浮かび上がらせている。司がその場に着くと、玲奈はすでに一人で座っていた。薄く震える唇を彼は見逃さなかった。


「来てくれて、ありがとう」と玲奈はいつもより低い声で言った。彼女の声には、疲労と悲しみが混じっていた。頬に涙の跡があったのか、外から照らされる月明かりに照らされてはっきりとわかった。


司はその様子を見ながら、いくぶんか距離を取って立った。


「……どうしてここなのか、教えてもらえますか?」彼の声はいつもよりも優しかったが、どこか冷静で距離を置いていた。


玲奈はしばらく黙り込み、やがてゆっくりと口を開いた。


「ここは……芹沢さんが最後に指揮をした場所。私は、彼の死に、関わってしまった。」


彼女の言葉に高橋の胸は大きく揺れた。過去の章で得た情報と重なる。芹沢――被害者の指揮者は、玲奈の才能を認めつつも、彼女の中に潜む何かに苦しみを感じていた。


「芹沢さんは、あなたのことをどんなふうに言っていた?」司はそっと問う。


「……いつも厳しかった。でも、それだけじゃない。彼には私に期待していた面もあった。私も……期待に応えたかった。」


玲奈の声は震え、瞳が揺れている。司はその揺らぎに心を掴まれそうになるが、すぐに警官としての鋭い視線を取り戻した。


「犯行の夜、あなたは何をしていた?」司の質問は鋭くなった。


玲奈は一瞬、言葉を詰まらせ、やがて絞り出すように答えた。


「リハーサルが終わってから、舞台裏の楽屋で一人、楽譜を見直していた。その後、控室に戻ったの。誰もいなかった。」


彼女の言葉は、以前のアリバイ証明とほぼ一致している。しかし、司の心にはまだ引っかかるものがあった。


「凶器はホールの中にしかなかった。持ち出されてはいない。つまり犯人はホール関係者か、あの場にいた者だ。」


司は目の前の玲奈を見つめた。彼女の沈黙の重さは、あまりにも大きい。


「玲奈さん、あなたが何かを隠しているのはわかっている。……でも、話してほしい。私たちはまだ、真実にたどり着いていない。」


玲奈はゆっくりと首を振った。


「……話せない。話せば、あなたを傷つけることになる。だから……」


その言葉は彼の胸をえぐった。彼女が抱える苦しみは、玲奈自身が一番知っているのだろう。


「わかりました。でも覚えていてください。真実はいつか必ず明かされます。どんなに沈黙しても、どんなに逃げても。」


司は静かに拳を握った。


その時、彼のスマートフォンが震えた。画面には署からのメッセージ。新たな証拠が届いたのだ。


「……玲奈さん、残念ながら、あなたの無実を証明する証拠は見つかりませんでした。」


玲奈の目に一瞬、戸惑いが走った。


「……だから、私は……」


司は深く息を吸い込み、決意を固めた。



「……渡辺玲奈さん。殺人の容疑で、逮捕します。」



(完)

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