税吏の奥さん
依頼人に報告をし、きっちり報酬を受け取ってから事務所に足を向けた。
ウィスティア王国の王都ジスティーヴァの町並みに暮色が広がっている。行き交う人々は一日の仕事を終え、開放感に満たされているようだ。
俺も早いところ事務所に帰り、残務処理をさっさとすませて夜の街に繰り出す気でいた。事務所の店賃、アパートの家賃を払っても釣りが出るほどの報酬が懐にある。せめて今日だけはバーで一杯ひっかけても良さそうなものだ。
浮ついた心持ちを押さえられないまま、仕事場のある建物まで着いた。表通りに面する雑貨屋はこの建物の大家が営んでいて、俺の事務所は路地に入ってすぐのところに入口がある。雑貨屋の裏口と勘違いされそうだが、ちゃんとドアには『ロランド探偵事務所』の看板、つまり俺の事務所の看板がかかっている。
「おっ」
と、俺は声が出た。
入口の前には女性がいる。どうやら客のようだ。
「あ」
女性も俺の気配に気づき、顔を向けた。
「あのう、私に何かご相談でもおありでしょうか」
俺は努めて丁寧に訊いた。探偵といえども客商売、第一印象を損ねてはせっかくの依頼を逃してしまいかねない。俺は人受けのする顔立ちじゃないと自覚しているから、なおさら気をつけないといけなかった。
「あ、いえ、その」
女性は口籠ってしまった。その仕草に羞恥がうかがえ、なにやら相談しにくい依頼を持ち込んできたようだ。
「とりあえず中に入りましょうか。ここだと話しにくいでしょう」
「え、ええ、ではお言葉に甘えて」
女性が一歩退くと、俺は事務所の鍵を開けて彼女を中に通した。
俺は女性を応接セットのソファに座らせると、窓際にある事務机の一段目の引き出しに今日の報酬を収めて鍵をかけた。机の上からペンと紙を手に取り、女性の対面に腰かけた。
改めて女性を見ると、どうやらどこぞの貴婦人だと見て取った。着ている服は若干着古しているものの手入れが行き届いている。
抱えるようにして持っている黒いバッグが光沢を放っている。このバッグはその筋では有名な職人が作ったもので、ファッションに聡い婦人に人気のものだ。
ただこの人は、おとなしそうな雰囲気のわりには化粧が濃かった。おそらく目尻に刻まれた皺を隠すためなのだろうが、少しけばけばしい観がある。もしかしたら、化粧の裏には苦労が滲み出ているのかもしれない。年の頃は四十歳ぐらいと見た。
かなりの依頼料が見込める、と一瞬思ったが、それはまずいと思い直した。金持ちだろうが貧乏人だろうが報酬は仕事の内容次第で、身分の貴賤で決めるもんじゃない。人によって依頼料を変えては、足元を見ていると思われて信用問題になりかねない。
俺は、はやる気持ちを抑えていつも通りを心掛けようとした。
「それで、今日はどういったご用件で?」
俺がそう訊くと、女性ははっとなり顔をあげた。
「は、はい、あの」
女性はまだ決心がつかずにいた。
俺はなんとなく依頼の内容が掴めたが、こっちから言うのは礼儀にもとる。
「ゆっくりで良いですよ。落ち着いてから話しましょう。ああ、申し遅れました。私、シズマ・ロランドと申します」
と、話しかけて彼女の言葉を待った。
「はい、こちらを紹介してくださった方からあなたのことを伺いました。なんでも、勇者の末裔だとか」
「ああ、それは場を和ませるための冗談ですよ。誰かが真に受けてしまったんでしょうな」
夢の中に勇者が現れる、と言っても信用するわけがないので俺はそう濁した。
「そうですよね」
女性はほっとした様子を見せる。たわ言だと知れてむしろ安心したようだ。もし俺が本気で勇者の末裔だと言い聞かせたら、却って信用を失うだろう。ここは真実を隠しておくに限る。
「まあ、少し落ち着きましょう。よろしかったらお茶でも入れましょうか?」
「いえ、けっこうです。あの、最初に確認しておきたいのですが」
女性はおずおずと訊いた。
「なんでしょうか?」
「依頼の内容が誰かに知られるということは?」
