ついに見つけたパラダイスとは?
「中卒で働き始められたのですか?」
「そうです。
その頃は中卒で働くのはそんなに珍しいことではなくて、
東北地方から、中卒者が集団就職などと言って
汽車で集団で都会へ出てくる様子がニュースになったりしてましたよ。
私はといえば、
たまたま、『愛の家』のお母さんの知り合いの人の紹介で
人形町にある帯の問屋さんへ住み込みで勤めることになったんです。」
「帯の問屋さんですか?
帯とか和服とかにご興味があったのですか?」
「いいえ。全くそんなものありませんよ。
とにかく、『愛の家』から出られればなんでも良かったんです。
衣食住が得られるなら、何でもよかったんです。」
「帯の問屋さんのお仕事って、どんなことをするのですか?」
「問屋さんと言っても個人商店のようなもので、
ご主人が社長さん、
息子さんと娘さん夫婦が取締役で、
息子さんが経理を担当、
義理の息子さんが営業担当
娘さんが、社員の面倒を見るみたいな感じでしたね。
その他には番頭さんといわれる中年の男性が3人いて、
営業やお客さんの応対をしていましたね。
僕たちは小僧さんと呼ばれていて7人ほどいました。
古い人はもう5~6年勤めていて、
番頭さんがいない時とか忙しい時には
営業やお客さんの応対もやっていましたね。
あとは、納品。
デパートへも納品していたんですけれど、
デパートの場合は値札を1つ1つの商品に付けてから納品するので、
その値札付けの作業が結構多かったですね。
僕は値札付けの作業って、いやではなかった。
結構気に入ってたかも。
とにかく、黙って手を動かしていればよい。
その間、いろいろなことを考えていられるのが、
楽しかったですね。
3度の食事は住み込みのお手伝いさんが用意してくれるので、
心配はありませんでした。
しかし、不文律の掟のようなものがあって、
序列のようなものが厳然としてありましたね。
社長と取締役は別格ですから、置いておいて、
何といっても一番権力があるのは
番頭さんの中でも大番頭
この人の言うことは絶対ですね。
それから、番頭さん
そして、小僧さんになるわけですが
小僧さんも古い人が一番権力を持っているわけです。
だから、上の人の言うことは絶対に聞かなければならない。
靴を磨いておいて、というのも、
布団を敷いておいて、というのも
お前は食事は後にして、先にこれをやりなさい、というのも。
大番頭さんは番頭さんに命令し
番頭さんは古株の小僧さんに命令し、
古株の小僧さんは次に古株の小僧さんに命令し
最後は僕の所へ来るわけですよ。
僕の下はいないわけですから、
僕の所へ来たことはみんなやらなければならなかった。
どんな雑用でも。
衣食住がついているのだから当然だけど、
お給料は本当にわずかだったな。
正にほんのお小遣い程度
休みの日には、映画を見に行って、
ちょっと、甘いものでも食べれば消えてしまう。
そんなものでしたね。
そんなこともあってか、
休みの日には連れだって映画を見に行くことが
ほとんどでしたね。
そう、そう、映画と言えば、
見ちゃったんです。僕。
凄いもの
ニュース映画で。
何だと思います?」
「さぁ、何でしょう。」
「『精神病院の今』とかっていう題名だったと思うんですけど、
精神病院の内部の模様のルポのようなのを見ちゃったんですよ。
見ていたら、
笑っている人も
大声で叫んでいる人も
泣いている人もいるんです。
ただ、歩き回っている人もいる。
それなのに、誰も不思議にも思わないで、
それが当たり前のこととして、
通り過ぎていく。
まさに衝撃でしたね。
こんな世界があるなんて!
笑っても良い、
泣いても良い、
大声を出しても良い、
歌っても良い、
こんな世界があるんだ!
まさに、これぞ!パラダイス!
そう思ったんです。
そして、それからというもの、
何とかして精神病院で暮らしたい
パラダイスで暮らしたい
と、考えるようになったのです。」