濡れ衣
『何やってんだ!
放せ!
その汚い手を放せ!』
と、どこかから罵声がとんできたんですよ。
もちろん、僕は驚いて、
自転車から手を放しました。
すると、
『おい。自転車ドロボー。
おまえ、俺の自転車になんてことしてくれたんだ。
まさか、傷つけたりしてないだろうな。
大体、この自転車盗んでどうするつもりだったんだ。
どこかへ売り飛ばそうってのか?
この自転車には1台1台登録番号が付いてるから、
どこの誰の持ち物か、すぐ分かるようになってんだ。
そんなことも知らないで、盗むなんて、
アホなドロボーだな、お前は。』
騒ぎを聞きつけて、
すぐ近くの駅前交番からお巡りさんも飛んできましたよ。
すると、
『こいつ、この自転車を盗もうとしたんですよ
自転車ドロボーです。
私が気が付いたから良かったものの、
もう少しで、盗まれるとこだった!』
お巡りさんがその男に言ったんです。
『鍵はかけてなかったのですか?』
すると、男は、
『お巡りさん、いい加減、冗談やめてくれませんか。
この自転車を何だと思ってるんです?
ツール・ド・フランスに出た車なんですよ。
少しでも軽量に、軽量にと苦心して作られたバイクに
鍵なんか付いてる訳ないじゃないですか。
それに、そこのスタンドへ新聞を買いに行くだけだったんだし』
私の眼からは涙があふれてきました。
すると、
『泣いてるのか?
盗人のくせしやがって。
泣けば許してもらえるとでも思ってるのか?
このドロボー奴
一体何の涙だ、
悔し涙か
後悔の涙か
懺悔の涙か
何なんだ
言ってみろ』
僕は何も言えなかった。
お巡りさんが、まあまあ、と、その人をなだめて、
僕に聞いたんだ。
『この自転車が欲しかったの?』
僕は慌てて激しく首を横に振りましたよ。
すると男は、
『私は見たんですよ。
こいつが盗もうとしているところ
現行犯ですよ。こいつ!』
僕は泣きじゃくりながら、
たおれていた自転車を起こそうとしただけだと
懸命に言いましたよ。
それがお巡りさんに通じたのか、
お巡りさんがその男に言ってくれたんだ。
『まあ、まあ、腹も立つでしょうが、
本人は盗む気はなかったと言ってますし
まだ子供で将来もありますからね。
この辺で勘弁してあげたらどうですか?』
すると、その男は
『子供の将来?
こいつの将来?
泥棒の将来は大泥棒に決まってるじゃないか。
窃盗犯として告発してやってくださいよ。』
と言うんです。
お巡りさんは
『しかし、
自転車の位置はほとんど変わっていないわけですし、
目撃者はあなた一人
そして、本人は自転車を立て直そうとしただけと主張しているわけですから、
告発したとしても、起訴にはならないでしょう。』
すると、男は
『一体俺がどんな気持でこの自転車をイタリアから買ったと思ってんだ』
お巡りさんが
『もう、この辺で勘弁してやってください。』と言うと
『仕方がない。お巡りさんがそういうのなら、許してやるけど、
起訴にならなくても、
とにかくこいつが自転車ドロボーの未遂犯だということは
きちんと記録に残しておいてくださいよ。
そうでも、なくっちゃ腹の虫がおさまらないよ。』
と、言います。
お巡りさんは、分かりました。分かりました。と言ってから、僕に
『君、あの『愛の家』の子だよね。
本当は保護者に迎えに来てもらうんだけど
『愛の家』は、今頃一番忙しい時だと思うから、
迎えは呼ばないけど、一人で帰れるか?』と聞くので、
僕が大きくうなずくと
やっと釈放してくれたんだ。」
「良かったですね。
無実の罪にならなくて」
「まあ、良かったと言われれば、そうかもしれないけど、
その後が大変だったんですよ。