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一章

音が消える。その一瞬の静寂は、時にすべてを飲み込む。

 それまで世界を支配していたベートーヴェンの旋律は、終止符とともに断ち切られた。

 代々木の高級音楽ホール〈レグルス〉。千人を超える観客が、最後の音の余韻に包まれたまま、時間に取り残されたように座席に沈んでいた。


 だが、すぐに拍手が降り注ぐ。小さな波が次第にうねりとなり、会場の隅々にまで広がっていく。

 ステージ上のオーケストラの奏者たちは一斉に立ち上がり、指揮台に立つ男を振り返る。

 男――芹沢陸。世界を股にかける指揮者にして、完璧主義の権化。黒い燕尾服の裾が静かに揺れ、銀のバトンがそっと下ろされる。


 観客は立ち上がった。拍手は鳴り止まず、数名の女性客が目元を拭っているのも見えた。音楽という名の劇薬は、人の心に静かに、そして深く沁み渡る。


 芹沢は深々と一礼した。拍手はさらに熱を帯び、二度、三度とカーテンコールが続いた。


 まさに“喝采”という名の祝福。

 だがこの晩、喝采の夜は、静かに終焉の音へと変わる――。


     ***


 レグルス・ホールの舞台裏は、迷路のような導線で構成されている。

 楽器運搬用の通路、奏者控室、スタッフ用の通行路。コンサートという“表の顔”の裏には、秒単位で動く緻密な舞台がある。

 その最奥――VIP専用控室。鍵のかかる重厚なドアの先で、芹沢陸は血を流していた。


「指揮者の……芹沢さんがっ……!」


 最初に悲鳴を上げたのは、ピアニストの渡辺玲奈だった。

 黒いドレスの裾をかかえ、顔を青ざめさせたまま立ち尽くす。スタッフが駆け寄り、部屋の中に入り込んだとき、ソファに横たわる芹沢の姿があった。


 胸元にはナイフ。

 その刃は深々と突き刺さり、血の色がワインレッドの絨毯へと染み込んでいく。

 遺体の顔には、もはや生者の面影はなく、ただ驚きとも苦痛ともつかない表情が浮かんでいた。


 どこかで、誰かが「救急車を!」と叫んだ。だが、すでに遅かった。


     ***


 事件発生から約40分後。

 警視庁捜査一課の高橋司は、舞台裏の空気に身を置いていた。


 スーツの襟を正しながら、ホールスタッフの案内でVIP控室へと足を踏み入れる。

 この年齢にして警部補の肩書きを持ち、現場では「一課の狼」と渾名される捜査官。感情を表に出さない冷静な目と、推理を超えた“読解力”で、過去数件の迷宮入り事件を解いてきた。


「被害者は指揮者の芹沢陸。享年53歳。傷は胸部に一点のみ。即死でしょう」


 現場に先着していた鑑識が、手袋越しに指をさして説明する。

 高橋は無言でうなずき、控室の全体を眺めた。室内は6畳ほどの広さで、簡素ながら上質な家具が配置されている。ソファ、コート掛け、ローテーブル。壁にはヨーロッパ風の抽象画。


 だが、そのすべてが沈黙していた。

 血の気が失せた空間。音楽の聖域だったこの部屋には、もはや“死”しか存在していなかった。


「争った形跡は?」


「ほとんどありません。観葉植物が倒れていたが、それだけです」


「防犯カメラは?」


「舞台裏は一部しかカバーしていません。しかも、この控室の前だけは録画がオフになっていました」


「オフ?」


「芹沢本人の要望だったそうです。演奏のあとは、一人で“感情を沈める時間”が必要だからと。レグルス側は彼に最大限の配慮をしていたようです」


 高橋は一瞬、唇を結び、視線を天井に這わせた。

 完璧主義者の自己完結。そのこだわりが、皮肉にも自分の死を外部から隔離してしまった。


     ***


 廊下の先で、取調べが行われていた。

 事件発覚後すぐに関係者全員が控室外へ隔離され、聞き取り調査が進められていた。


 高橋は、椅子に座るひとりの女性に目を向けた。


 ――渡辺玲奈。


 芹沢の指名により、今夜のピアノソリストを務めた若手音楽家。

 彼女は濃紺のドレスを羽織ったまま、手元で何度もハンカチを握りしめていた。


「お時間を少し、いただけますか」


 そう声をかけると、玲奈はわずかに顔を上げた。

 大きな瞳が、ゆっくりと高橋を見た。その瞳に宿るのは、怯えとも混乱ともつかぬ曖昧な光。


「芹沢さんを見つけたのはあなたですね?」


「……はい。控室に楽譜を返しに行ったんです。誰もいないと思って、ノックもしませんでした」


「控室に入った時間は?」


「……たぶん、演奏終了から三十分ほど経った頃だと思います。舞台裏でスタッフと少し話して、それから……」


 高橋は頷く。証言は他の関係者の話とも一致していた。

 さらに監視カメラの映像にも、玲奈が事件推定時刻には通路にいた様子が記録されている。物理的に、犯行は不可能だ。


「芹沢さんとは、仕事以外での付き合いはありましたか?」


「……ありません。舞台上でのやりとりがほとんどです」


 言葉は簡潔だが、声音に虚勢の色はない。

 ただし、涙を見せるわけでもない。感情を押し殺しているわけでもなく――そのどちらでもない、どこか“静かな人間”だ。


 高橋は数秒だけ、彼女の視線の先にあるものを追った。

 遠く、暗い廊下の向こう。演奏が終わったばかりの音楽ホール。

 その奥に、いまだ消え残る“音”が、まだどこかにあるような気がした。


楽屋口の扉が開き、数人の刑事が出入りしていた。夜も深くなり、音楽ホールの周囲は報道陣と警備車両で騒然としている。けれど、ホール内部は不思議なほど静かだった。演奏会の熱気はすでに失われ、残されたのは照明の蛍光と、行き交う足音だけだった。


