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「せっかく起きたんだから、今の世界を見てみたいわ」
少女精霊はそう言って、流石に居すぎたから一旦帰る、と申し出たユギル達について来た。
海はすっかり闇色に染まり、静かに揺れる海面は満点の星空と満月に照らされる。波間が反射して白く光っていた。星空を見上げながらも三人は泳いだ。
岸辺の岩に括っておいたボートにユギル達が乗ると、当たり前のように少女も乗り込む。
相変わらず少女は身に纏う物がその長い髪以外ないので、洞窟を出る間も海を泳ぐ間もユギルはずっと振り返らずに先頭を行き、船頭に立った後は顔の向きを進行方向に固定して漕いでいた。
「あなたの家に着いたら服を貸してもらえる?」
「貸すけどさ……アンタこの短時間で一気に図々しくなったな……」
実際精霊とは言え、『少女を全裸にして連れ回していた』なんて噂がうっかり広まったら島社会で死にかねない。なんなら今現在、内心冷や汗を掻きっぱなしである。今が視界の悪い夜で、人目に付きにくいボートで移動しているだけまだマシ、と言ったところだった。
なのでユギルは少女が島を見たがるなら、元から家の服を貸すつもりだった。
その辺りのユギルの考えも大体察しているのか、少女は悪びれずにこう言う。
「だってあなた達、良い人なんだもの。私は甘えられる時にはそうさせてもらう主義なの」
そして口端を吊り上げながら、猫のように大きな瞳を妖しげに細めて微笑んだ。その表情だけで言えば艶っぽいとすら言える少女だったが、長い髪と肢体は月光を吸って白く輝き、触れてはならないような、どこか神秘的な美しさを纏っていた。
その様子はユギルはもちろん見ておらず、エドウィンだけがしっかり見ていた。
(この別嬪さんなりの人間社会での処世術って奴か? 一体どんな経験をしてきたんだか)
エドウィンはセルトニアの海岸で生まれてから十年程度の精霊で、ユギル同様他の国には行ったことがなかった。それもあって千年近く前の大陸の国が一体どんな風で、この異質な精霊がどう扱われていたのか全く見当がつかなかった。
しかしそう言えば、人間社会で暮らしていたなら持っていて然るべき物があるじゃないか、とエドウィンは思い至る。精霊には本来不要な物だが、エドウィンもユギルに貰って持っていた。
「そうだ! 名前だ。嬢ちゃんには名前はあるのかい?」
「ああ、そういやないもんだと思って聞いてなかったな」
「私の名前? ………………ないけど?」
不自然な間をおいて少女は真顔で返した。
「え、本当か? 言いたくないとかじゃなく?」
ユギルが怪訝な声音で言った。
「ない。ないわよ、嘘じゃない。私に名前はないわ」
「いやそこまで社会慣れしてて? 嘘だろ……」
「本当にないわよ」
「ええ?」
少女は頑なであった。
「まあまあユギル、ないならないで別にいいだろ。ただまああった方が便利だし新しく名前を持った方がいいとは思うぜ? そう、オドウィンとかどうよ」
「それは嫌」
「センスねえなエドウィン」
「何でだ!俺とお揃いだぞ」
二人と一匹がやんやと言い合いながらボートは進んだ。
「ああ、村だ。見えて来た」
少しして、桟橋横の松明の明かりを見たユギルがそう言った。
ユギルの家は街から少し離れた漁村にあり、村の桟橋に漁船やボートが停めてあった。月明かりと星明りだけで慣れた手つきでユギルはボートをいつもの場所に停める。
「先に行って母さんに服借りてくる」
ユギルはそう言って、エドウィンと少女をボートに残し小走りで村に向かった。
ユギルの村は、七戸の家と村共有の倉庫が概ね円形に並び、真ん中に多目的に使う広場があった。村の西と南は海側の崖、北には家毎に簡単な菜園があり、その向こうは森が続いていた。村から東には一本、街に続く広い道があって、その途中から崖下の桟橋に向かう階段が枝分かれしていた。
ユギルが桟橋から階段を駆け上がって村の入り口を目に入れた瞬間、強烈な違和感を覚えた。
「……ただいま……?」
ユギルはそう言いながら村の入り口の松明、その横を通り抜ける。広場で燃える焚火が辺りを暖かく照らしている。広場に持ち込まれた低い木のテーブルに、木のカップに入った酒や葉で包み焼いた芋が並んでいる。どちらも中途半端に減っている。丸太を切って作った椅子は所々横倒しに転がり、焚火に寄りかけるように固定された鉄櫛の魚はもはや炭と化していた。
見るからに酒盛りをしていたのだろう、広場には誰もいなかった。
人の話し声がしなかった。家事の音も、誰かの契約精霊の笑い声もしなかった。ただパチパチと火の粉が散る音と、自分の呼吸音と、徐々に早くなる心音が聞こえる。
視覚と聴覚で情報として取り入れる事で、ユギルは最初に覚えた違和感の正体に至る。
(人の気配が全くない!!)
広場を駆け出して、ユギルは自分の家にドアを飛ばす勢いで転がり込んだ。