「それは心配いりません。依頼人の秘密を守るのが探偵の必須条件ですから。もちろん犯罪の片棒を担ぐ真似はしませんがね」
俺は冗談っぽく言って場を和ませようとした。
「なら、お話してみようかしら」
と、女性はようやく用件を切り出した。
彼女はドリア・ザイセン、貴族の子弟リック・ザイセンの夫人だ。
リックは次男だったため跡を継げなかったものの、頭の出来は良かったらしく税吏として登用された。傑物というほどはないが、仕事ぶりは堅実で同僚からの評判は良かったという。私生活でもドリアと結婚し、二児を設けた。税吏らしく家庭でも金の扱いにはうるさいが、家事や子育てを手伝ってくれる良き父親だとドリアは言う。
ところがここ最近、真面目なリックに異変が訪れた。ほんの少し前では夕暮れ過ぎには家に帰り、家族と一緒に団らんのときを過ごしていた。だが今となっては、夜遅くに帰るのは当たり前、しかもしこたま酒を飲んで帰ってくるという。妻と子どもを大事にしていた男とは思えないほどの変貌ぶりだった。
「なるほどねえ。酒飲んで夜遅く帰る、か」
俺は半ば確信した。真面目な男が遊びを覚えると言えばパターンは限られる。とはいえ、こちらから口にするのはデリカシーに欠けるので、彼女の言葉を待った。
「ええ、夫の変わりようには驚きました。事情を夫に訊こうとしましたが、うるさいと一喝されるだけなので、ほとほと困り果てておりましたわ」
ドリアは俯きがちに言った。スカートを強く握りしめ、気持ちを紛らわせていた。
「それは大変ですな。奥さまもご苦労なさったようで」
俺はあえて寄り添う姿勢を見せた。彼女の味方をすることによって心を開かせ、もう少し情報を取っておきたかった。
「ええ。ですが、夫も悪いと思ったのでしょう。先日の結婚祝いに、このバッグをプレゼントしてくれたのです」
ほう、と俺は胸の内でつぶやく。俺が欲しかった情報を彼女が進んで話してくれた。
税吏のみならず官吏という職業は、権力こそあるが高い給金をもらっているわけではない。ドリアが持っているバッグはかなりの高級品なので官吏が買うとなれば普段の生活費を切り詰めて金を貯えないと買える代物じゃない。
ドリアの身なりから金を持っていると思ったのだが、それは俺の見当違いだった。
「それで、奥さんはなぜそのバッグを旦那さんが買えたか不思議に思っていると」
「はい。もしかしたら夫が浮気をしているのではないかと、不安になったのです」
「浮気、ですか」
そいつを思いつくかね、と俺は胸の内でツッコんだ。
「ええ、外に愛人がいる後ろめたさからわたくしに高い品物をプレゼントしたのですわ」
「そこまで言うなら、なにか証拠でもおありでしょうか?」
「あ、はい。先ほど言い忘れていましたが、先日夫が帰ってきたとき、わずかに香水の香りがしたのもですから」
なら浮気を疑ってもしょうがない。
「ああ、そういうことでしたか」
「ですので、夫が何をしているのか調査していただけたらと、ここを訪ねてきたのです」
「了解しました。ちょうど溜まっていた仕事が片付いたものですから、お引き受けします」
「よかったわ」
ドリアはため息を吐いてほっとした様子を見せる。
「早速でなんですが、経費についてご相談したいのですが」
「はい」
ドリアはバッグの中から小袋を出した。それをテーブルの上にそっと置いた。
「これは?」
「金貨二枚入っております。それで足りますでしょうか?」
「必要経費がいくらかかるかに寄りますが、金貨二枚なら十分足りるでしょう。もし余ったらおつりはお返しします」
と言いながら、俺は内心驚いていた。なにしろ、ウィスティア王国の貨幣価値だと金貨一枚で家族が一月暮らせるからだ。それをためらいもなく二枚を出すのだからこのご婦人、かなり思い切ったもんだ。
それからリックの身体的特徴、仕事の内容、プライベートのことなどドリアの知る限りの情報を訊き出してから、彼女を見送った。
簡単な浮気調査で済むな、と俺はこのときは思っていた。
だがその予想は、調査が進むにつれ勘違いだと気づかされることとなる。