追跡
アイザック、ベッツィ、リックの三人がマロー街の裏道を懸命に逃げている。俺はその後を追っている最中だ。
ただのかけっこなら負けない自信があるが、この裏道はかなり入り組んでいてあちこちに曲がり角がある。アイザックたちはこの辺りの地理に明るいらしく、スムーズに逃走経路をたどっているようだ。あと一歩で追いつこうとしても、道端に積んである木箱を崩したり、時には通りすがりの人を捕まえて、俺にぶつけようとした。その度に差が広がり、奴らは曲がり角をくねくねと移動して俺の追跡を振り切ろうとした。
このままでは見失う。
そう思ったとき、アイザックとベッツィが急に足を止めた。
「リック、船屋に行け。このザコに用がある」
アイザックは俺と対峙する気でいるらしい。
「逃げても無駄だよ。あんたを捕まえることぐらい大したことじゃないんだからね」
ベッツィの声に険が帯びた。
「あ、ああ」
リックは二人を置いて逃げた。
「まて!」
俺はリックの後を追おうとした。
「おっと、おまえの相手はこっちだ」
アイザックが行く手を阻む。そして素早く半身の体勢を取ってナイフを構えたかと思うと、鋭い突きを繰り出した。
俺はナイフの切っ先が届く前に左に動いて突きをかわすと、アイザックの手首を左手で掴み、腕をねじ上げた。
「い、が、が」
アイザックの顔が苦悶に満ち、手から力が抜けて地面にナイフを落とした。
俺はさらにアイザックの襟を右手で掴み、目一杯力を込めてアイザックを建物の壁に叩きつけた。
「がはっ」
アイザックが苦しげに呻いた。
「さて、いきなりナイフで人を刺そうとしたんだ。傷害未遂の現行犯って言ったところか」
俺が胸ぐらを掴んで睨みを利かせると、アイザックの顔が怯懦にまみれた。俺をザコと侮った後悔が一気に現れたようだ。
「いい気になるんじゃないよ」
と、ベッツィの声が聞こえた。
俺はベッツィに顔を向けると、奴はロッドで地面を指していた。そして紫の光を帯びた魔法陣が浮かぶ。
嫌な予感がした俺は、アイザックから手を離した。地を蹴り、二人との距離を開ける。
光の中からせり上がるように三匹の狼が姿を現した。
しかもただの狼じゃない。
炎狼というモンスターだ。目の縁が燃え、口の中から溶岩のような光を放っている。鋭い爪で切り裂き、口から灼熱の業火を吐く厄介な相手だ。
街中に呼び出すモンスターじゃない。
「おまえたち、好きにしな。アイザック、早く逃げるよ」
ベッツィはくるっと背を向けて、路地の奥へ姿を消して行く。アイザックが頼りなげな足取りでベッツィを追いかけた。
「くそ! 待て!」
俺は二人を追おうとした。
しかし、炎狼が行く手を遮る。訓練を受けたかのように前衛に二匹、後衛に一匹という陣形を組んだ。
前衛の二匹が後肢のバネを存分に利かせ、襲い掛かってきた。一匹は地を這うように俺の脚を狙い、もう一匹は上空から牙を剥いて俺の首に噛みつこうとした。
俺はあえて地を這う炎狼目がけて駆け出した。宙を飛んだ炎狼の下を潜ったとき、地を走ったもう一匹の方が、脚に噛みつこうとしてきた。
その寸前、俺は勢いを殺すことなく炎狼の鼻っ柱を蹴り上げた。うまい具合にカウンターが決まり、炎狼が後ろへ吹っ飛んだ。
ところが、後衛に控えていた炎狼から橙色の光が迸った。天を見上げ喉を動かしたかと思うと、すぐに俺に顔を向け、大口を開けて炎を吐き出した。
俺はすぐに地を蹴り、炎を飛び越えた。そして炎を吐いた炎狼の横に着地すると、すぐに炎狼の腹を蹴り飛ばした。炎狼は建物に叩きつけられ、地面に落ちた。
残り一匹、すぐに仕留められる。
と思ったとき、最後の一匹がいきなり俺目がけて吹っ飛んできた。自分から飛んだんじゃない。その証拠に俺に腹を見せている。俺は躊躇なくその腹に、右ストレートを放った。拳がめり込み、十分な手ごたえを感じた。炎狼は力なく地面に落ちた。
「大丈夫か?」
女の声がした。裏道の奥に目を凝らすと、憲兵のアレシアがこちらへ走ってきた。彼女が魔法を遣い、炎狼を吹き飛ばしたのだろう。
「ありがと、助かったよ」
俺は軽く礼を言うと、炎狼たちを見回した。三匹とも動けなくなったようだ。
「炎狼、なぜモンスターが町中に?」
アレシアが訊いた。
「ベッツィっていう女が召喚したんだよ。そんなことより、ちょっと失敬」
と断りを入れて、俺はリックたちを追った。時間を食ってしまったが、奴らの逃げ場所に心当たりがあった。後ろからアレシアが喚く声がしたがこの場は無視する。
