EP ある少女精霊の話
ユギルがバレンギーナへの入学申請書を書いた日の夜。
宛がわれた学生寮の一室。備え付けの家具が揃った部屋の中で、ノラは木製の椅子に腰かけていた。
ユギルは窓際のベッドで眠っていた。エドウィンはユギルの中だ。底冷えするような夜の冷たい空気はカーテンを引く事で多少緩和されてはいるものの、寒がりのユギルは頭まで布団を被って丸くなっている。
隙間から入り込む月明かりが、僅かにはみ出た青い髪を照らしていた。
(南国育ちには寒いでしょうね)
ノラは椅子とセットの机に頬杖をついた。
今は十一月下旬、大陸の広範囲で冬目前とする気候である。秋の花は枯れ、紅葉は散りゆく。バレンギーナの崖底に注ぐ光は弱く、時折吹く風は乾燥していた。
眩しい太陽と優しい潮風に包まれたセルトニアとは比べるべくもない。
(あの海も洞窟も、暖かかった……)
ノラは目を閉じ、回想する。
精霊とは星を覆うマナが集積し形を持って生まれる存在である。一部精霊が分裂し新たに精霊を生み出すケース等もあるにせよ、結局それも大元は自然を巡るマナで、分配のされ方が変わったに過ぎない。
自我や知性に個体差はあれど、生まれた時に自分がどう生まれ、どういう性質を持っているのかある種の本能として自覚し、その性質に則って生きるのだ。
しかしノラは自然に生まれたわけではなかった。およそまともでない理由で、まともでない人間が創り出した、歪な人工精霊とも言える存在であった。
(……ユギルとエドウィンに聞かれた時は胡麻化したけど)
初めて海底洞窟で会った時、『何故人型なのか』と問われたが彼女は適当な返事をした。
少女精霊が人間の姿をしているのにははっきりとした理由があった。ただ自分が如何にろくでもない生まれ方をしたのか、無垢な少年達に説明したくなかっただけである。
遥か彼方、千年は昔の話である。少女精霊は自分がどう生まれたのか、『何』が代償となったのか、どのような性質を持っているのか、生まれて自我を得ると同時に正確に理解した。
そしてその瞬間自身の誕生を呪った。こうも意味不明なエゴが存在するのかと、滑らかで美しい手の平を見ながら絶望した。
少女精霊を創った人物――つまるところ諸悪の根源は、少女精霊が生まれた直後に死んでいた。自身の偉業を見届けた、恍惚とした死に顔であった。少女精霊はその男の全てが理解出来なかったが、死人を恨んでも何も起こらなかった。
数多の人の死体が転がる地で、立っているのは精霊一体だった。
視界には到底収まり切らない範囲、地平線の向こうまでも、立っている人間は存在しなかった。それを少女精霊は視覚でなく、生まれた時の感覚で理解していた。数多の命は膨大なマナとして、その身に重く圧し掛かっていた。
何をする気にもなれず、さりとて代償になった存在を想えば自己崩壊も出来なかった。
少女精霊が当てもなく大陸を放浪すれば、大多数の人間からは無防備な身寄りのない少女と見られ、ろくな扱いは受けなかった。時折いる善人や懐柔できそうな人間を利用してやり過ごし、人外である事がバレそうになれば言いくるめるなり脱走するなりして離れた。
たまに少女はシャーマンに出会った。一目で精霊であると見破られるが、その身に宿ったマナの量に怯えられ、丁重にヒトの生活圏から離れるよう頼みこまれたものだった。
何十年か経ったある日、少女は糸が切れたように崖から海に身を投げた。もう心が死んでいたのだ。
ただ、ぼんやりと海に身を任せる。流れ流れて、たまに打ち上げられた陸地から、もう一度海に入りなおして。そうして流れて幾百年。
その先で、温かな海に辿り着いた。
(複数の方角からマナが流れ込んで来ている……集積領域かしら)
海底からポコポコと浮かぶ泡のような光、よく見ればその一つ一つが極々小さな精霊であった。
ぼーっと海を流れて続けていた少女精霊が改めて周囲を観察すると、他にも多くの精霊がいた。ひらひらした海藻のような姿の精霊や、陸地を転がるように海の中をゴロゴロと転がり泳いで行くダンゴムシのような精霊。小魚のようかと思えばゆらゆらと不定形に形を変える精霊の群れ。
自由気ままに海にある彼らは、熱帯の海を泳ぐ魚達とも合わさりとても賑やかに見える。
(豊かな海ね)
水温の高さのおかげか、マナの濃さのおかげか、美しい景観のおかげか。
