2-1
晴れ渡る冬の空の下、澄んだ空気を孕んで崖下の街に冷たい風が吹き込む。
崖に囲まれて円形の奇妙な街、バレンギーナ。その一画の整備された演習場で、青い髪の少年が地を踏み高く跳んでいた。その身は中空でくるりと前に回転する。
「せいっ!」
軽い掛け声と同時に伸ばした右脚が振り下ろされ、その踵は土で出来た人形の頭をかち割る。
全長三メートル程度の土人形は股下まで砕かれ、脆くも崩れ落ちた。
軽やかに着地する少年から十数メートル離れた対面、くたびれた白衣の男がノートに記録を取っていた。
「銃弾程度なら受けられる強度にしてあるんだけどねえ。まあ良いか」
ペンを走らせる右腕、その先の肩にはモグラのような精霊がのっしりと乗っていた。白衣の男――教師であるウィリアムが左手を振るとモグラ型の精霊が淡く輝く。その直後、土人形が同時に十体、地面からモコモコと盛り上がり形成された。
「ユギル君の基礎戦闘技術が高いからね。このくらいはやっても良いだろう」
その小さな呟きは相手に聞こえる距離でもなく、ただ冷たい空に溶けた。
刹那、同時に三体の土人形が素早く少年――ユギルに接近する。鈍重な見た目とは裏腹に只人よりも遥かに速く、巨大で重い拳が少年の矮躯に襲い掛かった。
「ッ!」
後ろに跳んだユギルのいた大地が轟音と共に陥没した。三つの拳で一斉に割られた地面はその破片を周囲に飛び散らせる。
ユギルが着地し体勢を整える頃には左右から二体ずつ、計四体の土人形が回り込んで来ていた。
「流石に多いって!!」
土人形が振りかぶるより先に動き出したユギルは脚力をマナで強化し、左側の一体の脚の間を転がるように通り抜け、挟撃を回避した。直ぐに身を起こしてバネの様に跳ね上がり、一番近い一体に正面から強化した拳を叩き込んで破壊する。
砕ける土人形、その土に還って行く途中の体を踏み台にしてさらに跳び、二体目、三体目と蹴りを叩きこんでいった。
「ッオラ!!」
更に襲い掛かって来る土人形の攻撃を回避しつつ破壊していくユギルに、ウィリアムは首を傾げた。
(『使いこなせるようになった』って言ってたのに全然ノラちゃんの力を使わないなあ……なんか離れてるし)
ノラは今演習場の端に立ち、エドウィンとユギルの戦闘を見ていた。ノラが何かをする気配は全くない。
ユギルがバレンギーナにやって来て、一ヶ月が経とうとしていた。つまりユギルが船内で人型の精霊、ノラと契約を結んでからもそれなりの時間が経っていた。
精霊の力というものはとにかく個体差が著しい。契約者に特別な能力を全く授ける事が出来ない精霊もいれば、ウィリアムが契約しているモグラ型精霊のように土の形を変えて動かす事が出来るような精霊もいる。
概ね精霊が生来保有しているマナの多寡で出来る事の規模が決まる事が多い。だが、『何』が出来るか、と言う性質の話については千差万別過ぎて研究も中々進まない状況にあった。
ではユギルが契約したノラはどうなのか、と言うと。
「触れた物を固定出来る力」
と本人が連邦に自己申告していた。ウィリアムも、ユギル達がバレンギーナに着いた次の日にはノラからその力を見せてもらい確認していた。
ウィリアムが見せてもらった時は、ノラはテーブル上の布巾を両手に持って広げた。なんてことのない真四角の、綿の布巾である。
ユギルやエドウィン、ウィリアムが見つめる中で、ノラは布巾をピンと張った状態で左手を離した。
「!」
――右手だけで保持され、垂れ下がる筈の布巾は、張った形を保ったままである。重力を無視し、金属板か何かであるように、布は真四角のままノラの右手指に摘ままれていた。
「これは確かに……見た事のないタイプの力だね」
