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ネコ文明  作者: 虎ノブユキ
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 I Have a Dream

 私には夢がある……。



 その日もアキコさんの帰宅は、午後7時ちょうどだった。


「……ただいま」


 私は「ミャ~」と鳴き、アキコさんの足に体をすり寄せたが、すぐにアキコさんの行動の邪魔にならぬよう、その場に腰を下した。


「ごはんごはん」


 アキコさんは真っ先に私の餌を用意し、私が食事する姿をしばらく見つめていた。

 私は食べることに夢中になっているふりをしたが、明らかに元気がないアキコさんが気になり、その横顔をちらちらと見てしまった。


「ん? どおしたの?」


 アキコさんはそう訊いて首を傾げたが、やはり、その顔は以前とは違っていた。

 以前は、「ただいま」のときも、「ごはんごはん」のときも、私の食事を見つめるときも、私がアキコさんを見ると、「ん? どおしたの?」と訊くときも、常に、アキコさんは笑顔だった。

 アキコさんは明るく元気で、仕事から帰ってきたら真っ先に私を抱き寄せ、満面の笑みで頬をすり寄せた。そう、以前は……。

 

 コンビニで買ってきたであろうサンドイッチをひと口ふた口食べ、シャワーを浴び、しばらくぼうっとテレビをながめ、アキコさんはベッドに入った。

 しばらくして、私はアキコさんの隣で体を丸めた。

 アキコさんは布団から手を出し、私の背中をそっと撫でた。数日前ならこのタイミングでアキコさんは泣いていたのだが、その時にはそれすらもなくなっていた。

 アキコさんはただただ私を撫で、じっと、ずうっと、ただただ一点を見つめていた……。



 ……アキコさんが笑わなくなった理由は、その日から更に半年ほど前の出来事にあった。

あの日、帰宅したアキコさんはドアを開けると、崩れるように玄関に倒れ込んだ。出迎えた私はいつも通り、「ミャ~」と声を出そうとしたが、思わず躊躇(ちゅうちょ)した。そしてアキコさんはそのまま大声で泣き続けた。泣き続け、涙が枯れ果てた頃、じっと座って待っていた私を抱きかかえ、ぎゅっと抱きしめた。


「……試験、だめだった」


 予想していた言葉だった……。

 国立国会図書館職員、総合職。それは特別職国家公務員という立場になるらしい。資格試験は年に1回、合格率はわずか1パーセント、受験は29歳まで。その厳しい試験に挑んだアキコさんは、1次、2次と進み、3次の最終試験、人物試験、いわゆる個別面接に進んだ。だが、その個別面接の前日、「試験に合格したら結婚しよう」と約束してた彼氏に、アキコさんは別れを告げられた。8年間付き合った人だった。

 そしてアキコさんは、最終試験で不合格となった。

 その年が最後のチャンスだった……。


 本や歴史書が好きで好奇心旺盛、物事を深く調べるのが好きなアキコさんは、国立国会図書館職員になり、調査業務という、国会にも影響を与えるその仕事に就くのが夢だった。そして結婚して、幸せになるのが夢だった。

 私はこの8年間、ずっと、アキコさんの挑戦を見てきた。そして応援してきた。まさにアキコさんのその夢は、私の夢でもあった……。

 

「私、どうしよう、これから……」

  

 あの日から、アキコさんは本を読まなくなった。それどころか、好奇心そのものがなくなり、まるでこの世の全てに興味がなくなったかの様になっていった。

 以前は本屋で働いていたアキコさんだが、陳列された本を見るのも辛くなり、今は本屋を辞め、食品加工会社で働いている。誰とも話さないですむその仕事を終え、誰とも会わずにまっすぐ家路につき、何もせず、アキコさんはただただ毎日を過ごしてきた。