 控室の近くに仮設の捜査本部が設置されていた。舞台裏にある広めの会議室が割り当てられ、捜査一課の刑事たちが資料を広げ、パソコンのキーボードを叩いている。


 高橋司は白板の前に立ち、腕を組んでいた。

 その隣に、部下の若手刑事・村田が情報をまとめたタブレットを持って立っていた。


「現在までの関係者リストです。演奏者とスタッフ合わせて34名。観客は1,200名ほどで、ホール外に出た一般客からは参考人を選定中です」


「VIP控室の鍵は?」


「主催側と芹沢本人の計2本のみ。事件当時、主催者側は事務室に保管中で、動きなし。つまり、芹沢本人が自分で鍵を持っていたということになります」


「遺体発見時には扉は開いていた」


「はい。玲奈さんが入ったときは、ドアが半開きだったとの証言です。犯人が出たあとに閉め忘れたと考えられます」


「出入口の防犯カメラは……役に立たない」


「ええ。事件前後の映像は途切れてます。サーバーの記録によれば、事件当日の18時26分に録画がオフになっています。芹沢本人の指示だったのは間違いないようです」


 高橋は白板の芹沢陸の写真を見つめた。

 整った顔立ち。長髪をなびかせ、タクトを振る姿。写真の中の男は、自信と孤高さに満ちていた。


 傲慢で有名な指揮者だった、と数人の関係者が口を揃えた。だが、その実力は確かで、業界内でも誰もが一目を置いていた存在だった。

 高橋は椅子に腰を下ろし、机の端にある玲奈の関係資料に視線を落とした。


 渡辺玲奈――27歳。都内の音大を卒業後、国内外での演奏活動を行い、今夜の演奏会では初の大舞台に抜擢された。

 家族構成は母と妹。父は10年前に他界。評判は概ね良好で、過去に目立ったトラブルは確認されていない。


「玲奈さんにアリバイは?」


「あります。彼女は事件推定時刻、楽屋でスタッフと話していたとのことで、別の奏者二名の証言とも一致します。ホールの出入り口映像にも、動きは確認されていません」


「……アリバイは成立しているな。しばらくは目を離さなくていい」


「他に気になる人物は?」


 高橋は資料の束から数枚を取り出し、壁際のソファへと移動した。

 蛍光灯の明かりの下、彼は一枚の紙をじっと見つめた。そこに書かれていたのは、芹沢陸の“業界内の評判”だった。


 完璧主義者。強引な指導。気に入らない奏者は平気で降ろし、対立者には冷酷だったという証言もある。

 さらに、過去に数名の奏者やスタッフが突然辞めている記録も確認されていた。いずれも公にはされていないが、今回の演奏会でも複数の内部トラブルがあった形跡がある。


「被害者は……味方より敵のほうが多かったか」


 呟いた瞬間、村田がひとつのファイルを差し出した。


「こちら、主催者の山科さんが持っていた内部記録です。演奏会直前、奏者の配置に急な変更があったようで……そのことで何人かの不満が出ていたようです」


「変更?」


「はい。特に第一バイオリンの席に座っていた伊藤という女性奏者が、直前になって第二パートに移されたとか。その件で泣いていたという話もあります」


「その伊藤という奏者、今どこに?」


「一応、控え室にいます。まだ任意聴取のみですが、必要であれば正式に事情を……」


「少し寝かせておけ。焦る段階じゃない」


 高橋は立ち上がり、資料を再び手に取った。芹沢陸が作ったこの舞台は、音楽という名の仮面に覆われた“戦場”だったのかもしれない。

 虚構のハーモニーの裏で、嫉妬や野心がうごめいていた。


 静かにドアがノックされた。

 鑑識の担当者が顔を出し、やや興奮した口調で言った。


「高橋警部補、少しよろしいでしょうか。控室のソファの下から、こんなものが見つかりました」


 白い手袋で包まれた鑑識の男が差し出したのは、破れた一枚の紙片だった。

 血の染みがわずかに付着しているが、中央には明らかに手書きで書かれたメモの断片。


 ――「こなかったら、おわりにする」


 文字は乱れており、ペンのインクもかすれていた。

 高橋は眉をひそめ、紙片を慎重に受け取る。


「……誰宛だ?」


「わかりません。ただ、被害者の筆跡ではないようです」


「指紋は?」


「現在照合中ですが、女性のものらしき指紋が一つ、はっきりと残っています。現場にいた誰かの可能性が高いです」


 「終わりにする」――脅しとも、嘆きとも、別れの言葉とも取れる曖昧なメッセージ。


 高橋は廊下の奥を見やった。

 その先にある関係者控室。渡辺玲奈が、今もひとり、夜の中に沈んでいる。


 それはまだ、疑いの眼差しではなかった。ただ、ひとつの点を――音のような断片を、彼は意識のなかに浮かび上がらせていた。


 このホールに、音が戻る日は来るのだろうか。

 調和と不協和の境界。

 彼はまだ、事件の旋律の“序奏”を聴き始めたばかりだった。



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