今朝、リックが船屋の前に立ち寄ったのは、万が一の時に備えて逃走手段を確かめたからだと思った。あの船屋はここから近いはず。なら船を使って逃走する可能性がある。
裏道を抜けだし、川沿いの道に向けて足を速めた。
船屋の前につくと、俺は息を整えた。リックたちはいない。まだ着いていない可能性に賭けて、俺は道を横切り船着き場に降りて行った。
船屋が所有する船が何隻もつながれてあった。船頭は出払っているらしい、と思ったとき、船着き場の奥に影が動くのが見えた。
念のため、足音を立てないよう影の方向へ歩き出した。
「ご苦労さん」
と、俺は影の姿形がはっきり見える距離まで近づいたとき、右手を上げて挨拶をした。
船頭らしき男は黒いローブを着用し、フードを目深にかぶっていた。いかにも魔法遣いといった格好だ。魔力船は文字通り魔力を動力源とするため、魔法遣いでなければ動かせない特徴がある。
「だ、誰だ」
ローブの男が焦りの声を上げる。
「誰だってことはないでしょ。こんな夜遅くに船を出すのが気になりましてね。ちょっと散歩がてらに寄ってみただけ」
「け、憲兵じゃないんだな」
ローブの男はほっとした様子を見せる。
おや、と思った。なぜこの男は憲兵を恐れているのか。
かつての癖が甦ってきたようで、この男を疑う気持ちが芽生えそうだった。だが、今は依頼が最優先、必要なことだけ訊くことにした。
「いやいや。俺はある人を追いかけてたもんでね。こっちの方に三人組の男女が来なかったかとあたりを探していたってわけ」
「ああ、来たぞ」
と、ローブの男はあっさり白状した。
「ほんとうか?」
「さっき、店のもんがあんたの言う三人組を小舟に案内していたな。なんか質の悪そうな連中だったよ」
「ということは、逃げられたあとか」
炎狼との戦闘が思いのほか長引いてしまった。得物があれば炎狼を手早く片付け、三人に追いつけたはずだ。しかし、それを考えても栓のないこと、気持ちを切り替えるしかない。
「ああ、すげえ慌てた感じで、舟がぶっ壊れるぐらいのスピードで川を上って行ったよ」
「今からでも追いつけそう?」
「いや、無理だ。あれからけっこう時間が経っているし、追いかけるだけ船賃の無駄遣いだ」
「なら、仕方ないか。今日のところは引き上げるとしよう。ところで、あんたはどちらさま? なんで憲兵にビビっていたんだ?」
気分転換がてらに訊いてみた。
「ほら、酒飲んで船を動かしたもんだから憲兵が来たのかって。ほら、飲酒操船の罰金が高いからバレたら大変なことになるしな」
と、男は言い訳を述べた。ついでにどこからか栓の開いた酒瓶をこれ見よがしに見せつけた。
「ああ、そう。そうだよな。ははは、気をつけないとな」
俺は乾いた笑い声を上げた。
「でもあんた、気をつけた方がいいぞ」
ローブの男が忠告した。
「なにが?」
「あの三人組、他にも仲間がいるみたいだ。なんか仲間と一緒に始末するとかなんとか話してたからな。もしかしてあんた、あいつらを追っているんじゃなくて、あいつらに狙われているんじゃないか?」
「そんなもんじゃないさ。三人組のうちの一人に用事があるってだけ」
じゃ、と言って、俺は右手を上げて踵を返した。
石段を上がって川沿いの道を引き返して、『ベレヌス』にもう一度足を向けた。そろそろランドルが憲兵を呼んで『ベレヌス』に戻っているころだ。このまま家に帰ってしまうと、憲兵が俺を怪しんで痛くない腹を探られかねない。依頼のことは伏せて今日起きた出来事を話しておく方が得策だと思った。
俺は歩きながら、『ベレヌス』にアレシアが単独で踏み込んできた件、そしてリックがアイザックとベッツィに詰問されている件について考えた。
どうやら今回の依頼、ただの浮気調査じゃすまなくなってきそうだ。あの状況だけならアレシアが連中を連行する理由がどこにも見当たらない。アイザックがリックを脅したのは確実だが、アレシアが踏み込んだとき、その証拠はどこにもなかった。美人局だけならあの場で白を切ることができたはずだ。それなのに、アイザックとベッツィはリックを強引に連れて逃走した。しかも追いかけて来る俺に炎狼を仕掛けるというおまけ付きでだ。
どうやら憲兵たちは俺とは別件で三人を追っているのだと見当がつく。
少々ややこしい事情が絡んでいると思うと、頭が痒くなってきた。ひとまず依頼人のドリア・ザイセンに報告した方が良さそうだ。