 笑顔も見せなくなり、しだいに涙もみせなくなり、アキコさんは魂が抜けたように、いつまでも、ぼうっと、ただただ、遠くを眺めていた。



 ……そして、半年ほどが経った。

布団の中でじっと一点を見つめ、私を撫でていたアキコさんが徐に言った。


「明日からお母さんの家にお泊りだよ」


 それは、私をアキコさんの実家に預けるという意味だ。以前にもそんな事はあったが、今回は嫌な予感がした。

 そして、その予感は、最悪な当たり方をしてしまう……。


 ……アキコさんが自殺を図った。


 「旅行にいくから」という理由で私をアキコさんから預かったアキコさんの母親は、アキコさんの異変に気付いていた。母親はすぐにアキコさんのマンションに向かい、合鍵でアキコさんの部屋に入った。そして、水を張った浴槽に右手を浸け、ぐったりしているアキコさんを見つけた。浴槽は真っ赤だった。

 一命を取り留めたアキコさんは、それからしばらく、母親と暮らすこととなった……。



 そして今日、アキコさんは母親つき添いのもと、荷物などの整理のため、久しぶりにあのマンションに行くこととなった。部屋を引き払い、このまま実家に戻る準備だ。私は「お留守番」と言われたが、「ついてきたい」アピールを必死でした結果、一緒に行けることとなった。

 私には、どうしてももう一度、あの部屋に行きたい理由があったのだ……。


 アキコさんは部屋に入ると、すぐに必要な物と処分する物の選別を始めた。必要な物は宅急便で送り、処分する物は後日、業者が運び出す。ほとんどの物や家具は処分対象で、案の定、全ての本が処分対象だった。母親も手伝い、凄いスピードで選別が進む。できるだけ滞在時間を短くしたいのだ。 

 私にも時間がない。すぐに私は、書斎にあるその処分対象の大量の本の中から、あるジャンルの本を探した。そして、巨大な本棚の一角に固まって30冊ほどある、そのジャンルの本を見つけた。()()に関する本たちだ。

 私は本棚に飛び乗り、その猫の本を一冊ずつ床に落とした。30冊ほどの本を全て床に落とした頃、アキコさんが書斎に入ってきた。


「あれ? どおしたの? これ?」


 私は「ミャ~」と鳴き、床に飛び降りた。

 そして、一冊一冊に無数に挿まれた付箋ふせんを口にくわえ、その一ページ一ページをめくった。ページの文章の至る箇所に、黄色いマーカーで引かれた線がある。


『はじめての猫の飼い方』『ストレス解消法』『猫からのサイン』


 全て、初めて猫を飼うアキコさんが勉強した痕跡(こんせき)だ。私は必死でページをめくり続けた。次第にアキコさんの表情が変わっていく。かつての、何かの感情が蘇ってくる表情だ。


『消化酵素の補助』『嘔吐おうと、吐き戻し』『猫の消化器疾患』


 8年ほど前、私は保護猫センターでアキコさんと出会った。アキコさんは先天性の消化器疾患を持っていた私をあえて選び、引き取った。その日からアキコさんの、怒涛(どとう)の猫知識インプットが始まる。

 これらの本には、アキコさんの調べる喜びと、好奇心と、執念と、そして、私への愛が、びっしりと、濃厚に、幾重(いくえ)にも重なって詰まっていた。

 おかげで私はこの通り、すっかり元気になった。


 私はあえて部屋中を走り回った。「アキコさんのおかげでこんなに元気になった」と言わんばかりに、ダッシュして、机に飛び乗って、飛び降りて、急カーブでドリフトして、私は渾身の力で、精いっぱいアピールした。アキコさんの表情が更に変化していく。明らかに感情が、心が、戻ってくる様な表情だ。

 走り過ぎて疲れた私は、アキコさんの隣で腰を下した。アキコさんは私の頭を撫で、そして、私を抱きしめた。


「すごいね、ありがと、ごめんね……」


 泣いているアキコさんを見るのは久しぶりだった……。



 ……アキコさんはよく私に夢を語ってくれた。

 私はそのアキコさんが語る夢の世界が大好きだった。その笑顔が大好きだった。


 もう、半年以上、アキコさんは笑っていない……。


 I Have a Dream 

 私には夢がある。

 それは、再びあなたが夢をもつこと。

 

 I Have a Dream

 私には夢がある。

 それは、再びあなたの笑顔をみること。

 

 …… I Have a Dream


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