集団疎開
「集団疎開へいらしたんですか・・・」
「行きましたよ。
というより、行かないわけにはいかなかったのですから。当時は。
児童は地方に親類縁者がいる者は縁故疎開、
いない場合は集団疎開することが決まったんですよ。
そして、都会の学校はすべて閉鎖。
僕たちの学校は群馬県の榛名山にある榛名神社の坊へ集団疎開しましたね。
ひろ~い大広間のようなところで、100畳くらいあったのかなぁ?
そこへ7~80人の児童と保母さんが暮らしたんですね。
食事も、勉強も、遊ぶのも、そこでするわけです。
かなり急な山の側面に立っている建物ですから、広い庭はありませんでした。
「寝るときは?」
「もちろん、寝る時も、そこですよ。
それぞれ布団を敷いて寝るわけですが、
1人が使えるスペースは1畳くらいしかないので、
こっちへはみ出したとか、はみ出さないとか、小競り合いがありましたね。
衣類やその他の私物を収納するスペースも狭くて、苦労しましたよ。
食料は配給でしたから、お腹がすいてすいて。
女の子はお手玉に入っていた小豆を食べたり、
男の子はアケビをとってきて食べたり、もちろん、先生に見つからないように行くんですけどね。
トンボを食べたって子もいましたね。
僕は、榛名へ行くと、急に小児ぜんそくがぶり返したらしくて、ほとんど寝ていましたけどね。
だから、アケビを取りに行くこともできなかったし、トンボをとることもできなかった。
天井板の節目を数えながら、よく考えていましたよ。
親がいなくなって、自分だけ生き残ったって意味ないんじゃないか?って。
それ以前に、親が死ぬのなら親と一緒に死にたいと思っていましたね。いつも。」
「辛かったでしょうね。」
「辛かったといえば辛かったですけど、
一番辛かったのは泣けないってことでしたね。」
「泣けない、ですか?」
「そうなんです。泣いてはいけないんです。
疎開に行った初めての日。
その日はまあ、みんな半分遠足気分でむしろ楽しい気分だったんですね。
ところが2日目になって、このまま家には帰れない、
ずっとここにいなくてはならないということが実感されるわけです。
寝る時になって、一人が、泣き始めたんです。
『うちへかえりた~い』と言って。
そうしたら、あっちでも、こっちでも、泣き始めて、
涙の大合唱になってしまったんです。
先生も困ったんでしょうね。
みんな、泣くんじゃない。
戦地でみんなのために戦っている兵隊さんのことを思いなさい。
みんなのために、死んでいくんですよ。
それを考えたら、家に帰りたいから泣くなんてとんでもない。
泣くのは禁止!
って。
それ以来、みんな泣くのはやめたんです。
そして、それからは、布団に顔を隠して、
声がもれないように、みんなしくしく、いいながら、
泣くのを懸命にこらえていましたね。
あれは結構きつかったなぁ。」
「感情を表に出せないということは辛いですね。」
「そして、終戦、
正直、良かったと思いましたよ。
それまでは死ぬんだと思っていましたから、
死ななかったんだ、と思いましたね。
といって、特に嬉しいとか、そういうのじゃなくて、
長い雨が降りやんで、ああ、雨が上がったのか、というような感じかな?
でも、数分経って、また、昔のように暮らせるのだと気が付いたとたん、
嬉しさが爆発しましたけどね。」
「良かったですね。」
「ところが、あなた、
意気揚々と疎開から帰った日、
どうなったと思います?」