弐の2 学校の授業で教わったじゃないですか
下校時刻の繰り下げは、生徒たちにとって大きな関心ごとをはらんでいる。女子の安全確保のため、帰り道が同じ方向の男が、必ず自宅まで送り届けること、複数であっても女子だけには絶対させないことを、学校側から申し付けられるからだ。
前の年と同じことの繰り返しだから、そうなると事前に分かっている。だれがだれに責任を持つのか。男女とも組み合わせをめぐって浮かれた気分になっているのを、進藤は数日前から、目と耳で感じていた。
「進藤くん。帰りにわたしを守ってくれる?」
下校時刻繰り下げの当日になって声を掛けてきたのが、優子だった。優子とは、その年に初めて同じクラスになった。
「あれ。古河さん、家どこだっけ」
「松町よ。進藤くん、港町でしょ」
「なんだ、お隣さんじゃないか。全然知らなかったな」
「どうなのよ。か弱いお姫様を、宮殿まで送り届けてくれるの。王子様」
「うん。一緒に帰ろう」
優子とは別のクラスだった前の年には、進藤は、男二人で女子二人の面倒を見た。今回は、優子からしかボディーガードの依頼を受けなかったし、優子がほかの男女とそんな話をしている様子もない。
その晩、進藤は優子と示し合わせて校門を出た。連日の全校一斉下校が続いているから、帰り道は大勢の高校生であふれている。きのうまでと違うのは、すっかり夜のとばりが下りてきていることだ。進藤と優子は、同じクラスの他の男女グループと固まって、夜の歩道を幅いっぱいに広がって、にぎやかに雑談しながら歩いた。
「先に失礼するぞ」
「お先に。ばいばい」
自転車通学組は自転車通学組で、男女がペアやグループになって車道をすり抜けて行く。自転車を押して徒歩通学組と行動を共にする者もいる。
交差点を過ぎるごとに人ごみはまばらになり、用水路沿いの道で、進藤は優子と二人きりになった。きのうまで優子はだれと一緒に帰っていたのだろうか、一人だったのだろうかと、進藤は振り返ってみた。思い出せない。クラスでなんとなくまとまって下校していたのだが、この日初めて二人きりになった場所より手前で進藤の本来の通学路に分かれるから、優子のその後の成り行きを見ていなかった。
優子を安全に自宅まで送り届けるために、進藤は少しだけ遠回りしなければならない。初めて二人で歩く夜道で、進藤と優子は、たわいもない話をしながら並んで歩を進めた。
「進藤くん、もうテニスやらないの」
「うん。燃え尽きちゃったんだ」
答えながら、進藤は心の中で首を傾げた。進藤が部活動でテニスに燃えていたのは中学校の三年間のみ。校外で名が売れるほどの活躍は、残念ながらしていない。進藤の住む港町と優子の松町は、隣町で小学校の学区は一緒だが、中学校では別の学区になる。進藤の中学時代を、優子は知らないはずなのだ。その疑問を進藤は優子にぶつけてみた。
「だって進藤くん、この先の道をさ、自転車にラケット積んで元気に学校通ってたじゃない」
「なんだ、見られてたのか。そうなんだよ。すれ違うんだよねえ」
進藤は納得した。
港町と松町の間には、深いわだかまりがある。二つの町を含め学区に抱える中央小学校は、卒業する児童が、三つの公立中学校に分かれて進学する。その進学先をめぐり、この二つの町は腸ねん転状態にある。
明らかに東部中が最寄りの港町は、ずっと遠くの西部中に通わされ、逆に、少なくとも港町より西部中寄りの松町が、東部中の学区に振り分けられているのだ。
だから、港町の進藤たちは西部中に登校する途中、東部中に登校するかつての小学校時代の同級生と道路上で対面し、お互いすれ違うという、奇妙な現象がまかり通っていた。
「西部中は遠くてつらかったよ」
「自転車通学ができて良かったじゃない。歩きで東部中のわたしたちの方が、重い通学かばん持たされてきつかったかも」
「なんでこんなことになったかっていうとさ、港町に小児科医院があるじゃん。あそこの何代か前の院長が、『長距離通学で鍛錬させて、強い子どもに育て上げなきゃいかん』とか町内会で言い出して、おれたちはあんなへき地に飛ばされることになったらしいよ。その院長、有力者だったんだって」
「わたしは、過保護な松町の親たちが、西部中より栄えてる東部中に軟弱なわが子を通わせようとしたって聴いた」
「ゲリマンダーだな」
「ゲリマンダー?」
「アメリカの選挙でさ、候補者が自分の有利になるように選挙区を複雑に線引きして、それが伝説上のトカゲの形に似てたっていう。一年のころ現代社会でやった、あの、あれ」
「そうだ、ゲリマンダーだ。おっかしい、ゲリマンダーだ」
優子はかばんを持たない片手で腹を抱えて笑った。
(「弐の3 母と娘のやり取りに圧倒されました」に続く)