ウィリアムがそう言った後、ノラは右手も離した。途端、布地は形を変え重力に従いテーブルに落ちる。ぐしゃぐしゃになったそれを今度はウィリアムが手に取ると、柔らかい綿の、普通の布巾に戻っていた。
「触ってる間しか効果がないの。だからロープを棒として使うとか、触った人を動けなくするとかなら出来るけど、そこまで便利な力じゃないわ」
触れただけで拘束出来る時点で相当有用である。そうウィリアムは思った。ユギルと契約してマナの大半を切り離す前は、触れていないものも――それこそセルトニアの人間を丸ごと『固める』事も出来たのではないか、と。
「言っておくけど昔でも島丸ごと固めるとかは出来ないから。せいぜい小さな村一つくらいまでよ」
思考を読んだかのようにノラが釘を刺した。
(おっと、察しが良いな)
ウィリアムは顎に当てていた手を頭にやりわざとらしく体を反らす。
「え~。顔に出してるつもりはなかったんだけどなあ」
「それならもうちょっと練習した方が良いわよ。人を疑ってるなら尚更」
ノラはにっこりと笑う。美しい少女のその笑みは、人形のようにどこか硬質である。
「まあ君の全盛期の力の範囲って自己申告だから。こっちじゃ確かめようがないけどね」
ウィリアムもにっこりと笑い返すと、ノラは笑みを深めた。
「オイ、二人とも怖いぞ。やめてくれよこう……笑顔で威圧し合うの。ユギルも何か言ってくれ」
「嫌だ。関わりたくない」
横でエドウィンとユギルがポソポソと話し合っているがノラもウィリアムも黙殺した。
(しかし、全盛期は触れていなくても能力の射程、と言うのは正しいのか。要人の暗殺くらい簡単そうだ)
恐ろしい話だ、とウィリアムは軽く息を吐く。ただ今はもう違うのだと頭を切り替え、話を戻す事にした。
「契約者であるユギル君本人を『固定』する事は出来るのかい?」
「どういう意味かしら?」
「それこそ体を固めて斬撃を防ぐとか、重い物に潰されないようにするとか」
ウィリアムは眼鏡を軽くずらして濃灰の瞳を向ける。
「体の老いを停めて不老不死にするとか?」
「!」
横で黙っていたユギルが目を見開く。全く考えていなかった、と顔に書いてあった。
ウィリアムにとっては軍部で聴取した報告書に目を通した時から考察していた事だ。『固定』、それは定義として何処までを示すのか。
重力に影響を受けないのは実演で分かった。では強度は?真四角を保った布は布らしくナイフで引き裂かれるのか?
人間に使った時の影響は?呼吸や心臓は止まらないのか?それとも細かく力の範囲を調節出来るのか。
そして契約精霊とシャーマンは魂で繋がっているのだ。ノラにとって契約者であるユギルは常時『触れている』と言っても過言ではない存在の筈である。仮にそのユギルを『固定』し細胞の劣化を防げるとしたら?
ウィリアムの視線を受けたノラは、柳眉を困ったように下げて首を傾げた。
「うーん、私契約者を持つこと自体初めてなのよね。色々試してみないと何とも言えないわ。ここに来るまで、中尉にも力の使用は一応控えるようお願いされていたし」
「そっか、まあそうだよね」
ウィリアムは取り敢えず引き下がった。追々調べて行けば良い事だからだ。
(一先ず教師と生徒として信頼関係を築く。『何かあった時に頼るべき大人』としての地位を彼らの中に作り上げる。そうして初めて彼らの情報を真に引き出す……詳細な研究を行える)
ノラは色々な意味で大変稀な精霊であり、ユギルも滅多に訪れないセルトニア人である。教師であり研究者でもあるウィリアムが、この機会を逃す手はなかった。
「じゃあ、暫くは座学に出てもらって大陸の地理や歴史も知ってもらうとして。二人で特訓する時間も設けるから、そこで力の扱いにも慣れていってくれれば良い。今日の所は生活用品を揃えて、学校の見学と行こうか」
ウィリアムは、警戒されない程度の距離感を暫く保つ事にしたのだった。