集団疎開から帰ってみたら
「一体どうしたんですか?」
「行くときは赤羽からだったんですが、帰りは上野駅だったんです。
汽車が到着したのが。
各家庭には前もって連絡がいってたようで、
上野へ出迎えの方が来ていたんです。
お迎えは、お母さんがほとんどでしたね。
近所の家の子のお母さんが、
『あなたのお母さん来られないから、おばさんと一緒に帰ろうね。』
なんて言って、
3~4人を一人で引き連れて帰っていった人もいましたね。
ところが僕の所には迎えが来ないんです。
母が迎えに来てくれると思っていたのに、来ないんです。
ずっと、待っていたけど来ないんです。
本当にどうしたのかと思ったのですが、どうしようもない。
そのうちに夜になって、
でも、まだ、母は現れない。
もう、夜の9時頃になっていたかな?
それでも、改札口の近くから離れないようにしていたんです。
母が来た時にすぐ見つけられるように。
そしたら、
遅い汽車から降りてきた女の人が
『どうしたの?
お迎えが来ないの?』
と、聞くんです。
僕は、
『ええ、でも、間もなく母が来ると思います』と言ったんです。
その方が、
『何時ころから待ってるの?』って、聞くから
『午後2時ころから』って、答えたら、
『お母さん、何かの都合で来られなくなったのかもしれないわね。
とりあえず、おばさんの家に来ない。』と言われて、
しばらく迷ったのだけれど、ついていくことにしたんです。
いやぁ、あの方に巡り合えて本当に僕はラッキーだったなぁ。
あの方に巡り合えなかったら、
僕は、戦災孤児の浮浪児になっていたかもしれない。」
「え? でも、お母さんがいらしたのでしょ?
お父様も、出征はなさっておられても復員なさるはずですよね。」
「後で分かったんですが、
父が出征して、僕が集団疎開へ行ってしまって、
一人ぼっちになった母は、広い家に一人で住んでいても仕方がない、
ということで、生まれ故郷の本所の菊川町というところへ移転していたんです。
父と僕がいつでも戻ってこられるようにと、
住居の移転はしなかったようなのですけど。
ところが、その後、三月九日から始まった大空襲。
その空襲で母は亡くなったらしいのです。
僕の父も母も関東大震災で、孤児なっていたので、
親類縁者なんてものはいなかったんです。
だから、母が亡くなったらしいというだけで、
誰も母のことは知らないから、
遺体だって、どこへ行ってしまったのか、
まったく分からなくなっていたんです。
父の方も行方不明だったようで、終戦の翌年くらいになってから、
戦死の公報が届きました。
だから、その時には分からなかったけれど、
僕は戦災孤児だったのですよ。
あの方に声をかけてもらえなかったら、
僕は浮浪児になって、上野の地下道の片隅で死んでいたかもしれない。
むしろその確率の方が高かったと思いますね。
なにしろ、戦争孤児は12万人もいたというのですから。」
「12万人も⁉」
「そうなんですよ。
その方は、お金持ちの未亡人で、
(未亡人って、なんだかやな言葉だな)
長野に別荘があったんですね。
その別荘からの帰り道に
僕のように迎えがない児童を見つけると、
かわいそうに思って自宅へ連れ帰って育ててくれたんです。
だから、その家は『愛の家』と呼ばれていて、
僕たち孤児はその人をお母さんと呼んでいたんです。」
「それは、良かった。」
「本当に幸運でした。
そして、『愛の家』から中学校へ通うようになりました。」