アレシアの志
翌日、ドリアに渡す報告書を書き終えたとき、ノックの音がした。
俺は事務机から離れて入口のドアに近づく。
「はいはい、どちら様でしょうか?」
ドア越しに声をかけた。
「失礼します。昨夜はご迷惑おかけしました。憲兵のアレシア・フリゼットです」
その声は間違いなくアレシアのものだった。誰かからのこの場所を聞いたらしい。
俺はドアを開けて彼女の姿を認めた。
「ああ、昨日はどうも。今日はどうなさったんで?」
「その、昨日ご迷惑をおかけしたお詫びに参りました」
「立ち話もなんですから、中で話しますか。お茶ぐらいは出しますよ」
俺はドアを広く開けてアレシアに入るよう促した。
「はい。では、失礼します」
アレシアは遠慮がちに答えた。
一連の彼女の反応からして、ただ礼をしに来たわけではなく、伝えにくいことを言いに来たのは見て取れた。
昨日の同僚たちのやり取りから察するに、アレシアが同僚の憲兵たちに不満を抱いているのは容易にわかる。
となると、俺に話を持って来たのはそれに関することだろうかとうっすら思った。
俺はアレシアをソファに座らせてから、お茶を用意した。今日は部屋の中が蒸すぐらい気温が高かった。アレシアは夏らしく、袖の短いシャツに通気性の良さそうなロングスカートといった格好をしている。
俺ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外して襟のボタンを開け、腕まくりをしていた。
冷たいお茶を用意しようと思ったのだが、あいにく俺は魔法が遣えない。
一応、魔力を使った冷蔵庫が売っているが、この国では高級品で探偵程度の稼ぎで買えるものじゃない。仕方なく常温のお茶を出すしかなかった。
グラスにお茶をいれてアレシアに出した。
「ちょっとぬるいかもしれませんが、良かったらどうぞ」
「ありがとうございます」
と、わざわざ頭を下げるアレシア。
「それで、今日はどういったご用件で?」
俺は探偵としてのスタンスを崩さずに訊いた。
「その前に、冷やしてもよろしいでしょうか」
「かまいませんよ」
俺がそう言うと、アレシアはグラスを手に持った。すると、彼女の毛先がたゆたうように浮かび、身体から冷気が洩れてきた。暑い日には丁度いい。
アレシアは魔法を遣ってお茶を冷やしている。
通常、魔法はロッドなどの道具を介し、魔力を高めてから放つのが一般的だが、彼女は素手だけでも十分な魔力を放てるらしい。
ものの数秒間でアレシアの持っているグラスに霜が降りた。温度差でグラスを割らないようにしたあたり繊細に魔力をコントロールしたらしかった。
「大した魔法ですな」
と俺は褒めた。
「これぐらいのこと、雑作もありません」
謙遜するアレシアだが、表情は明るい。自信のある魔法を褒められてうれしいようだ。
「若いのにかなりの魔法遣いだとお見受けしましたよ」
「そんな丁寧に話さなくてもよろしいですよ。シズマ・ロランド元警部、勇者マヤ・トウリの末裔だと先輩から伺いました」
「そうか、なら遠慮なくしゃべらせてもらおうか。それと、勇者の末裔ってのは冗談だから真に受けなくていいぞ」
「そうでしたか。先輩が真面目におっしゃったものですから、つい信じてしまいました」
「まあ、冗談を冗談と思わない奴なんてわんさかいるから仕方ないわな。で、アレシア、今日はどうしてここへ? 仕事じゃないのか?」
脱線をそこそこにして、俺は本題へ戻した。
「ええ、昨日のことがあって謹慎の命が下ったのです。処分が決まるまで大人しくしていろと」
「まあ、あれだけの騒ぎを起こしたんだ。謹慎を食らってもおかしくないわな。それにしてよくここに来れたな。たしか監視がついているはずだけど」
憲兵が謹慎処分を食らった場合、監視対象におかれて自由行動はできないはずだった。日用品の買い出しに行くのでさえ、担当者に断りを入れなければならないほど徹底している。それが探偵の事務所に寄るのを許可したのが不可解だった。
「担当者に報告したところ、問題ないと言われまして」
「おかしな話だ。自分で言うのもなんだが、探偵みたいな胡散臭い商売やっている奴のところに行くのを認めるなんてな」
「シズマさんが憲兵のOBだからではないでしょうか?」
「それは関係ないんじゃないか。辞めるとき周りとかなり揉めたし、俺のことを気に食わない連中もいるだろうしな」