久々に微笑む事が出来た少女精霊は、自分から泳いで見つけた海底洞窟に留まる事にした。暫しこの楽園のような海で、眠りに就く事を決めたのだった。
――その後更に何百年も経ち、一人の少年が現れる。
永い眠りの間に海底洞窟内部と少女のマナが混ざって石のように体を覆っていた。そして中の少女はひたすらに微睡んでいた。
暖かな繭の中、真っ白な空間で揺蕩うような感覚を少女はずっと享受していた。そこに、突然清涼なマナが吹き抜けたのだ。
青く瑞々しい若葉のような、夜明けに頬を撫でる風のような。
こちらを探る気配は、どことなく不躾ではあるものの悪意や不快感を感じさせるものではない。澄んだマナだとぼんやり少女は思った。
少女精霊は、微睡んだまま反射的に手を伸ばした。長らく停滞していた空間にやってきた、他者の刺激を無意識に求めたのだ。
結果マナの破裂により完全な覚醒に至った精霊が出会ったのは、シャーマンの少年と人語を喋るヤドカリ精霊である。
少女のマナに怯えず単に裸に戸惑い、少女と普通にコミュニケーションを取る。言わば普通の少年であるユギルは少女精霊にとっては普通ではなかった。こんなシャーマンを見た事はなかった。少女精霊は話し終える頃にはユギルの事をすっかり気に入っていたし、こんな少年が育つ島なら見てみたいと思った。
実際のところセルトニアはそれどころではない状況に陥っていた。少女精霊はたった一人になってしまった少年を放っておけず、船まで着いて来たのだ。
そして、彼女は少年との契約を思いつく。少女精霊のマナが多過ぎて連邦から疑いの目を向けられている事は分かっていた。その為に今後ユギルに手を貸す事が困難になるだろう事も。
契約によりマナの大半を削れば連邦の疑いの目は減る。なおかつ『まあ何かあっても武力行使が通じやすいだろう』と警戒が弱くなることが期待できる。そして名実共に契約精霊としてユギルの手伝いがし易くなる。
(善良な少年とその相棒を救えるのであれば。その周りの人々も、もしかしたら救えるのであれば)
これはエゴである。
少女精霊は自身の存在そのものが本来あるべきでない歪な現象である、と考えていた。ただ何もせず自己崩壊して星に還る事は、犠牲になった全てを冒涜する行為である。だから全てを記憶して存在し続けていたに過ぎない。
自分の存在が許される理由を、抱え続けたマナを開放する理由を、自身と縁深い少女の望みの成就を、ユギルに見出したのだ。
(それに、ユギルと一緒にいたい)
寧ろ、様々並べ立てた理由よりもそれが一番なのではないか。指先でユギルの魂に触れながら、少女はそれを自覚した。
かくして契約は結ばれる。押し売りも良いところの契約であった。少女精霊の誤算と言えば、存外ユギルに受け入れられていた事だろうか。
少女は契約理由が身勝手である自覚があったので、『相談してくれれば普通に契約した』などと言われた事も、反撃と言うにも可愛らしい愉快な名前を付けられた事も予想外だったのだ。
人型で、マナがやたら多く、自分の情報を殆ど明かしもしない、得体の知れない精霊。そんなのをこうも信用して良いのかとノラは尋ねたかったが、今聞く話でもないと自重した。
(この子は私よりずっと強い)
ユギルは島を昼夜問わず人を探して走り回る間、がむしゃらに焦り取り乱しきっていた。ただ何日か経ってからは傍目には落ち着き、軍人との会話もしっかりこなしていた。それなりに強がっていたとしても、ユギルの精神は壊れていない。芯を保っているとノラは感じていた。
ユギルはバレンギーナへの入学を決めた際も、状況を考えた上で判断していると客観的に見て分かる反応をしていた。白衣の男を見据える金の瞳は冷静で、強い光を放つ。
それを見た男が面白そうな顔をしていたのが、ノラにはなんとなく不愉快だった。
ノラは立ち上がり、ベッドに近づいた。
「私ね、あなたの事思ったよりずっと気に入ってるみたい」
至極小さな声で呟く。左手を伸ばし、布団の山を軽く撫でた。
「ねえユギル、このままずっと老いずに生き続けられるとしたら、あなたはそうしたい?」
返事はない。当然分かっているノラは、ややあって踵を返し、そのまま部屋を出た。
ノラは睡眠は可能だが、本来必要としない。そして未だ夜が明けるには遠く、散歩するには良い風が吹いていた。
一章はこれで終了です。軽く登場人物紹介をまとめた後、二章開始予定です。