「そうなんですか?」
アレシアは意外そうな顔つきで俺を見つめる。
「いろいろと複雑な事情があってね。それはいいとしてアレシア、今日は何でここに来たんだ?」
面倒な話になりそうなので、俺は本題に戻した。
「はあ、あの、正直におしゃっていいかわからないのですが……」
と、アレシアはまた戸惑いを見せる。
なんとなく話の内容がわかっていたが、俺はアレシアをじっと見て、続きを促した。彼女は俺に顔を向けたり伏し目がちになったりと迷った素振りを見せる。
おそらくアレシアは憲兵の捜査に関すること、それもアイザックたちの捜査について相談しに来たんだろう。しかし、憲兵が捜査情報を民間人に漏らしていいわけがない。もし、誰かに情報が漏れれば、犯人に逃亡されたり、裏をかいて更なる罪を犯す危険性が増す。一応、俺も元憲兵だが、今では民間の探偵だ。
そこで俺は、迷っているアレシアに忠告することにした。
「アレシア、捜査に関することなら、俺に相談するのは間違いじゃないか?」
「えっ……」
図星だったようだ。アレシアは俺をまっすぐ見つめて、呆気に取られていた。
「民間人に協力を要請するなら、何かしらの手続きってもんがあるだろ。それを一憲兵の独断で相談しに来るのは色々とまずいんじゃないのか?」
「はい……承知していますが」
アレシアは俯きがちに言った。わかっていても自分の胸の内にしまい込んでおくには荷が重すぎて、誰かに相談したかった感じだ。
「アレシアの気持ちはわかる。しかし、憲兵ってのは組織で動くもんだ。個人の独断で動いちゃあ規律が乱れてしまう。アイザックたちに疑いがないって上が認めたら下の人間はそれに従わなくちゃあならない」
「ですが、明らかな罪を見逃すことの方が、民衆に示しがつかないと思いませんか? 憲兵が信頼を失えばだれがこの国の治安を守るというのです」
アレシアは顔をあげて睨みつけるように俺を見据えた。
やっぱり、青臭いな。
アレシアの言っていることは正論だ。それは俺も認める。彼女が言う明らかな罪を見逃しては憲兵はなんのために存在するのかわからなくなる。
ただ、憲兵――というよりはどの組織にいても清濁を飲み合わせなきゃならない瞬間ってのは必ず来る。時には仲間の不正に目を瞑り、世間に漏れないようにふるまわないといけなければならない場面だってある。治安を司る憲兵に不正があったとなっては世間に対する面子が立たないから不都合な真実を糊塗する。
だから、俺は憲兵を辞めたんだ。そんな組織の論理の中で、俺は上手く立ち回れなくなり、探偵を始めた。逮捕権も人を裁く権利も持ち合わせてはいないが、せめて組織の論理に振り回されず、自由に人の役に立ちたいと思い、始めた商売だ。
そこまで考えたとき、俺は苦笑しそうになった。
まったく、どっちが青臭いんだかな。
「なにか?」
アレシアは険のある声で言った。どうやら俺の苦笑が表に出てしまったらしい。
「いや、悪気はないんだ。ちょっと思いついたことがあってさ」
「なにがですか?」
「ああ、おまえさんの――」
と、俺が言ったとき、いきなりドアの開く音がした。
入口に目を遣ると、ドリアがドアに手を添えながら息を切らしていた。
「奥さん」
俺はソファから立ち上がり、ドリアに近寄った。彼女はよほど慌てているらしく、駆け足でここまで来たようだ。
「申し訳ありません。急な出来事が……」
「ちょっと待ってください。ソファにすわって落ち着きましょう」
俺はドリアを抱えてソファに座らせると、すぐにお茶を用意した。
「どうぞ。これでも飲んで落ち着てください」
「すみません」
ドリアはグラスのお茶を一気に呷った。よほど慌てていたらしく、上品な身なりに似つかわしくない飲み方だった。
「こちらの方は?」
と、アレシアが訊いた。
「アレシア、すまないが話の続きは後にしてくれないか。依頼人の話を第三者に聞かせるわけにはいかない」
「ロランドさん」
ドリアはアレシアに構わず言った。すると、ドリアはいきなり俺の胸に縋ってきた。
「落ち着きましょう。客がいるので、ここで話すのはまずい。せめて――」
「お願いです」
ドリアは俺の言葉を遮った。見上げた顔には明らかな恐慌の色がうかがえた。
そして、ドリアは思いがけない一言を告げた。
「しゅ、主人が帰ってこないのです」